授業前の襲撃者とその事情
※構成の都合上、長いお話となっております。お気をつけ下さい。
預真の有する視力は、マンガ等で見る超感覚的に殺気を察知して、その相手の位置を特定できるというような便利な力ではない。
いや、条件さえ揃えば似たような事も可能なのだが、元来、人の悪意は無尽蔵にあふれているものであり、殺意や殺気などというものは、その強さに差はあれど街を歩けばそこかしこに存在するものだ。
そんな環境に常に晒されていては日常生活もままならないと、預真は独自の修練によって、自身の能力にフィルターをかけ(あくまで一般生活を送るうえでの最低限でというレベルでだが)邪魔にならない程度に自分の力を抑える事に成功していた。
つまり預真が日常見ている景色は、群衆が無益に垂れ流す悪感情の強弱や性質を極端に薄め、簡略化した負の相関図ともいえるものなのだ。
だからその奇襲も、普段から自分に向けられる悪意としてではなく、きちんと警戒し、高い精度で悪意の質を読み取っていたのなら防げたのかもしれなかった。
「よっしゃ。ゲットだぜ」
それは通常の登校時間から1時間前、その他大勢から向けられる奇異の視線を割ける為、生徒数が少ない早い時間の登校を心がけている預真が正門を伺える路地に入ろうとしていた時のことだった。
学校を囲うように植えられた立木の隙間から、急に飛び出してきたニット帽の少年が、預真の持っていた学校指定のスポーツバッグを掠め取っていったのだ。
走り去る背中にやや遅れてスタートを切った預真が考える。
なんでこんな時間にひったくりに出くわさなければならない?
普通に考えたのならこの手の犯罪の目的は金銭の奪取だろう。
だが、学校を目前にしたこの状況と、まるで追いかけて来いとばかりに誂いの言葉を口ずさむ学生服着用の犯人から、相手の目的を推し量ることができる。
――ついて来いってことだよな。
明らかに面倒事だと見て取れる状況に、預真としては無視したいというのが本音だったのだが、残念ながら今日は選択科目に関する重要書類の提出日。幸いにも目撃者も少ないながらいたので未提出になってしまったところで言い訳も立つのだろうが、そもそも教科書が無ければ授業も受けられない。無視したところで教科書が返ってくる可能性はゼロだろう事を考えると、また買いなおさなければならないと余計な出費は否めない。なにより他のクラスに教科書を貸してくれるような知り合いもおらず、右近の席は少し離れた位置にある。預真は自分の社交性の無さに嘆きながらも、取り返さざるを得ないだろうと判断する。
バッグを抱える後ろ姿を追いかるストライドを広くする預真に対し、相手も負けじとピッチを上げる。
やっぱりか。
器用にも走りながら嘆息した預真が取り出したのは携帯電話だった。
――たしか今日は朝練があるとか言ってたからな……というか、新聞部の朝練ってなんなんだろうな。
どうせロクでもない事だと、脳裏に過った埒もない考えを即座に打ち消して、右近の連絡先を開く。
放っておいたところで、途中ですれ違った数人が学校の方へ連絡してくれるかもしれないが、相手の思惑を予想するに応援を呼んだ方がいいだろう。
預真が追走しながら端的なメッセージを右近に送り、視線を再び前を走るフードの少年へと戻す。
すると彼は学校に沿って走る道路から外れ、小型車すらも通れない細い脇道に折れ曲がる。
彼が逃げ込んだのは学校の側にある駐輪場だった。
とはいえ、そこは預真の通う大山高校の所有のものではなくて、高校のすぐ裏手にある市役所の駐輪場。
まだ早い時間であることに加えて、防災の観点から市役所そのものが一段高い丘の上にあるという立地条件から、決して短くない階段を登らなければ辿り着けないということで、催し物や祝日などに行われるフリーマケットの時でもない限り使う人などまずいない駐輪場だ。
要するに後ろ暗いことをするにはうってつけの場所である。
そんな豆知識的な情報を、以前、市役所に併設する図書館に立ち寄った折りに右近から聞いていた預真は、警戒のレベルを一つあげて先導する彼の背中を追いかける。
と、それが幸いしたのか、預真は駐輪場の波トタンの隙間からレーザービームのような黒線が頭を貫いたのを知覚する。
それは自分を視認し、害を及ぼそうとしている人物が物陰に隠れていることを意味していた。
――問答無用でいきなり顔面を狙うなんて随分と過激なことで、
預真は胸中でそう呟くと、顔の前で腕を十字に、防御を固めて加速する。
眼前を通り過ぎたのは綺麗な回し蹴りだった。
バッグを奪った相手とは別のようだが、こちらも制服の内側に着込んだパーカーのフードを目深に被って人相を分かりにくくしているようだ。
だがそれは、前傾状態の預真にはあまり意味のないカモフラージュだった。
突然の加速に蹴りのタイミングをずらされビックリする表情がありありと見て取れた。
預真はその覗く顔を、何処かで見たような気がするな。そう思いながらも、優先すべきはバッグの方だと視線を前に戻し、再び追跡を続行しようと十字防御を解く。
しかし、バッグを奪ったニット帽の少年が向かった市役所に通じる階段から数人の男達が降りて来くるのを発見。
預真は靴底のグリップを効かせて急制動、そのまま周囲に視線を巡らす。
すると、一撃食らわした後すぐにこの駐輪場へと引き摺り込むつもりだったのか、同じく言い訳程度に各々顔を隠した学生服の少年達が、唯一の入り口を塞ぐように素早く移動するのが目に飛び込んでくる。
――1、2、3、4……7人か。 しかし、早朝からこんな大人数に絡まれるなんて思ってもみなかったな。
本来こういうものは放課後の体育館裏などがテンプレートではなかろうか。
中学の頃に――あまり受けたくはなかったのだが――襲われた時も、シチュエーションは様々あれど、時間帯だけで語るのなら概ね放課後というパターンに集約されていた。
それをまさか始業前に仕掛けてくるだなんて、これは預真にとっても初めての経験だった。
確かに放課後に襲うともなれば、待伏せにしろ呼び出しにしろ教師や他の生徒の目を気にしなければならず、ターゲットによっては下校時間もまちまちだ。場合によっては待ちぼうけという可能性も有り得る。
その点、習慣的にほぼ決まった時間になる登校時間を狙えば、襲撃メンバーを揃えるのも難しくなく、しかも、ターゲットが珍しくも人気の少ない時間帯に登校するとなれば待伏せにはもってこいだ。
――俺を狙うには朝の方が都合がいいと考えたのか……なかなか頭がいい。
とはいえ、こちらの対応はあまり意味がないのでは?
預真がそう考えるのは、取り囲んでいる人物が目深に被る帽子やらパーカーなどのカモフラージュだ。
中には準備万端覆面まで被っている人物もいるのだが、始業時間に間に合わなければ、誰が犯人か簡単に分かってしまうのではないだろうか。
犯人側はその辺りは考慮に入れなかったのか。
それとも、この人数だ。あまり時間がかからないと考えているのだろうか。
――どちらにしても、高嶺を急かした方が良いのかもしれないな。
預真が360度見渡す間に次にどう対応するべきかに考えをまとめたところで、噂をすれば影、ポケットの中の携帯電話がバイブする。
相手は右近以外にいないのだが、すぐに取り出してしまってはあらぬ誤解を受けかねない。連絡の邪魔をされないようにと、預真はさり気なくポケットにつっこんだ手でタッチパネルを操作。通話状態を保持したまま、普段出さない大きな声で目の前の集団に問いかける。
「ええと、こんな誰もいない駐輪場まで誘い込んで何かご用でしょうか?学校のチャイムが聞こえてくる前にバッグを返してもらいたいんですが」
「ちっと先輩に頼まれてな。ちょっと悪いけどよボコらせてくんねえか?」
慇懃無礼な預真の質問に大きな声で応じたのはバッグを奪ったニット帽の少年だった。
「いや、いきなりボコらせてとか言われましても、なんでこんなことをするんですか?」
「簡単な話だ。テメエが先輩の女に手を出したからだ」
先輩ってことは相手は同学年か?
それよりも女に手を出したってどういうことだ?
女と言われ心当たりがあるとすればあの日以来つきまとってくる葵くらいなものだが、手を出したと言われる関係でもない。
だとすると、原因はいつも通り右近の仕事絡みに巻き込まれってパターンだろうが、どちらにしてもこのままだと埒が明かない。
入学して一ヶ月半、皆勤賞がどうとか言うつもりはないが、遅刻をして自宅に連絡がいっては母に迷惑がかかってしまう。そう考えた預真は、
「要領を得ませんね。これは高嶺に聞いた方が早いかな?」
厄介事の代名詞である右近の名前を口にする。
預真が右近の名前を出したのは、単に相手の反応を見る為なのだが、逆に少年達の側から見た預真のそんな態度がとぼけているようにでも映ったのか、「テメェ」と爆発しそうになるニット帽の少年。
だが、その少年の動きを遮って、一番後ろに陣取っていた覆面男が前に出る。
「情報屋からなにか聞いているのか?」
「そうですね。ご想像にお任せします」
「ますます返すわけにはいかなくなっちまったな。お前にはここで口封じさせてもらう」
――口封じとはまた大袈裟な。
思わず失笑を零してしまったのが失敗だった。
というよりも相手の沸点が低すぎるのか、アァン?お決まりのように数人が苛立たしげに顎を前に突き出す。
「いや、すいません。ただ、俺をボコボコにしたところで何が解決するのかなって思っただけですから」
預真にとっては素直な疑問だったのだが、相手側にはきちんとした?プランがあったらしい。
アレを出してくれ。という覆面からの声を受けて、背後に控えた鼻眼鏡少年が取り出したのは高校生が持つにしては高級そうなビデオカメラだった。
高嶺が見たらうらやましがるかもな。ふざけているとしか思えない変装で顔を隠す少年の持つビデオカメラに、預真がそんな埒もない感想を胸中で呟いていたところ、するっと会話に割り込んできたニット帽の少年が言う。
「つ~ま~り~。恥ずかちー動画をネットにばら撒けば、いきがったいきがった馬鹿も大人しくなるってなもんよ」
そういうことか。ありがちな処刑方法に預真が得心する。
不名誉な画像を公開されるのは預真としても御免被りたいが、女性のそれと比べたのなら、男である自分の画像など特殊な趣味を持つ人間でない限り、食指にも引っかからないのではないか。
それにだ。彼等はネットの危険性をどれだけ分かっているのだろうか。日頃から右近との付き合いで、その手の機器やネットワーク関係の細々に詳しくなってしまった預真にとって、その類の画像公開のリスクが被害者側だけでは無い事を知っている。
このような映像には表面上には現れない情報が多数隠れていて、撮影に使用したカメラの詳細や位置情報は勿論のこと、場合によってはその画像がどのように機器に読み取られ、加工されたのが判明したりすることもあるらしい。
ともすれば、それは蛮行をしてしまった彼等のプライベートが暴かれてしまうかもしれない情報だ。
いいや、高嶺右近という人物が関わっている時点で、その全てが詳らかになる事態は免れないだろう。
そうした場合、私刑という名の下に今まさに彼等が行おうとしている集団リンチが、精神的な意味で彼等自身に跳ね返ってくるというのは、似たような事件が起きる度に報道されてきたことだ。
いくら彼等が無知蒙昧そうな少年達だとしても、そんな現在のネット社会のダークサイドを知らない筈がないとは思うのだが。
自分達は大丈夫。そんな楽観的な意識が働いているのだろうか。だとしたらあまりに軽率だとしか言いようがない。
「はあ、そうですか?」
「アァン。なに余裕かましてんだよテメェ」
現代のネット環境とその弊害について考えていた所為で生返事になってしまった預真の返答に、ニット帽の少年が声を荒らげる。
適当な相槌になってしまった預真も悪かったが、軽い脅しくらいで「許してください」なんて頭を下げるとでも思ったのだろうか、だとしたら都合良過ぎるというものだ。
「先輩。やっちゃっていいっすかね?」
「一人で平気かよ?相手は最強の一匹狼。2P9だぞ」
いきり立つ後輩を宥める覆面男からは、おそらくこれもまた右近の起こす騒動に巻き込まれた結果、付けられたアダ名だろう。どこぞのスパイのようなコードネームが告げられるのだが、
「余裕っすよ」と妙にやる気のニット帽がバッグを足元にこちらに向かってくるものだから、預真としても対応せざるを得ない。
折角ならバッグも一緒に持ってきてくれたら――というのが紛れも無い本音だったのだが、相手もそこまでバカじゃないらしい。
見せびらかせるように野次に応えるポーズは、仲間がいること暗にを示し、心理的に優位に立とうなどという姑息な計算あってのものなのかもしれない。
しかし、預真から見た彼の姿は、不名誉な噂の真偽を確かめる為の噛ませ犬にされた哀れな道化師そのものだった。
早朝にわざわざ待ち伏せした挙句に荷物を奪っておびき寄せるなんて作戦を考えた連中だ。提出書類の件も含めてある程度の下調べくらいはしたのだろう。右近が流した噂を知って、実際どれくらいの強さなのか確かめようと考える人物がいたとしてもおかしくない。
気付かないのは本人ばかりか、彼に背負わされた期待の黒線に、預真は失笑とも溜息ともつかない息を吐き出して、無造作に近付いてくる相手に緩く構える。
そして『ありがたい』と密かに心の中で胸を撫で下ろすのは、総攻撃でも不意打ちではなく、自分の力が存分に発揮できるの一対一で相対してくれるからだ。
そう、ある意味で巷に流れる預真の噂は間違いでは無かった。
そこに負の感情が介在するのなら預真の目はその兆候を捉える。
特に人を害そうとする場合、その箇所にまで詳細が及ぶことが殆どで、油断しないことが前提条件ではあるのだが、この距離でしかも素手勝負なら、相手がプロの格闘家でもない限り、預真が負ける要素はほぼないと言ってよかった。
よって、預真がいま気にかけていることはそこから先の展開だった。
余裕の有る無しにかかわらず、目の前の少年をあっさり倒したところで、相手は全員でかかってくるだろう。
かといって、わざと苦戦をしてみせるというものナンセンス。
逃げるにしてもこの崖のような土留めのコンクリート壁と駐輪場にはさまれた狭いスペースではそれも難しい。
それに、わざわざ誘いに乗って来たのだからバッグだって取り返したいと思うのが人情というものだろう。
とはいえ、実践の中での余計な計算は命取りになりかねない。
預真は雑念を振り払い、目の前の相手に集中する。
そんな預真の一方で、武道の心得でもあるのか、ニット帽の少年は歩きながらも斜に構え、修練の後が伺える動きで拳を引き絞る。
綺麗な拳に黒い光が灯され攻撃に先んじて人を害する意思が放たれる。
正拳突きを打ち込むつもりか。
狙うのはボディ。
顔面じゃないところから少年の弱気が見て取れる。
預真は先行する黒線をなぞるように突き出される拳を体の全面を並行させることによって回避。そのまま突っ込んでくる少年の進行方向にすっと足を出す。
結果、つまづくことになってしまった年の腕を素早く絡め取り、後ろ手に捻り上げると同時に季節外れのニット帽を剥ぎ取る。
そして、晒された素顔は――、
「えっと、一組の中里だったか?」
思い出すように告げた名前はどうやら正解だったらしい。少年の口から「えっ!?」と小さな戸惑いが零れ落ちる。
たぶん、この少年としては自分が預真に名前を覚えられているとはと思っていなかったのだろう。何しろ入学したばかりのこの時点で別のクラスであるこの少年と預真との接点はほぼない状態なのだ。
しかし、女に手を出したなんていうくだらない理由だけで喧嘩をふっかけてくるグループに係るくらいの少年だ。受業中悪ふざけをしたりサボったりと、預真とはまた違った意味で悪目立ちするタイプの生徒ということで、預真はこの少年の名前を覚えていたのだ。
「放しやがれ、つか、何しやがる!?」
「暴れると痛いだけだと思うぞ。それよりも、次の相手は誰ですか?彼を掴みながらだと戦うのも難いしですし、皆さんも後輩を殴るのはあまり気分が良くないでしょう。引いてくれると助かるのですが」
一方的な暴力しか経験がないのだろう。完全に腕を極められた状態だというのに、体をよじってどうにか拘束から抜け出そうと悪足掻きする中里を、預真は鬱陶しいと手首を軽く捻り黙らせる。
我ながら高嶺の奴に毒されてきているかな――と胸中でひとりごちながら警告を放つ。
「テメ、卑怯だぞ」
卑怯というなら、一人に対して取り囲むのは卑怯と言わないのか?
数十秒前の自分の行いを忘れたような中里の言い草には、憤りを通り越して哀れみすらも感じるが、異議を唱えたところで口汚い罵りが返ってくるだけだ。
預真としてはそう思っていたのだが、相手の中には思ったよりも合理的な判断が出来る人がいたようだ。
「悪いな中里、ちょっち我慢しろよ。どうせ後でいい思いができンだ」
「ちょ、ちょっと。先輩?マジっすか?」
どうやら肉の盾による心理的な防御力は効果が薄いらしい。
多少の損害を無視すれば助けるのは簡単と判断したのだろう。人質に取られた中里を無視して全員でかかって来るつもりのようだ。
不本意ながらこういう事態に慣れっこになってしまった預真でも、さすがにこの人数を相手にしては分が悪すぎる。
だからこそこの人質作戦を取ったのだが、それもダメとなると、
――これはもうバッグを捨てて逃げの一手しかないってところか?というか、高嶺は何をやっているんだって話になるんだが。
本気で見捨てられたと思ったのか、慌てふためく中里を邪魔だと思いながらも、取り囲む少年達から飛ばされる悪意に気を配る。
「先輩。俺が悪かったですって、助けてください」
「心配すんな。一発殴ればそれで終いだ。お前はその隙に逃げだせばいい」
「そうそう。お前は少し我慢すりゃいいだけ。そしたら次のパーティーん時に好きなの選ばせてやっからよ」
「マジっすか!?」
相手側からしても下手に暴れられては困るのだろう。なにか餌をちらつかせるようなことを口走り、中里を落ち着かせながらジリジリと距離を詰めてくる。
そして分かりやすくアイコンタクト。少年達が殺到した瞬間、預真は盾となっていた中里を前方に押し出しながらの突進をかける。
しかし、相手側もこの反撃は当然予想していたようだ。肉の盾を利用した突進は殆どの人間に避けられてしまう。
だが、どんな集団にもドン臭い人間はいるもので、逃げ遅れが1人が押された中里とぶつかり、絡まるように地面に倒れる。
預真はここが好機と掴んでいた中里の手を放して、二人を飛び越え強行突破を図る。
だが、踏み越えようとしていたその足を何者かに掴まれ、その場に倒れ込んでしまう。
全体の動きはほぼ把握していた筈と、足首を掴まれる感触に振り向いた預真が見たのは肉の盾こと中里だった。
彼は倒れながらも手を伸ばしていた。
「逃げんなコンニャロ」
預真の目から敵意や悪意が見えるといっても、結局それは視界に映るものが全てであり、目端で確認していたのならまだしも、完全に死角になっていた相手から不意に放たれたものや、必死さが故に純粋な行動の発露とあっては預真の力も役には立たない。
彼等の言う『いい思い』というのがそれ程までに魅力的なものなのか。自由な方の足で足首をかっちりと掴む中里の手を蹴り解こうとする預真だったが、粘る中里になかなか上手くいかない。
もたもたしている間にも預真の顔面に向けて突き刺さるような黒線が照射される。
それは最初の不意打ちと同様に、容赦なく顔面を狙うという意思が込められた強烈な害意だった。
預真は中里への対処を一旦棚上げに、顔面に迫るつま先を体を目一杯反らして回避を試みるが、頬骨を削るように通過していったキックの衝撃に頭を軽く揺らされ、次の行動へ移る動きが若干鈍る。
そこへ襲い掛かる次の相手。
さすがにこれは避けられず、腹に一発いい蹴りを貰ってしまう預真。
しかし、ただでやられないのは望まずも積み重ねてしまった実戦経験の賜物か。
預真は腹に蹴りをみまった少年の足を返してその場に引き摺り倒す。
だが、それも大勢の中の1人にすぎない。
反撃は散発的なものに終わり、預真は圧倒的な数の暴力に飲み込まれてしまう。
所謂、袋にされるという状態に陥ってしまった。
四方八方から蹴りが飛び、決して広くない駐輪場に肉を打つ鈍い音が鳴り響く。
遠慮無く撃ち込まれるトゥーキックに、亀のように防御を固めるしかない預真の頭上からごきげんな声が降ってくる。
「はん。空手の達人並みのつよさなんて言うからどんなもんかと思ってたけど。全然大したことないっすね」
「噂なんてそんなもんだ。つかお前、タイマンじゃ普通にやられてただろ」
「そっすけど。最終的には俺等の勝だからそれでいいんじゃないっすか」
空手の達人?勝手なことを言ってくれる。
正面切っての喧嘩なら右近にチートと呼ばわりされる預真でも、囲まれてしまった状態での対処法は限られる。だからこそ、不承不承のアダ名に警戒を募らせる相手の意識を逆手に取って、どうにか時間を稼いだり、逃げ道を探したりといろいろ画策していたのだから。
――しかし、高嶺は何をやっている。
つい漏れてしまう他力本願な文句を心中に漏らす一方で、預真は虐げられるこの状況に暗く淀んだ懐古的な感傷にひたってしまう。
預真は右近に出会うまでこういう事態に陥ることがままあった。
原因は言わずもがな常時首に巻き付けられている黒いマフラーだ。
特に小学生くらいの頃というのは、異質な存在を黙殺の対象ではなく、やっかみの対象として捉えるという傾向があったりする。
そして、時に幼さが故の無垢な悪意というもは残酷なもので、その頃の預真は日々上級生を中心とした数人の男子に苛烈ともいえる嫌がらせを受けていたのだ。
それは気の弱い生徒だったなら死すらも考えるかもしれない酷い所業だった。
しかし、預真は弱者をいたぶる悪辣に屈するお人好しな性格の持ち主ではなかった。
むしろ何故自分がこんな目に合わされるのか、悪いのは相手ではないかと、素直に考えられる至極真っ当な思考を持つ少年だった。
だからこそ預真は考えた。どうしたらこの神様の悪ふざけとも思える状況を打破できるのだろうかと、
そして辿り着いたのが視認できる悪意をガイドにした防御法だった。
痛みに思い出す白昼夢のような思想に意識を傾けながらも、預真は虐げられた過去に得た技術を存分に使い、止めどなく与えられるダメージを可能な限り抑えていく。
かたや、軽口を叩きながらも蹴りを入れてくる少年たちの方は、思った程の手応えが与えられずに苛立ちを募らせたのか、「しぶといっすね」と堪りかねたようにそう吐き捨てた中里が一人輪を外れ、駐輪場の奥へと歩き出す。
取り囲む者達も同様の思いを感じていたらしく、中里の行動に興味を持ったのか反撃を受けない程度にと、断続的に蹴りを打ち込みながら中里が何をしようとしているのかを見守る構えのようだ。
預真としては、この隙に1人か2人引き摺り倒してどうにか脱出できないものかと考えるが、さすがにこの圧倒的優位から獲物を逃がすおめでたくも無いらしい。立ち上がろうものならすぐに蹴りが飛び、再び地面に転がされてしまう。
こうなったら最後の手段、怪我を覚悟で強引に突破しようかなどと考え始めたその時だった。カラカラという何かを引き摺るような音が預真の耳に届く。
見れば、戻ってきた中里の手には、どこで見つけてきたのか鉄パイプが握られていた。
重たくもないだろうに、わざわざ地面を引き摺るようにするのは中里なりの演出だろうか。
「マジかよ。最近の1年はやることが過激だなぁ」
「どっちにしろ気絶させなきゃ。恥ずかしい写真が撮れないっしょっ!」
過剰演出とも思える後輩の姿に誂うような笑声が飛び、中里もふざけたフリして応じてみせる。
しかし、軽いやり取りに見える両者の声には揺らぎや掠れが紛れ、その態度が虚勢であることが読み取れる。
引かれ者が――いや、この場合は引く者か?――鼻歌を歌うようにそう言い切ってしまったおかげで、中里は自分で自分を追い込んだ格好になってしまったのだろう。
爆笑の後に微妙な静けさが流れ、中里は自分を奮起させる為か苛立たしげに舌打ち挟み、鉄バイプを振り下ろす。
対して預真は冷静だった。中里が馬鹿をやっている間に逃げ出す事はできなかったが、むしろ状況をリセットする時間は充分に取れたし、何より脱出に有利な武器を持ってきてくれたのだ。
そう、預真は中里が持ってくれくれた鉄パイプを奪ってやろうと考えたのだ。
預真は頭を抱えていた両手を地面につくと、横目で確認した中里から放たれる敵意に向かって機敏な動きで体を持ち上げ、背中全面で鉄パイプを受け止める。
振り下ろした直後の停滞を狙ってL字になった鉄パイプの頭を掴むと、自分が立ち上がるのと交代に中里を引き摺り倒し、軽く手首をひねって鉄パイプを奪い取る。
しかし、距離を潰して威力を抑えたといえ金属の棒で強か殴られたのだ。骨折とまではいかないものの、ただで済む筈がない。
預真は背中に走る痛みに脂汗を滲ませながらも、強奪した鉄パイプを杖代わりに中里をまたぐ形で立ち上がり、まずは一発。中里の顔のすぐ横で思いっきり金属質の音を打ち鳴らす。
とはいえ、これはただのこけ脅し。
預真は恐怖に引き攣り動けなくなってしまう中里を一瞥すると、当分立ち直れないだろうと判断、すぐに周囲へ目を向ける。
再び中里を討ち取り、武器を奪ったことで状況が好転したとはいえ、数の優位が失われたとはいえない。武器による威嚇も今のところ効いているが、戦意を失わせるまでには至っていない。
――さて、ここからどうしたものか。
預真は動きを止める周囲を鉄パイプで牽制しながら痛みに鈍る思考に鞭を打つ。
鉄パイプを使えばこの包囲網を切り抜ける事は可能なのかもしれないが、相手に怪我を負わせてしまってはこちらが停学になりかねない。
そもそも襲いかかったのは相手側なのだから、場合によってはお咎め程度で済まされるかもしれないが、入学早々まだ評価も定まっていない状態での問題はこれからの3年間にも関わることだ。
ただでさえ生徒達の間で変な噂が広まっている現状で、教師陣にまで目をつけられては学校での居心地が悪い。どうにか相手に怪我を負わさずにここを切り抜ける方法はないだろうか。
ズキズキと痛む背中を庇うように鉄パイプを担ぎ、預真が実にらしい思案に耽っていると、何処からともなく殺伐とする現場にそぐわない呑気な声が聞こえてくる。
「はい。スト――ップ!動かないで下さいね」
その声に強制力は無い。
しかし、絶妙なタイミングの声掛けに全員の動きが停止する。
そして、預真を取り囲む少年達の背後、道路側の出入り口からひょっこり顔を出したのはおなじみの狐面。
「おい、アイツもしかして……」
「ああ、浜中タイムズが揃っちまった」
――結局のところ、2P9なのか、浜中タイムズか、どっちなんだ?
取り囲んでいた少年達の口から漏れる例の名前は気になったのだが、預真には何より先に確かめておかなければならないことがあった。
「高嶺、お前――ずっと隠れてただろ?」
逃げ足は別として、さほど運動が得意な方でないこの少年が息を切らしていないことや、あからさまなこのタイミングがその証拠だ。
因みに歩いて来たという可能性は通話の内容を聞けばあり得ないものとする。
心配だからではなく面白そうという意味でだ。
「もう、人聞きが悪いなあ。これでも急いできたんだよ。だって、連絡を受けた時は部室にいたんだから、そんなに早く来られる訳ないじゃないか」
しかし、右近はしれっと横を向き、わざとらしくも平坦なトーンで用意していたような台詞を読み上げる。
「僕が来たからには安心してくれ」
いけしゃあしゃあとこの男は――、
他の誰かならそう思ったかもしれないが預真にとってはいつものこと。
「俺としては教師を呼んできてくれたら有り難かったんだが」
気にするだけ時間の無駄と文句を省略した発言は、取り囲む少年達に向けた圧力でもあったのだが、少年達の反応は思ったよりも薄かった。
預真ですらそう感じたくらいだ。隠れて覗いていた右近にとってはそれ以上の裏事情が読み取れているのだろう。
「ええと、ここのリーダーは小久保先輩ですか?」
右近が声をかけたのは完全防備の覆面男。
「どうして……?」
ズバリ名前を当てられたのだろう。呻くような問い掛けが零れ落ちる。
そのリアクションは正体を自白しているようなものだったのだが、覆面男もとい小久保はそれにすら気が回らないらしい。
「だって、そこにいる中里君とか、その素顔丸出しの鼻眼鏡をかけている大丸先輩からして、ここにいる皆さんは錦織先輩絡みなんでしょう。でしたら主犯は同じサッカー部で取り巻きのあなたしかいないじゃないですか」
右近が指差していく中には、右近に注目が集まる隙にこっそりと預真の股下から逃げようとしていた同級生がいた。
さり気ないフォローを受けて預真が肩に担いだ鉄パイプを再びコンクリートの地面に突き立てる。
右近はそんなやり取りを横目に『うんうん』と満足そうに頷いて、
「ああ、皆さんもその場を動かないで下さいね。目には目をですか?一応こちらも先程の暴行現場の一部始終を撮影していますから。あしからず」
指し示した胸ポケットにはレンズ部分だけ覗いたウェアラブル端末が差し込まれていた。
やっぱり見ていたんじゃないか――。預真が一人抗議の視線を向けるも梨の礫。
「因みにサッカー部に関係ない方の素性もだいたい把握していますので、僕は関係ないよ~とか言っても無駄ですからね」
右近は常時細い両目を更に鋭く細めて、得意の脅迫で敵対勢力の足を縫い付けた上で、あえて「この始末どうつけましょうか?」と相手にボールを投げ渡す。
お互いに顔を見合わせるその様子には、悪意以外の感情を読み取る力の無い預真からもはっきりとした動揺の色が見て取れた。
だが、こんな状況に至っても自分達の優位を疑わない人間はいるものだ。
いや、右近が一人増えたところで相手側の数的優位は変わらないのは自明の理、一度は仲間を見捨てた連中だ。馬鹿をやって捕まった仲間を気遣う程の連帯感はないといったところだろう。
「状況わかってんのか雑魚がァ!!人質とったところで、どっちにしろテメエ等は終わりだっつの。中学でちょっと有名になったっからっていきがってんじゃねえぞ。高校レベルにンな脅し通じるかよ!!」
まくし立てるように声を荒らげたのは、駐輪場の入口で回し蹴りを放ってきたガタイのいい少年だった。
しかし、こういった状況に中学レベルとか高校レベルとか言っていて虚しくないのだろうか。的外れな気炎を放つ相手に預真が同情にも似た感情を向けていると、一人の少年が口を開く。
「おい金城、それ以上はやめておいた方が……」
「おやおや、あなたは、かつて教室で粗相をしてしまいウンコマンと呼ばれていた金城先輩じゃないですか。高校生のレベルとはどんなものなんでしょう。よろしければご教授ねがえますか?」
「ぶっ殺す!!」
あえて丁寧な言葉遣いで恥ずかしい情報を暴露する右近に、目深に被るフードから覗く顔が真っ赤に染まる。
誰の目から見ても明らかな本気の殺意が、誂うような右近の話を真実であると証明しているのだが、怒りによって我を忘れる金城はそこまで気が回らないようだ。
「まあまあ、そんなにカッカしないで下さいよ。かくゆう僕もウンコマンなんて呼ばれた一人ですから。まあ、本物の先輩とは違って僕の場合は名前がウコンだったからですけどね」
追加された安い挑発に金城が飛びかかる。
しかしながらそれは猪突猛進を体現するかのような突進で、避けてくれと言わんばかりのものだった。
実際、右近は真っ直ぐ殴りかかってきた金城を難なく躱し、もっと頭を使って下さいだの、今日はお腹の調子大丈夫ですか?だのと、挑発を重ねながら預真に向けて意味有りげな視線を飛ばす。
かたや目配せをもらった預真はというと、溜息を漏らし、中里の隣に置いてあった鉄パイプの頭を持ち上げ、その代わりに中里の腹に足を軽く腹に乗っけてから「逃げるなよ」と牽制。流れるような動きで自由になった鉄パイプをそのまま軽く横薙ぎに投げる。
脱力したフォームからブーメランのように放たれた鉄パイプは、頭に付いたL字の部品を振り回しながら、決して幅の広くない駐輪場を縦断。突撃される右近の耳と野獣のように暴れまわる金城のすぐ脇を掠めるように通過して、奥へ向かってカラカラと甲高い音を立てて滑っていく。
ウンコマンこと金城が走るのを止めて驚愕の視線で飛んでいった鉄パイプの行方を追いかける手前、右近から鉄パイプとコンクリートの床が立てた音に負けない甲高い声が聞こえてくる。
「危ないじゃないか預真!!」
「助けろって言ったのはお前だろ」
それすらも演出だったのか、棒読みで答える預真への糾弾をその一言で済ませた右近は、しょうがないなあと言わんばかりに肩の力を抜いて、
「折角、武器を持っているんだからさ。中里君を一発殴ってからこっちの応援に回るとか、他にもいろいろやりようがあると思うんだけど、
――っていうか、金城先輩に直接当てればいいんじゃなかったの。それを君は――僕に当たったらどうするつもりだったんだい」
既に大きく開かれた目をぎょっと大きく見開いて唖然と提案に聞き入る金城のリアクションに、ただのブラックジョークだろうにオーバーだな。預真は密かにそう思いながらも平然と会話を続ける。
「だから軽く投げただろ。そもそも俺なんて思いっきり殴られたんだからな。別に当ててもよかっただが、怪我させたとなるといろいろ面倒そうだろ。その点、お前なら文句言わないからな。それにだ。俺に守らせなくても、お前だけで十分対処できたはずだと思うからな」
預真の発言は金城を馬鹿にしている訳ではない。ただ右近なら相手が戦闘マシンでもない限り、口八丁でどうにかできるだろうという信頼――、ではなく、性悪だということを知っているからだ。
「まあ、そうなんだけどね」
言って右近が取り出したのは一見携帯端末に見えるスタンガン。
正確には携帯電話にスタンガンの機能を追加するアタッチメントのようなもので、携帯していても怪しまれないようにと知人に作ってもらったものなのだという。
とはいえ、それはテレビ番組などでお笑い芸人が受けさせられる程度の電気ショックしか放てない玩具のような代物らしい。
だが、派手に電気を撒き散らす視覚効果は抜群で、本来の性能を知らない人間からしてみたら充分足止めになったりもする代物だ。
弾ける電光に金城のみならず預真を取り囲んでいた少年達がジリっと後退る。
その動きに合わせて右近も預真と合流するべくゆっくりと前進するのだが、往々にしてこの時期の青少年には、危険に怯まない蛮勇こそがクールだと考える人間がいるもので、
相手の多さから警戒が散漫になる右近の隙をついて駆け出す一人の少年に、動きは素早く、しかし冷静に、右近が落ち着き払った声で指示を出す。
「じゃあ交代しよっか。この状況なら正当防衛だから手加減はいいからやっちゃってよ。もしもの時は知り合いのいい弁護士をつけるから安心して」
最後に添えられた言葉は(おそらく)ハッタリだ。
巷に流れる噂はどうあれ、預真は本当の意味での暴力沙汰を起こしたことはない。
仮に暴力とされるものがあるとしたら、右近が起こす騒動に巻き込まれた際に発生する火の粉を振り払ったものばかりで、一人を囲んで袋にするなどと平然と考えられるような彼等からしたら、預真の暴力など生温いものなのだ。
だが、中途半端に噂を信じる者が右近の台詞を聞いたらどう思うだろう。
目論見通り、突進をかけようとした赤い野球帽を被る少年の足元に粘るような戸惑いがまとわりつく。
その反応に、しめたと笑顔を浮かべた右近が素早く預真と合流。人質である中里を押さえる者と迫る少年に対処する役割をスイッチさせる。
そこからは簡単だった。
右近が宣った正当防衛ではないのだが、あれだけ傷めつけられた後で遠慮はいらないだろうと、右近の持つ偽物のスタンガン目掛けて突貫をかけた少年の首を、ラリアットのように絡めとった預真は大外刈り、相手のかかとを払い上げる。
すると突っ込んできた方の少年の体がアクロバティックに回転。くぐもった息を吐き出し地面に叩き付けられる。
向けられる悪意によって相手がどこを狙っているのかを把握できる預真にとって、この程度の芸当はさして難しいことではなかった。
しかし、襲い掛かる相手を最小限で倒してしまうその様が、まるで武術の達人であるように見えることを預真は知っていた。
予想外に大きくすっ飛んだ相手に内心では焦りながらも、デフォルトで備わっている不機嫌そうな顔が、その結末をさも当然のものだとたらしめているように見せていた。
本来ならばここで相手をビニール紐などで縛り上げ、一丁上がりという段取りなのだが、皮肉にも使えそうなものが入っているバッグは少し離れて見守る敵の向こう側。
何か代わりになるものは?閑散とした駐輪場を見回す預真にふと声がかかる。
「もう、預真は縄師なんだから自分の武器はきちんと携帯しておかないと」
右近が手に持っていたのは麻縄だった。そんな物をどこから持ってきたんだという疑問もあるが、緊急事態ということもあり、ありがたく使わせてもらう。
「縄師?」
受け取った預真の股下で呻くような声があがる。
「そうですよ。預真は由緒正しい捕縄術の伝承者。先輩達にも分かりやすくいうのならSMの女王様みたいなものですかね」
倒したばかりの少年から呈された疑問に答えたのは右近だった。
だが、どちらの例えも人聞きが悪過ぎる。
だが、そんな大層なものでは無いと反論すれば教えてくれる先生にも悪いしと、もくもくと少年を縛り上げる預真を他所に右近の滑らかな弁舌は続く。
「ふふ、相変わらず見事な手際だね預真。さあ、今日はどんな縛り方を見せてくれるのかい?
まあ、素材が素材だけに汚い作品になるだろうけど。金城先輩とかみたいにがっしりと筋肉質な人なんかは男色家の人達には好評なのかもね」
あっという間に一人縛り上げてしまった預真の華麗な捕縛技術に、右近はうっとりと意味がありそうな感嘆の溜息を漏らし、あからさまに例のビデオ撮影発言を聞いていたことを伺わせる言葉を残る少年達に投げかける。
「しかし、これだけの人数を一人一人縛るのはちょっと骨だね。面倒だから捕まえた先から気絶してもらおうか?」
そう言って右近が捕まえた中里にスタンガンを向ける。
途端、誰からともなく呻くような悲鳴が零れ、ジャリっと地面を蹴って2人の少年が走り去る。
全員が呆然とその背中を見送る中、右近の声が軽やかに響く。
「あらら、いま逃げたのって金城さんのグループですよね?わざわざ他人の下についてまで僕達をやっつけようとしたのに情けない。オカマを掘られるのを恐れたのかな」
右近の冗談を真に受けたのか、少年達から戦慄した空気が伝わってくる。
とはいえ、数の差は歴然だ。全員でかかれば少年達の側が優勢だっただろう。
だが、場の空気はすっかり右近によって掻き乱されていた。
「まあ、金城さん達は学校に行ってからってことで、まずは中里君を片付けちゃおっか」
言われるまでもなく淡々と作業と進めようと近づく預真に、右近に抑えこまれた中里が必死の抵抗を見せる。
「お、おい、冗談だろ。やめろって」
「暴れない方が楽になれるんだけど、やっぱりビリッと一発やっておくかい?」
「いやだ。やめろよ。触るなよ」
あからさまに楽しんでいる右近の誂いに、それを近付けるなと払った中里の手が偽スタンガンに触れてバチリ電光を弾けさせる。
いま中里の体に流れた電流は、気絶するには程遠いただ痛みを与えるだけものだった筈だ。
彼が冷静だったのならその微弱な威力に気付けたのかもしれない。
しかし、尻に火――ではなく別の危機が差し迫っているのかもしれないと思わされているこの状況で、それを自覚しろというのは酷というものなのかもしれない。
「ちょ、ちょっと、暴れないでくれるかな」
偽スタンガンの電撃に驚き、ロデオマシーンのように体をくねらせる中里に右近が苦笑交じりの声を上げる。
だが、中里は居並ぶ少年達に先鋒を任される程の武闘派だ。
そんな彼の無様な抵抗をひ弱でなまっちょろい右近が何時迄も押さえ続けられる筈もなく、預真が助ける間もなくマウントポジションを明け渡してしまう。
しかし、振り解いた中里の方も反撃をしようなどという精神的な余裕は無いようだ。立ち上がるのも待っていられないという様子で転げるように逃げ出してしまう。
そんな情けない姿に右近は思わず腹を抱えて「見てよアレ」と指をさすのだが、取り囲んでいた少年達としては笑い事では済まされない。
そして、中里の醜態が決壊にいたる最後の一滴となったのか。
「お、おい」
手を伸ばす小久保を尻目に一人また一人と各々に近い入口から戦線を離脱していき、ついには、その小久保さえも躊躇いがちに後退り、我慢しきれなくなったのか逃げ出してしまう。
残されたのは預真と右近ともう1人。名前も知らぬ野球帽の少年だった。
「た、助けてくれ、何でもする」
「ということだが、どうするんだ?」
懇願する野球帽の少年を置き去りに、ポツンと忘れられたバッグを拾い上げた預真の問いかけに、右近は「う~ん」と体を傾け、取り敢えずはと携帯電話でアバンギャルドなセクシーショットを激写。携帯電話に目を落とし、彼のプロフィールを並べ立てる。
「今吉農業高校二年の広島赤鯉先輩ですか。なかなかのセンスを伺わせる名前ですね。ああ。ご両親があの球団のファンなんですか。ご両親共に警察関係者?まさかその息子さんがこんな事をするなんて思っていないでしょうね。捕まっちゃったら悲しむだろうなあ」
暴かれる個人情報に声が出せない程に恐れを抱いているのだろう。過呼吸のような状態になってしまった広島に代わり預真が質問を飛ばす。
「なんだその検索機能は?」
「画像検索サービスってあるでしょ。あれを利用した携帯電話内検索みたいな機能かな」
返された分かりやすい説明に、随分便利になったものだと若干的外れな感想を脳裏に浮かべる預真の傍ら、携帯片手にしゃがみ込んだ右近は、携帯の先に取り付けられた雌クワガタの鋏ようなアタッチメントを広島の鼻先に踊らせて、頼み事を口にする。
「じゃあ、先輩にお願いです。つまらない嫉妬みたいなので僕の友達にちょっかい出さないで下さい――ってご主人様に言っておいてくれますか?」
個人情報を握られているという精神的な圧力に加えて、実害が及ぶように見える武器を突きつけられては、一方的な暴行に愉悦を感じようとしていた者の反抗の意思などすぐに刈り取られてしまう。
過剰なまでに頷きを繰り返す広島に右近はまるで堕天使のように爽やかな笑顔を浮かべ、
「分かってくれたならそれでいいんです。じゃあもう一つ。あ、でも、これは全部調べた後からの方がいいのかな。取り敢えず、電話番号を教えてもらってもいいですか?」
何か言いかけた後、本人の了解を得てポケットから取り出した携帯電話と赤外線通信。連絡先を交換すると、
「では、今日のところはこのくらいにしておきましょう。行っていいですよ」
満足そうに笑みを濃くした右近は、ポケットから取り出したマルチツールの紐切り部分で、引っ掛けるように荒縄を切り縛られた広島を自由にしてあげる。
すると、警戒するように身を低く立ち上がった広島はまるで森で熊に出会ったかの如く、こちらの動きを気にしながらも後ろ歩きでジリジリと駐輪場の出口まで下がってから、脱兎の如く走り去る。
「さて、忙しくなるよ預真」
そんな広島に糸目を弓にした右近の弾む声に、逃げていった彼等の行く末を憂う事しかできない預真だった。
◆右近が現れた時点で話を分割しても良かったのですが、話の流れた途切れるかも――と思いましてそのまま投稿してみました。
長かったでしょうか。まあ、クリスマスイブに暇を持て余している自分と同じような方の時間潰しになればということで……メリークリスマス。