マフラーと少年
新年度が始まって一ヶ月と少し、ゴールデンウィークを挟んだことにより新入学の空気も薄れ、そろそろ5月病も最盛期を迎えるそんな今日この頃、
玄道預真は季節外れのマフラーを首に巻き、手にはランチの入った巾着袋を、そして陰鬱な表情を引き連れて昼休みの廊下を歩いていた。
「今日もやっぱりあそこがいいか」
独りごちた預真は目的地を定め、周囲から集まる否定の視線を鬱陶しいとばかりに足を速める。
すると、廊下の向こうから見知った狐顔の少年が教師が見たら確実に注意されるだろうスピードで走ってくる。不本意ながら親友を自称する知人『高嶺右近』だ。
右近は預真の姿を見つけると急ブレーキ、足を止めるなり預真の両肩を掴んでガクガクと揺さぶり聞いてくる。
「丁度よかったよ預真、追われてるんだ。どっちから来るか分かるかい?」
創作物のキャラクターにありがちな情報屋というものを文字通り営んでいる右近がトラブルを抱えているのはいつものことだ。
主語を省いたその質問は通常ならば詳細を求めるものだろう。
しかし、右近が追われている理由を予想できる預真は、省かれた名称を(仮)で埋めることによって無駄な時間を省略、ガラス窓の向こうに見える校舎の北と南をつなぐ渡り廊下を指し示す。
「あっちからだね。助かったよ。お礼はまた今度という事で、じゃあ」
感謝の言葉を散らかして、指し示したのとは別の方向へ走り去る右近に「そうじゃなくてだな」と軽く手を伸ばした預真。
だが、何事か声をかけようとした頃には、走り去った背中は廊下の遥か彼方。
――まあいいか。
預真は右近の逃げ足の速さからいつもの面倒事の気配を嗅ぎ取り、何か問題があったらすぐに戻ってくるだろうと自己解決。
再び歩き始めて5歩ほど進んだところで、予想通り、砂埃を巻き上げるようなスピードで戻ってきた右近が息も絶え絶え抗議する。
「もう、嘘つかないでよ!預真は僕に恨みでもあるのかい!?」
別に嘘をついた訳でもわざとでもない。
とはいえ、右近には悪いが預真からしてみたら、恨みとまではいかないものの不満があるのは確かだった。
マシンガンによる銃撃のようにバラ撒かれる右近の文句に、預真は今一度、空中を横切る渡り廊下を指し示した上でついさっき言い逃した言葉を口にする。
「だからあっちに逃げろと言ったんだ」
「言ってないよね?――ってゆうか、僕はどっちから来るかって聞いたよね。絶対わざとだよね?」
「だから言おうとしたところでお前が行っちまったんだろう」
預真の反論を遮るほどに右近のクレームは止まらない。
「もう、預真はいつもそうなんだ。言葉足らずというかなんというか、口下手?もっと自分を出して、ホウレンソウをきちんとしてくれないとだよ」
正直鬱陶しい。預真はまだまだなにか言いたげだった右近の口を肉体的な意味で塞ぎ、冷静に諭すような言葉を紡ぐ。
「そう言われてもだな。最後まで聞かずに走って行っちまったお前も悪いと思うぞ。
と、それよりもいいのか。逃げているんじゃなかったのか?」
預真としても他に言いたいことはまだまだあったのだけど、話す途中で耳に届いた各所から怒号に巻き込まれては厄介だと台詞を変更、右近に本来の目的を思い出させる追加説明を補足する。
「どっちにしろこれだけ叫んでりゃ分かるだろ。全部指すより早かったからな」
「今度から大事なことは最初に言ってよね」
「言おうとしたら行っちまったんだろ」
理解はできるが納得できない。あからさまに異論がありそうにする右近は「じゃなくて――」と再び口を開きかけるも、とうとう視認できるまでに近付いた追っ手の姿に、いまは反論している場合ではないと覚ったか「もうっ!」と文句の残響を漏らして逃走劇を再開させる。
猛然と走り去る背中はあっという間に渡り廊下を越えた旧校舎に消え、その代わりと言ってはなんだが、やってきたのは高校生には見えない老け顔の大男を始めとした強面の面々だった。
右近と話している姿を目撃したのだろう。彼等は預真を取り囲み、まだ疲労を残す肩をいからせ威圧する。
「お前――玄道だな?」
どうして名前を知られているのかと訝しむのは今更だ。不本意ながら、この時期になっても未だマフラー着用という個性的なルックスと、情報屋として様々ないざこざの影で暗躍する右近に巻き込まれる形で、悪目立ちしているという事実は預真も承知している。
その一方でまだまだ知らないでいてくれた人もいたみたいだ。下っ端らしき長髪の少年が振り返り、この集団においてリーダーの立ち位置にあるのだろう。一番後ろで偉そうにしている強面の少年に訊ねる。
「何者っすかコイツ?」
「浜中タイムズってのを知ってっか? その片割れだ」
本人の預かり知らぬところでまさかそんなアダ名がつけられていたとは――、
そんな現実に衝撃を受けながらも、預真はいくら否定をしても無駄だろうと訂正事項を脇に除け、リーダーらしき老け顔の少年に向けて言う。
「一方的な腐れ縁ですよ」
すると彼は不信感を顕に鼻がこすれ合う距離まで顔を寄せてきて、
「テメェ、関係ないフリして高嶺のこと、隠してんじゃねえだろうな?」
しかし、この手の人間はどうして顔を近づける行動が威嚇に繋がると考えるのだろうか。
預真は不快な口臭を撒き散らす少年に対し、嫌悪感を表に出さないようにしながらも、常識でもって対応する。
「隠すとは言いますが、こんな廊下でどこに隠すと言うんです?俺に絡んでいるよりも本人を探しにいった方が効率的だと思いますが」
「ア゛ァン!?」
預真としては当然の指摘をだったのだが、どうにも挑発と受け止められてしまったようだ。
預真はいきり立つ相手を前に、ついさっき右近に注意されたばかりの己の口下手を反省しながらも、「落ち着いて下さい」胸ぐらに掴みかからんとする老け顔の少年に自制を求めるのだが、そんな態度がまた彼等にとっては怒りの燃料となるらしい。
そして苛立ちが限界に達したか、堪りかねた少年が実力行使に打って出るのかと思われたその時だった。背後から焦り気味な制止の声がかけられる。
「先輩まずいっすよ。ここ職員室が近いから――」
意外にもその声の主は最初に不本意なアダ名を質問した長髪の彼だった。
確かに彼の言う通り、この廊下から職員室は目と鼻の先、そして、得てしてこの手の心配は的中するものだ。
「コラ。お前達なにをやっているんだ!?」
遠巻きに見ていた野次馬の誰かが職員室にでも駆け込んだのか、小走りでやってくる恰幅のいい教師の姿を目に、胸ぐらを掴んでいた老け顔の少年が苛立たしげに舌打ちする。
「あんま、いきがってんじゃねえぞ」
突き飛ばすようにその手を放し、捨て台詞を吐いて逃げていく様はまさに三流悪役そのものだった。
――高校入学から一ヶ月。予想以上に悪名が轟いているようだな。こちらとしてはただ巻き込まれているだけなんだけどな。
預真がそんな風に埒もない事を考えている間にも、ようやく到着した男性教師は、既にその姿のない不良集団の逃走経路である階段を一瞥、この場に残った唯一の当事者である預真に視線を移す。
「何があった――と、お前。1年の玄道か?」
途中、厳しかった男性教師の口調を緩和されたのは、首に巻かれた黒いマフラーを見つけたからだろう。
預真の着用するこの厳しいマフラーの下には、とある事件で負ってしまった大きな傷跡が存在する。
その事は入学前に学校へ報告してあり、他の生徒に余計な不安を与えないようにと授業中のマフラーの着用を特例として認められているからだ。
今回の騒動は、右近が起こした何かしらの面倒事のとばっちりのようなものと分かっているので、教師に全てを打ち明け、喧嘩両成敗にすることも吝かではないのだが、後々の事を考えるといろいろと面倒事になりそうだと、今までのパターンから少なからず予想できる。だとするのなら傍から見ればマフラーが原因で絡まれたと思われても仕方のないこの状況を利用しない手はない。
短い思考でそう結論した預真は軽く頭を下げ、
「すみません。どうにもコレが目立つみたいで、なるべく地味な色を選んでいるつもりなのですが……」
本来の絡まれた原因とは違うのだが、副次的な意味合いでは間違っていない。トレードマークである黒いマフラーをつまみ上げて示すと、教師はそれだけで察してくれたらしい。扱いに困るといった表情を見せて、
「事情を伝えられたらいいのだがな」
その事情が伝えられる訳が無いと知りつつも、つい愚痴ってしまいたくなる教師の心情は預真にも理解できる。
しかしながら、その事実が特例で認められるマフラー着用よりも重いものだとしたらそうもいかないだろう。
「僕個人としてはあの事件を口外したところで特に問題が無いのですが、母が気にしていまして――」
諦念をふんだんに盛りつけた預真の言葉に教師はようやく失言だったと気付いたようだ。「あ、いや――」と歯切れの悪い単音を零した挙句。
「お前も大変だな」
無言の同情には不快感を感じる預真だったが、面と向かっての同情ともなればまた別だ。
とはいえ、そんな教師の対応が良くない噂に拍車をかけている面もある。
「やっぱり、先生の弱みも握っているらしいってのは本当か」
「ああ、生徒指導の猪熊があれだからな」
教師とのやり取りの間にも、騒ぎに巻き込まれたくはない。しかし、気にはなるものは仕方が無いという風に集まった生徒達から上がる声は目の前に立つ教師にも聞こえているだろう。
だが、注意をしたところで逆に傷を広げるだけだと困った顔をするばかり。
そうなのだ。入学当初こそ預真の抱える複雑な事情を承知している教師陣も、ヒソヒソと謂れ無き噂話をする生徒達を逐一注意していてくれていたのだが、逆にその行為が生徒達の目には贔屓しているように映り、更なる誤解を加速させるだけだと分かった今は黙認するのが最善の策だと悟っているのだ。
得も言われぬ複雑な表情を浮かべ、ただ立ち去るしかない教師を預真は咎めようとは思わない。異質な存在に排他的な生徒達の心情も、そうせざるを得ない教師陣の立場も、長年この立場に置かれた預真にとっては何度も見せられたものなのだから。
「さて、と、俺もどこかに隠れたほうが良さそうだな」
さわさわと密めく野次馬達の勘繰りを全身に浴びながら、預真はそう呟き、足早にその場を立ち去るしかなかった。