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ヒステリーと傷痕

 その事件は唐突に起きた。

 いや、本人からしてみたら、その他大勢の1人としか扱われない親友の目を覚ましてやろうと考えての行動だったのかもしれない。

 珍しく部活動の真似事をしていた錦織以下一部のサッカー部員達が、女子達と楽しくおしゃべりをしながら校舎に引き上げようとするその進行方向に一人の小柄な少女が立ち塞がった。葵である。


「私の友達を返して!」


 葵が普段は見せない厳しい目付きでこう言い放つ。それは本人の了承を得ないままの暴走だった。

 黄色い声であふれていたサッカーコートの片隅が緊迫した雰囲気に一転する。

 騒ぎの中心人物である詩音はただただ戸惑うだけだった。

 一度は強気の態度で葵に接した詩音だったのだが、それが大勢の前となれば話は別と、普段の弱気を取り戻し、助けを求める視線を錦織に送るのだが、錦織は詩音からの無言のメッセージに気付かない。

 いや、気付こうともせずに口を開く。


「君は勘違いしているよ。僕は強制してるわけじゃない。彼女がしたくてしているんだ。ねえ」


 その声は甘くとろけるように艶やかな声だった。

 しかし、その瞳は一切詩音を映していない。周りを囲う少女達からしたら。優しく語りかけられているのは、むしろ葵であるように見えた。

 あるいは、そんな錦織の態度が気に障ったのか、長い黒髪の少女が集団から一歩前に出る。

 葵は彼女のリボンの色を見てすぐに三年生だと気付いたのだが、やがて傷ついてしまうだろう親友を想い引かなかった。

 だが、そんな態度が彼女の反発を誘ったのか。


「ちょっとアンタ見て分からないの?巻藤さん嫌がってるじゃない」


 彼女からしてみたら詩音は恋敵の一人でしかない。しかし、錦織が庇っている以上、詩音は彼女にとっても庇うべき存在だった。

 オドオドするだけの本人を無視して、芝居じみた庇い立てを独りよがりに展開するロングヘアーの彼女が敵と認識した葵に突っかかる。

 程なく、誰もかもが錦織に好かれようと葵に向けて非難の声を飛ばし始める。彼女達もまた葵が自分達にとって敵であると知っているからだ。


「まあまあ君達、落ち着きなって」


 かたや錦織は少女達のブーイングに「僕の為に争わないでくれ」とでも言い換えられそうな気のない制止で、少女達の怒りに油を注ぐ。

 いや、むしろ全てが計算だったのかもしれない。葵の側に立ったような錦織の態度に彼女達の行動がエスカレートしていく。

 それは暴動の一歩手前のような緊迫した状況だった。

 錦織を囲んでいた女子達が今は葵を取り囲んでいる。同じ人を好きになった者同士の奇妙な連帯感が数の暴力となって、一人の友人の為に立ち上がった葵を押し潰そうとしていた。

 しかし、決意を秘めた葵は屈しない。


「これは私と詩音ちゃんの問題です。すみませんが先輩達はどいていてくれませんか?」


 だが、その態度は下級生のものとしていささか不遜と呼べるものだった。


「アンタ、ちょっと可愛いからっていい気になってんじゃないわよ!!」


 そんな葵の態度が彼女達のちっぽけな自尊心を刺激したのだろう。先頭に立っていた三年女子が葵のショートヘアーを引っ張り、長い黒髪を乱しながら腕を振り上げる。

 高揚した彼女を止められる人間は最早一人だけかに思われた。


「やり過ぎじゃないのか」


 だが、余裕の態度で助けに入ろうとした錦織よりも早く、その混乱の中に割り込んだ少年がいた。

 彼は悪意の奔流に巻かれる少女の下へ黒のマフラーを棚引かせて駆けつけると、葵の頬に平手を打ち付けようとする三年女子の手を掴み取る。


「アズマ――君?」


 思いがけない人物の登場だったのか。葵がうわ言のように名前を呟いたその前で、件の少年が顔を紅潮させる女生徒に対し毅然と言い放つ。


「手を出すほどじゃありませんよね」


 預真にしてみたら軽く手を掴んで引くように諭しているだけだった。

 しかし、本人の預かり知らぬところで尾ひれがついた噂を聞いていた女子生徒が、もしかして自分がなにかされてしまうのでは?と受け取ったとしても仕方がないのかもしれない。


「離してよ!」


 金切り声をあげた彼女は恐怖心を隠そうともせずに預真に掴まれた手をバタつかせる。

 一方、預真の方は彼女が落ち着いた時点ですぐに手を引こうと考えていたのか、困惑の表情を浮かべていた。

 しかし、一度火が着いたパニックというものはなかなか収まらないもので、その状態に陥った素人程恐ろしいものはない。

 預真が迂闊に動くこともできずにいると、これ以上の接触を拒否するかのように暴れる彼女の手が、預真の首に巻かれていたマフラーを引っかけてしまう。

 勢い良く振られる腕の動きに合わせて、彼が入学以来一度も外した事が無かったマフラーを剥ぎ取られる。

 次の瞬間、パニックに陥っていた女生徒の意識が漂白される。

 彼女は見てしまったのだ。露出した預真の顎の脇から鎖骨にかけて割けるように伸びた尋常ならざる傷跡を。

 だが、そのショックは彼女だけのものではなかった。

 マフラーを手で払ってしまった女子生徒は勿論のこと、預真が庇った葵。錦織とその取り巻き、興味本位で集まっていた野次馬達も含めたその場にいる全ての人間が、突如として現れた噂の真相を目の当たりにして、自らの時間を凍りつかせてしまった。

 開いてはいけないパンドラの箱を開けてしまったかのような罪悪感と畏怖、数々の黒い噂を裏付けるようなその傷跡に誰もが言葉を失う中、するりと忍び込んだのは道化師のような笑顔を貼り付けた少年だった。

 唯一、全ての事情を承知する右近が乱立する固まった生徒の間をすり抜け、地面に落ちた黒いマフラーを拾い上げる。


「ほらほら預真、皆が驚いてるから隠して隠して」


 場を和ませようというよりも茶化しているような。軽い口調の右近からマフラーを受け取った預真は「そうだな」と呟き、素早くマフラーを首に巻き付ける。

 次いで右近の口から出るのはこの台詞。


「友人が不快な思いをさせてすみません」

「お前が言うことじゃないだろ」


 状況が状況でなければ冗談にも聞こえる軽いやり取りが二人の間で虚しく響く。

 そして右近は呆然とするだけの葵とどうしていいのか対応に苦慮する預真の手を取って、大袈裟に一礼。


「怖ーい先輩達が睨んでるから、二人共行くよ」


 戦慄に包まれた錦織とその一行を横目に歩き出した。

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