大地の警告 -東日本大震災-
2011年3月11日午後2時46分、その時が来た。
いつものように、東京都中央区の勤務先事務所8階の机に向かい、事務仕事をしていた。そんな時、細かく上下に動く振動が始まった。これは初期微動だ、しかもかなり大きい。どこかでかなり大きな地震が発生したに違いないと、椅子に座ったまま、次の本震に備えて身構えた。そして強烈な揺れ。およそ今までに経験したことのない強烈な揺れが襲った。机の上にうずたかく積み上げた書類の山が、音を立てて崩れ落ちて行く。自身は、激しい揺れに翻弄されて、ひっくり返らないように、椅子に座ったまま踏ん張るのが精一杯で、崩れ落ちる書類を押さえることも、立ち上がることも、机の下に隠れることも、一切できない。昔から地震が来たら火を消せと言われているが、実際に大きな地震が来た場合は、そんなことはできないものだと思い知らされる。地震動は、最初強く、段々に減衰するのが普通だが、途中から一段と強くなったように感じた。まだ幼い頃、1968年に発生した十勝沖地震を苫小牧で体験していたが、それよりはるかに強い揺れだと感じていた。これは、ついに関東大震災が再来したのではないかと、そんな気がした。
揺れが収まった。机の上に積み上げていた書類の山はほとんど床に散乱し、足の踏み場もない。机の上のマグカップは転がっているが、幸い残っていたお茶はわずかだったため、被害はほとんどない。キャスターをロックして、相互に連結した机が、全部まとめて動いていたのには驚かされる。ビル自体は、阪神淡路大震災の後で耐震診断を行った結果、古い建物だが強度は十分と診断されていたので、倒壊する懸念はないとわかっていたが、天井の梁は角の部分に亀裂が入り、一部ではコンクリートが欠け落ちており、揺れの激しさを物語っている。キャビネット類は壁に固定されていたのでほとんど被害はなかったが、一部固定されていなかった小型のキャビネットが転落してひしゃげていた。幸い、停電や断水はないようで、ネットにもつながっているので、揺れが激しかった割には、被害は大きくないようだ。
とにかく、散乱した書類を何とかしなければならない。配置や順番は目茶目茶になってしまうとしても、とりあえず一旦積み直さなければ何もできない。ゆるゆると積み直し始めていると、本震から30分弱の午後3時15分、再び強烈な揺れが襲ってきた。先ほどの揺れよりは幾分弱いようだが、これも相当の揺れで、積み直していた書類が一斉に崩れ落ちる。最早呆然と崩れて行く書類を見送るしかない。
再び揺れが収まった。しかし、最早崩れた書類を積み直しても意味がない。どうせもう仕事にはならない。この際だから、必要最小限の書類を残して、大胆に処分することにしよう。床を埋め尽くした書類を端からざっと確認すると、どんどん処分して行く。とにかく床を空けて、身動きが取れるようにしなければならない。一部の書類は、再び散乱しないように床に直接積み上げて、ざっと整理をつけるのに1時間以上かかった。
その頃になると、被害の状況がだんだんわかってくる。被害は最上階の9階が一番ひどく、9階の会議室は天井のパネルが落下して、一面に散乱している。丁度会議の最中だったというが、誰も怪我をしなかったのは幸いだ。8階はあちこちの梁や壁がひび割れていて、壁際にいた人の話では、揺れている最中には壁の割れ目から外が見えたということだ。一方、下の階の揺れは大したことはなく、棚の物が落ちることもなかったという。どうやら、古い作りのビルだったため、上の階程揺れが増幅されて、激しい揺れとなったようだ。中央区の公表された震度は5弱だというが、8階の実質の震度は相当高かったのだろうと思われる。1968年の十勝沖地震の苫小牧の震度は5だったというから、それより強い揺れを感じたことを考えると、震度6以上に相当する揺れだったのだろう。6弱相当だとすると、気象庁の震度階級表では、耐震性の高い建物でも壁、梁、柱などに大きな亀裂が生じるものがあるとなっており、実感によく一致する。
少し落ち着いたところで、家族に連絡を入れておこうと思うが、電話は当然輻輳状態で通じない。携帯電話の方が通じやすいという噂もあったが、これほどの災害の後では携帯電話でも当然通じない。ただ、少なくとも基地局は生きているようだ。次はメールだ。これも到達は大幅に遅くなると予想されるが、いつかは届くだろう。試しに自分あてにもメールを送ってみるが、予想通りいつまで待っても届かない。他に連絡を取る方法はと考えて、災害伝言板というのがあることを思い出した。使ったことはなかったが、とりあえず試してみる。特段難しいものでもなく、繋いで見ると既に家族からの無事との伝言が入っていた。さすが、手が早いと思いながら、自分の無事を伝えておく。まずは一安心だ。
ネットが活きているので情報収集をしてみると、震源は宮城県沖だという。それほど遠い地震であれだけの揺れが来るというのは全く予想外で、震源に近い地域では一体どれほどの揺れが襲ったのかと空恐ろしくなる。30分後の地震の震源は茨城県沖だということで、地震の規模は本震より小さくても、震源が近くなったために本震に並ぶかという強烈な揺れが来たことがわかる。2日ほど前に、三陸沖で大きな地震が発生して、津波で養殖いかだが流されて大変な被害が出ているというニュースがあったが、それほどの地震が前震だったというのも驚きだ。今後の襲来が予想されている関東直下の大地震が来た場合、一体どれほどの揺れになり、どれほどの被害が出るのかと思う。
社内には何のアナウンスもないが、ぽつぽつと状況が聞こえてくる。上の階では被害が大きかったが、下の階では目立った被害はなかったということも、このころ聞こえてきた。また、社員の半数程度が、自主的に屋外に避難したということも聞こえてきた。これはいけない。地震の際は落下物の危険があるため、丈夫な建物の中に避難するのが原則だ。それに、今回は東京には被害の出るほどの津波はなかったが、もしも大きな津波が来ていたら外に出ていた人たちの多くが流された恐れもある。そういえば、会社で防災訓練はやっていたが、想定はいつも火災発生で、速やかに屋外に避難するというものだった。特にアナウンスがなかったこともあって、半ば習慣的に屋外に避難してしまったということもあるだろう。あるいは、耐震診断済みだということはあまり周知されていなかったので、古いビルに不安を感じて屋外に避難した人もあるかもしれない。防災訓練をするにしても、多様な想定で実施しておくことの必要性や、情報を周知しておくことの大切さを思う。
首都圏の鉄道は全て運転を停止していて、当面運転再開の見込みは立たないという。歩いて帰宅することも考えないではないが、そこまで無理をすることもないと考え、会社で夜を越すことにする。日が落ちた頃外に出てみると、近所のビルの外壁が大規模に崩落している。近隣に倒壊した建物や、火災の発生はないが、決して被害がないわけではない。道路には驚くほどたくさんの人が、歩いて帰宅するのだろうか、黙々と歩いている。近所のコンビニをのぞいてみると、食料品を中心に、空いている棚が目立つ。携帯電話の電池切れが不安なので、一個だけ残っていた充電器を買っておく。あらかたの店舗は閉まっているが、中には普通に営業している飲食店もある。猛烈に混んでいてもおかしくないが、どうやら何とかして帰宅しようとしている人が多いのだろう、行列がそれほど目立つ店もない。
夜になって地下鉄や一部の私鉄が運転を再開したというニュースも入ってきて、会社に残っていた人も順次帰って行く。運転再開した路線の情報を見ると、自宅の最寄り駅こそ再開していないが、比較的近くまでは行けそうで、帰れないこともない。さすがに、この時間に時ならぬラッシュということもないだろうとも思う。だが、無理をせず今夜は会社で過ごして、明日、明るくなって、全体的に運転を再開してから帰ることにしようと思う。明日はどうせ土曜日だし、最寄りの路線は明日朝7時から運転再開の予定だという。
会社の机での仮眠は、思った以上に寝にくいものだった。時折、思い出したように起こる余震に妨げられた面もあるだろう。あるいは、神経が高ぶっていたのかもしれない。さすがに疲れてもいたので、まんじりともしないというわけではなかったが、長く寝苦しい一夜を過ごした。
寝苦しい夜を過ごしながら、朝の事を思い出す。雀が鳴いたのだ。もちろん雀はいつも鳴くものだ。二階のベランダに餌台を置いて、毎日餌をやっているから、いつも近くに集まって来て鳴いている。しかし、今朝はいつもと違っていた。出勤しようと玄関を出た時、多数の雀が庭の低い植木に降りてきて、一斉にいつもとは違う鳴き方をしたのだ。その鳴き方は、猫などに仲間が襲われた時の鳴き方に良く似ていて、強い警戒を示しているか、襲って来ている相手を威嚇しているような鳴き方だ。猫でも来ているのかと思って見回してみたが、そのような様子もない。一緒に出た家族も同じように不審に感じていて、別に猫などが襲って来ているわけではないことをお互いに確認したものだ。その時は不審に思っただけだったが、今にして思えば、雀たちは何か不穏なものを感じていて、警告を発していたのではなかったか。もしかすると出掛けようとするのを見て、もう餌が貰えなくなると思ったのかもしれない。雀たちもなかなか頭が良いようで、帰宅すると庭木に降りてきて盛んにさえずって、餌を要求することを覚えていた。もちろんその時の鳴き方は全く違う。
朝になって7時から電車が動き出すと報道されていたので、余裕を見て8時近くなってから会社を出た。実際にこの程度で丁度良かったようで、最寄りの路線が動き出したのは8時過ぎになってからで、電車はべたべたに遅れて、かなり混んでいた。電車に乗ってみて、遅れている理由がわかった。とにかく速度を上げないのだ。車内に入った放送では、速度を35km/hに制限して運転しているということだった。そして、一部で停電の影響で踏切が機能していないということで、電車が踏切の手前でいったん停止して、安全確認の上で進行するということをやっており、驚くほど時間がかかった。
自宅に着くと、逆の意味で驚くほど平穏だ。目茶目茶になっているかと思った室内は全く元のままで、僅かに積み上げていた文庫本の一部が崩れた程度だった。それでも当日は一帯が停電して、昨夜は暗闇の中で夜を過ごすことになったという。その停電も既に復旧しており、ガスも水道も問題なかったのは幸いだ。耐震性を考えて、家の基礎をしっかり作っておいたのが良かった面もあったかもしれない。週明けの月曜日からは電車がまともに動かなくて通勤が大変だったり、その後ガソリンを始めとして物資の欠乏が見られたり、計画停電が始まったりということはあったが、それ程の不自由のない暮らしに戻って行った。
それからしばらくして、あっと驚いたことがあった。どこで見たのかは忘れたが、日本列島の地形が、海底地形も含めて表現された大きな模型を見かけた。ここが動いたのかと思いながら、三陸沖の海溝を目で追ってみると、その延長線上に北海道東部があった。海溝自体は北海道沖で東に向きを変えて、日本海溝から千島海溝に名前を変えるが、三陸沖から海溝の線を真直ぐに伸ばすと、そこは厚岸で、そして意外に近かった。それに気付いた瞬間、前年夏の出来事が蘇ってきた。
それは、前年の8月に道東に旅行した時の事だった。根室に投宿し、夜になってから道の駅『スワン44ねむろ』に行った。根室半島の付け根の、風連湖に面する位置にある道の駅だ。夜になって店が閉まれば静かになって、ひょっとするとフクロウか何かの声が聴けるかと思ったのだ。夜の道の駅は立ち寄る人もなく、静まり返っていたが、残念ながらフクロウの声は聞こえなかった。仕方がないので宿に帰ることにしたが、帰る道すがら、右手の山の向こうが明るく光っているのに気付いた。気になったので、温根沼大橋を越えたところで車を止めて見てみた。それはちょうど、山影でナイター設備のある競技場が煌々と明かりを灯しているような印象だった。でも、こんな所にそんな施設があるのだろうか。不思議に思ったが、何だかわかるはずもなく、そのまま宿へ帰った。
翌朝、宿の駐車場で、家族が遠くで大砲のような音がすると言う。耳を澄ましてみたが、よくわからなかった。気のせいではないかとそこを出発し、しばらく走ってから道の駅『厚岸グルメパーク』に立ち寄った。道の駅は厚岸の中心市街地を見下ろす高台にあり、厚岸湖と厚岸湾が見渡せる。そして、ここで確かに、大砲のような、あるいは遠雷のような音が、繰り返しているのが聞こえた。すぐに思い出すのは関東大震災の話だ。震災の前に、大砲のような音が海の方からたびたび聞こえていたが、海軍さんが演習していると思って気にしなかったという話がある。厚岸の沖合には千島海溝が伸びていて、繰り返し大きな地震を引き起こしている。すわ、釧路沖地震かと思うが、1993年に釧路沖地震があって被害が出てから、まだ17年しかたっていない。いくら何でも海溝型の地震としては間隔が短すぎる。
あるいは、厚岸から少し内陸に入った所にある、矢臼別演習場で演習をしているのかもしれない。日本最大規模の演習場で、大型の火砲の射撃を行うこともできるので、その音が聞こえてきているのかもしれない。しかし確かめるすべはない。わからないまま道の駅を離れて、内陸側に向かって走り、丘を一つ越えたところで車を止めて耳を澄ませた。何も聞こえない。海から音が聞こえていたのなら、内陸に入ったら聞こえなくなるのも納得できる。演習の音なら、演習場に近付いた分、よりはっきりと聞こえてもいいはずだ。一方で、単に演習が時間で終わっただけということも考えられる。結局何だかわからないままに、その場を離れた。
帰宅してから調べてみた。道の駅『スワン44ねむろ』の山側は、割とすぐに太平洋だ。そしてその間に、ナイター施設を持った競技場などなかった。それどころか、何の目立った施設も、街らしい街も、およそ光の元となるようなものは何もなかった。そして、矢臼別演習場については、その日は近くで地域の催し物があったため、演習は行われていなかったという記事を見つけた。しかし、釧路沖で海溝型地震が起きるには間隔が近過ぎることに変わりはない。
そして、今ならわかる。光を見たのも、音を聞いたのも、日本海溝をまっすぐ伸ばした延長線上なのだ。よもやそんな遠くのものが原因とは想像もしなかったが、何しろ地震の規模が桁違いなのだ。そして、震災の半年以上も前から、その前兆があったことにも驚かされる。恐らく、同じものを見たり、聞いたりした人はたくさんいるのだろう。しかし、自分と同じように、多分誰も気付かなかったのだろう。大地は、半年以上も前から警告の声を発していたのだ。そして、自然は、雀の声で当日の朝にも警告をしていたのだ。当日の午前中に、三陸沿岸で時ならぬ豊漁があったとも聞いた。しかし、その意味に自分たちは気付けなかった。あれから6年。道東の太平洋岸で大砲のような音が聞こえたという記事も、海が光っていたという記事も、いくら検索してもいまだに出てこない。




