探偵事務所と悪い噂
今吉市は山あり海あり地味に観光名所もありながら、クラーク博士が提唱した産業分類がバランス良く配置された地方都市である。
預真達の通う大山高校は今吉市の中心部から僅かに外れた適度な自然と住宅街や商店街の狭間に位置してはいるが、街の中心部に近付いた最寄駅ともなれば賑わいもなかなかのものだった。
そんな駅前の雑居ビルの一室、預真がいま訪れているのは高嶺探偵事務所。その名前から分かる通り右近の親族が経営する探偵事務所である。
主な業務内容は素行調査や人探し、盗聴盗撮の発見などにも手を伸ばすごくごく普通の探偵事務所だ。ドラマやアニメのように殺人事件や誘拐事件などに関わることはほぼ皆無だが、少数精鋭の職員たちが日々さまざまな依頼をこなし、それなりに繁盛している事務所だった。
学校帰りの預真がなぜそんな場所に立ち寄っているのかといえば、ここが預真のアルバイト先であり、新聞部の定例会議から遅くなる右近から待っていてくれと頼まれたからだった。
正直、預真としては右近を待ってまで一緒に帰る義理など無いのだが、帰りがけにあんなことがあった後だ。これからの打ち合わせをしたいと言われてしまえば従わざるを得ないだろう。
だったらその時間を利用してアルバイトを片付けてしまおうと、待ち合わせ場所をここに指定したという訳だ。
事務所の応対スペース。預真は入口からすぐの場所にある肘置きの無いシンプルな二人がけの黒革ソファーに陣取り、大量の資料とにらめっこしながらスケッチブックに向かっていた。
預真がここで任される仕事は自分の特技を生かした資料整理というべきもので、複数のメディアで収集された情報に映りこんだ悪意をイメージ画として描き起こしていくという作業だった。
だから母に説明した書類整理というのはあながち嘘でもなかったりする――というのは言い訳に聞こえてしまうだろうか。
閑話休題。
さて、預真はどうしてこんな特殊なアルバイトをしているのか?そう問われれば、彼の家が母子家庭だからという答えに帰結してしまうだろう。
とはいっても、預真の母親である聖香には手に職があり、その両親も健在で、いまは何処にいるのかすら分からない父親からも僅かながら養育費名目のお金も入ってくるということで、決して生活に困っているのではない。
ただ、趣味や友人(というか主に右近との)遊興費くらいは自分で用意できないものかと、預真の自主的な倹約精神が本当の動機だったりする。
しかし、それを思い立った当時の預真はまだ中学生で、短期にしろ長期にしろ雇ってくれる場所は殆ど無なかった。
付け加えるのなら、冗談でもなんでもなく首の傷がネックになってしまったのだ。
言わずもがな預真の首を縦に引き裂く大きな傷跡は接客業などの仕事に向かないものである。
かといって数少ない理解者である祖父母の養鶏場や母が営む理髪店で厄介になるのは本末転倒。
ということで、已むを得ず、唯一の知人である右近に話を持ちかけたところ「丁度いい仕事があるんだ」と持ちかけられたのがこのアルバイトだったのだ。
これは後で聞いた話なのだが、たまたま右近がここの所長である彼の伯父と、超能力捜査を取り上げていたテレビ番組見ていた際に、ポロッと(とは本人の談であり明らかにわざと)漏らした不思議な友人の話をきっかけに、どうにか事務所に引き込めないかと、伯父の方から勧誘の提案をされていたというのが本当らしい。
人の個人情報をなんだと思っているんだ。そんな不満もあったりもしたのだが、おかげで首の傷を厭わないこの仕事にありつけたのだから文句も言えないだろう。
因みに作った資料は、探偵事務所に出入りする腕利きの占い師に霊視してもらったという名目で、一部のオカルトにすらも縋るような人物に、実際の資料として提示されたり取引されていたりするらしい。
何事にもある程度の泊が必要だということだ。
そんな経緯もあり、今や預真はこの高嶺探偵事務所の貴重な戦力となっていたりもするのだが、それは預真の知らない事実である。
とまあそんな裏事情は別として、愚痴を零しながらもこんな力でも多少なりとも誰かの役に立っていると聞かされている慰みもあり、仕事に精を出していた預真が3枚目となる作品を描き終えたあたりで、涼やかなドアベルの音が鳴る。
事務所名がペイントされたガラス扉が開けて入ってきたのは依頼者ではなく右近だった。
おまたせ。と楽しそうな右近の様子に預真が、
「上機嫌だな。それでお前の興味をくすぐるネタでも見つかったか」
じっとりと湿り気を帯びた視線を飛ばすのだが、右近はさらりと「人聞きが悪いよ」と預真の視線を受け流しながらも向かいのソファに腰を降ろす。
ガサリとガラステーブルに乗せたビニール袋からは、事務所スタッフへの差し入れだろうか、大量のペットボトルが顔を覗かせていた。
それから、「で?」と余計なコミュニケーションを排した疑問符を投げ掛ける預真に、「せっかちだなあ」と指を組んだ手を前にした右近の台詞は以下の様なものだった。
「良いニュースと悪いニュースがあるけどどっちがいいかい?」
「お前が持ってくるのは大抵悪いニュースだろ」
ただその台詞を言いたかっただけだろう。預真は目元の不快指数を増量させて応えるのだが、
「じゃあ。良いニュースからね」
右近はそんな小さな抗議も完全にスルー。話を進めようとする。
決めていたなら最初から言え――というのもどうせ馬耳東風だろうな。無言のままで次の言葉を待つ預真に返されたのは予想の斜め上を行く情報だった。
「葵ちゃん巻藤さんと仲直りしてくるって」
「お前はまた余計なことをしやがって」
あんな事があったすぐ後でどうしてそうなった?とばかり預真がこめかみを押さえる。
仲直りをしてくれるというのは、原因を一端を作ってしまった当事者として望むべくことなのだが、何事にもタイミングというものがあるというものだ。
懊悩する預真とは対照的に、右近は爽やか笑みを浮かべ、わざとらしくも「どうしよっか?」と小首を傾げてみせる。
「俺達が首を突っ込んだどころでどうにもならないだろ。あの二人の関係を見る限り、逆にこじらせるだけだろうからな」
「それがそうでもないんだよ。どうもこの騒ぎ錦織先輩の仕掛けた喧嘩みたいなんだよね」
個人的な心情はどうあれ、考えるまでもないと出した結論に返された情報に、預真が「どういう事だ?」とやや前に乗り出すと、ちょっと待ってと右近は事務所の奥からノートパソコン引っ張り出してくる途中――気付いたように周りを見回して「そういえば赤座さんは?」と訊ねてくる。
「社長に着替えを届けに行ったぞ」
右近が気にする赤座という人物はこの高嶺探偵事務所の受付兼事務員である赤座女史のことである。
「それで資料室じゃなくてここで店番してるんだね」
「事務所を空にする訳にはいかないからな」
この場合、店番ではなく事務所番というのでは――というのはどうでもいい訂正だ。
預真は手元の資料をまとめてテーブルの上を片付ける。
「というか、伯父さんなら着替えくらい持ち歩いでるよね」
右近の疑問も尤もだった。
探偵という職業は尾行を気づかれないようにと常に複数の着替えを用意をしているらしく、通常ならば拠点となる自動車などに変えの服がストックされているらしいのだ。
しかし、残念ながら今回持ってきて欲しいと要請された服というのは、所謂コスチュームと呼ばれるものだった。
「なんでも探偵服が必要なんだそうだ。張り込みが長引きそうだから持って行かなかったみたいだでな、ほら、あの格好で後をつけられたら一発でバレちまうだろ。というか、解決したからって、依頼者に報告するだけの為にわざわざそんなモンを持ってこさせるなんて、お前達の家系はどうしてそうなんだ」
因みに預真の言う探偵服というのは、ベーカー街の探偵を元祖としたインバネスコートに鹿撃ち帽という例のスタイルの事である。
探偵という職業に並々ならぬ思い入れのある右近の伯父は、事件の報告をする際に探偵服を着用しないと気がすまない質らしく、予定よりも早く決着をみた事件の報告を早急に求める依頼者の為、唯一事務所に残っていた赤座女史が衣裳運びに呼ばれたというのが留守を預かることになった経緯だったりするのだが、往復だろうが片道だろうが無駄な時間に変わりはない。
さすがにこれには右近も反論できないようで、
「まあ、伯父さんの気持ちも分からなくはないけど、流石の僕もこれには返す言葉も無いよ。
――と、忘れてた、これ差し入れだから預真も飲んで飲んで」
誤魔化しだろうか。脇に置かれていた差し入れを開く右近の勧めに遠慮はいらない。預真がお気に入りのカフェオレに手を伸ばす傍ら、右近は最初から確保してあった炭酸飲料を一口飲んだところでガムシロップを投入、蓋を締めて甘みが馴染むようにゆっくりとペットボトルを傾け、路肩に乗り上げた話題を本線に戻す。
「まず、昼休みの件。あれは錦織先輩が仕掛けだったみたいだね」
「は?仕掛けたって、あれは玉突き事故みたいなものだし、それにあの先輩の狙いは日向だろ」
軽い前置きを挟んでずばっと切り込んできた右近に預真がすかさず切り返す。
「問題の場面を後で再生してみたんだけど、あれは予想以上に君がラブコメ漫画の主人公みたくラッキースケベの神に愛されてただけで、錦織先輩の目的は、ただ預真の所為で倒れてしまった葵ちゃんを助けたかっただけみたいなんだよ」
どこで見ていたとか、そもそも映像に残っているとはどういうことなのかとか、ツッコミどころは山ほどあったが、右近からなら学校全体を常に監視していると言われても驚かない預真としてはこれくらいの非常識など日常の範囲内だ。
ワクワクとツッコミ待ちと言わんばかりのにやけ顔を華麗にスルーして質問を続ける。
「もったいぶった割にお粗末な推理のように聞こえるんだが」
「推理じゃなくて、S――ああ、スパイのことね。彼から得られた情報によると、錦織先輩にとってはどう転んでもよかったみたいなんだよ。少しでも君や僕も含めた彼女達二人の関係がこじれるきっかけになれば良かったんだ」
「ますます分からんな。そもそも俺達は全然関係ないし、喧嘩させてどうするんだ?」
「君に関する目論見は完全なる勘違いによるものさ。でも、残り二人に関していうのなら、親友同士が仲違いしたことによって傷心の女の子を手籠めにする。女好きがよく使う手じゃないか」
やはり血筋か。いつもよりも滑らかな口調で聞かされる右近の強引な推理に「そういうものなのか?」と呟く預真が思うのは――そんな事で女子が釣れるくらいなら、この世の中、モテ男だらけになってしまうだろう――というものだったのだが、右近はそれを理解した上で答える。
「まあ、そういうテクニックも世の中には存在しているんだよ。預真も知りたいなら今度レポートにまとめてあげるけど」
右近の発言は自分も使えると暗にほのめかしているようなものなのだが、預真は「いらん」と断って、
「引っかかる方も悪いんじゃないのか?」
「どうも、錦織先輩は引っ掛けた女の子との行為やヌードを撮影して脅してるみたいなんだよね」
一応は高校生だ。その辺りは自己責任の範疇では?という意味の問いかけに、右近から投げ返された情報は生優しいものではなかった。
「耳障りのいい言い方をすればガールフレンド。酷い言い方をするのならセックスフレンドに近いかな。何でも錦織先輩は飽きた女の子をお下がりとして仲間達に譲っているらしいんだよ。周りを固めて抜け出せない状況にしているみたい。夏休みに少女達がイケメンホストに引っかかって風俗に落とされるのと同じようなものだね」
どっちにしてもロクでもない。心の中でそう切り捨てる預真だったがふと疑問が過る。
「しかし、それだけ手広くやってたら噂になっていてもおかしくないだろ。だが、そんな話、全く聞いたことがないけどな」
「預真は僕以外に友達がいないからねえ」
右近の口からしみじみと語られた文言については「放っておけ」と突っぱねたいころだが、反論の余地がないのが現実だ。
預真は右近からのツッコミを聞き流し、発言の意図がきちんと伝わるようにと訂正する。
「そうじゃなくてだな、そんな奴と付き合う女がいるかって事だ」
預真から追加された説明に、ようやく納得したと言わんばかりに手を合わせた右近は「最初からそう言ってくれないと」とわざわざ前置きして、
「噂といっても知る人ぞ知る噂だからね。2、3年生の一部でそういう噂があるってだけだから、普通の生徒は勿論、入学したばっかの1年生なら尚更知らないじゃないかな。実際に巻藤さんやその他大勢の先輩方は完璧に引っかかっちゃってるじゃん」
だったら、さっきの友達がどうのこうのという返しは間違っているだろう――と、これは進行の邪魔なる反論だ。右近の誂いにいちいち対処していたらキリがないと、預真は無駄な私憤をいつものように犬に食わせ「結局はどういうことなんだ?」と会話を先に進める。
「身も蓋も無い言い方をすれば権力&お金持ちパワーだね。余計な噂はもみ消されちゃうらしいよ」
「本当に身も蓋も無いな。しかし、それでも被害者は確実にいるだろう」
人の口には戸を立てられない。さすがに本人は言わないかもしれないが、中には心身を害したものもいるだろう。そうすれば周囲が気付くのではないか。そして、女子に限らずこういった噂話というのは拡散は早いと預真は実体験で嫌というほど思い知らされていた。
「だから、本人の口を確実に塞ぐ為に出てくるのが行為を撮影したビデオだよ」
「それこそ犯罪になると思うんだが、こういうのは被害者側が有利だとか聞いたぞ」
性犯罪における被害者の証言は故意的に冤罪も生み出せるほど強力なものだと話に聞く。
だとするなら証言だけでも錦織を追い落とせるのではと預真は考えるのだが、
「まあ、最初は自分から望んだ行為だし、たとえ無理矢理だとしても大量に撮影した映像の中から、喜んでいると見える部分だけをチョイスして都合の悪い部分はカットすれば、見つかったところで『合意の上』っていうお決まりの言い訳が立つ訳さ。彼は錦織夏彦の息子にして錦織太一の孫だから、警察も言いなりだとか吹聴しているみたいだね。幸か不幸か噂は抑えられてるし、警察の話は完全なるブラフなんだろうけど、被害者側としてはもしかしてって考えちゃうんだろうね。それに裁判ともなると全ての証拠が詳らかになっちゃうから。さっきもいったように自作AVみたいな映像もある以上、被害者側も名乗り出にくいってのが本音のところさ」
被害者心理を利用した上で、親――じゃなくて、祖父の七光り、本来使うべきではないところに頭が回る。
「実際は気付かずにというより恋するが故にとでも言うべきかな。特に脅されなくても言いなりになる女の子も多いらしいから、撮影とか脅しの件はあくまで自分達に従わない女の子に使うみたいだよ」
「惚れた弱みにつけ込んで――って奴とはちょっと違うのか?……何かが間違ってるな」
「ヒエラルキーの頂点に立っている人の頭が緩いと、集まってくる人達の知能レベルも下がるんだよ。恋をしてるって雰囲気に浮かれてる部分もあるとは思うんだけど、簡単について行っちゃうのも間違ってるよね」
気分を害する内容にもクールな預真の反応に、右近は笑いながら言い過ぎとも思える毒を吐く。
しかし、そんな毒が逆に現実感を薄められた相手への所業がどれだけ汚いものなのかを示していた。
「だがな、殆どって言うからには、中には強制的に関係させられた女子もいるんじゃないのか?」
「預真は優しいね。本当の預真を知ったらきっとモテるだろうに、皆はなんで気付かないんだろう」
「勘違いするな。俺は可能な限り快適な学校生活を送りたいだけだ」
わざとらしい賞賛をつっけんどんに突き放し、建前に聞こえる理由を主張する預真に、右近は一口含んだ後の吐息だけでも甘ったるいと分かる特製激甘ブレンドジュースをテーブルに置いて、
「そのツンデレっぷりもなかなか。まあ、そういう事にしておいてあげるよ」
反応したところで右近を楽しませるだけだと知っている預真は殊更平静を心掛ける。
「それで錦織はどうすんだ?狙いが日向なのに巻藤の方をおとしても意味が無いだろ」
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よだよ。巻藤さんを餌として使うんだろうね」
「餌?」
「さっき言った乱痴気騒ぎに巻き込まれた巻藤さんの映像を葵ちゃんが受け取ったらどうなると思う?」
聞かれるまでもない。
日向葵はちょっと悪口に聞こえる忠告を友人にかけられただけで、その相手を追いかけ回す女子だ。
たとえ自分が嫌われていようとも、友人に危機が迫っているとなれば誘いに乗ってしまうだろうと簡単に想像できる。
――何より右近が煽っているしな。結局、全てはこの男の手の平の上か……。
「それで、俺は何をすればいいんだ?」
高い確率で起こり得る少女の危機を知らされては協力するしかないだろう。
面倒臭そうにしながらも、結局は自ら志願してしまう人のいい預真だった。