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一般向けのエッセイ

最近の日本文学とこれからの日本文学



 大塚英志が最近の文学というのは「健全化している」という指摘をしているそうだ。佐野波さんのアマゾンのレビューで知った。多分、それは正しいのだろうと思う。


 「文学の健全化」という事で真っ先に頭に思い浮かぶのは朝井リョウだ。朝井リョウは、本人もきっと好青年だろうし、リア充だろうし、小説も健全である、と見て良いだろう。こう言うと、持たざる者の嫉妬という事になるだろうが、もう少し深く考えていこう。


 そもそも文学は別に病的である必要性というのは、特にないはずである。しかし、別に健全でなくてはならないという事もない。ただ、時代によって傾向性は違うという事は言えると思う。


 小林秀雄が、バルザックは時代の流れに沿って書いているが、ヴァレリーはひとりぼっちで、時代を背にして書いている、そういう違いがある、と言っていた。きっとその通りだろうし、文学者が自分の内的世界を守る為に、世界から孤立しなければならない時期というのは確かに存在する。しかし、時代の流れと共に、いわば勢いに乗って社会性を含んだ形で優れた文学作品を生み出す事が可能な時期も存在する。色々な時期が存在するだろうが、僕は歴史に詳しくないのでそこまで頭は回らない。


 それで、自分が一人思いつくのは、バタイユなんかだ。バタイユの思想は狭隘なものだが、片方に共産主義があって、第一次大戦、第二次大戦という大きな歴史の変動がある中で、独自の思想を保つのは大変だったのだろうという気がする。哲学の歴史を見ると、カントからヘーゲルくらいまでは、非常に雄大な、大きな哲学を展開しているが、マルクス辺りから危機意識が出てきて、それ以降は狭く細くなっていくというように見える。文学、現代アート、音楽もそんな傾向にあると思う。


 さて、そういう見方を現在に当てはめるとどうなるだろうか。先にあげた、「健全な」朝井リョウなどは、今の時代をある意味では代表しているように見える。朝井リョウのインタビューを見ていたら、「文学のイメージ、作家のイメージを覆したい」というような事を言っていた。朝井リョウが言っているのは、「根暗で偏屈な文学」のイメージをより「健全、リア充」なものにしたいというほどの意味で、別に大した意味があるわけではない。


 朝井リョウの「何者」という小説もそういうもので、そもそも大卒は真面目に就職活動をやるという前提がなくては読めない作品だ。スタート地点から社会の規範を受け入れ、社会の庇護を受ける事を前提としながら、時たま自分のアイデンティティを疑って文学っぽくしてみせるというのは生ぬるいという以上の事が言えない。しかし、人はこの生ぬるさに長く浸ってきたのだった。戦後の日本の発展がこの生ぬるさに浸る事を許した。今や非正規労働が半分に迫る勢いで、もはやこの生ぬるさは過去のものとなりつつある。朝井リョウが「リア充」であり続ける事は可能だろうし、事実そうであろうが、彼が基盤としている社会のあり方は変質している。人は、古い夢を見るのが好きだ。だから、文学も強引に古い夢を捕まえようとする。しかし、古い夢に酔い続ける事はできない。社会は今、変革期、混乱期にある。


 そういう意味では「コンビニ人間」という作品は、文学の転換を意味する作品になるかもしれない。「コンビニ人間」は別に素晴らしい作品だとは思わないが、少なくともそこには作家の意地があった。三十過ぎてコンビニで働いて生きて何が悪いのだ、という意地があった。この意地は評価されるべきものだと僕は感じた。ここでは、少なくとも、朝井リョウや、青山七恵ら、「日常ふんわり描く系作家」が見てきた夢は廃棄されている。もうずっとコンビニでバイトして、コンビニ飯を食っているだけというのが今の社会、今の生活だと、はっきり視認されている。もちろん、「コンビニ人間」はそんなに素晴らしい作品ではないし、過去の傑作とは比べられない。しかし、少なくとも夢は捨てた。淡い夢を見るよりは、例え醜悪でも現実を見据えているが良いと僕は感じる。そういう意味では「君の名は」「シン・ゴジラ」はやはり未だに夢を見ている作品だと言えるだろう。


 もともと、「ぬるい日常をふんわり描く芥川賞作家」というのは、戦後の日本の発展が基盤にあった。戦後復興して、経済的にトップなり、それなりに社会が整った時に、作家らは難しい事を考える事を止めて、自分の実存を問う事もやめて、微細な日常の心理を追う事にした。その転換点はもしかしたら、よしもとばなな辺りにあるかもしれない。よしもとばなな作品に出てきたある情景というのを僕は記憶しているが、それは近所の定食屋か何かの、店の雰囲気が良いのを描いた場面だ。ある点から日本の文学作品はこのようにして、日常の中に拘泥するようになった。そこでは、彼氏、彼女、夫、妻、社会人、学生といった様々な立場の人が出てくるが、皆、こじんまりとした人物だ。そしてこれを作家が空想で破ろうとしても、なぜその空想が必要なのか、作家自体がはっきり認識していないために、ただ試みとして暴力やセックスを描いてみせるというのに留まった。また、日常描写に残虐描写を対置させようとしても大した意味はない。問題は、それをなぜ描くかという事を作家が認識していないかぎり、単なる遊戯にとどまるという事だ。


 例えば平野啓一郎の「決壊」という小説があって、これにはドストエフスキー風の人物が出て来る。しかし、これはあくまでもドストエフスキー「風」であって、ドストエフスキーのキャラクターとは本質的には似ていない。ではなぜ、似ていないか。


 ドストエフスキーにはラスコーリニコフがなぜ社会に出現するのか、優れた知性ある青年がなぜそのような思想に囚われ、殺人という行為に走るのか、はっきりと見えていた。ドストエフスキーにとって文学問題はそのまま社会問題だったし、漱石もそうだった。彼らは現実のあり方から、人間はどのようにして生きているか、生きようとするのかを洞察しつつ、書いた。あるいは彼らは、社会問題の解決を文学という方法で試みた、と言う事もできる。世界はこのようにある、では個人はどのようにして生きるべきか、という問いに、彼らはそれぞれの文学作品で答えた。漱石の場合は、封建社会が崩壊してきた時に、自由に生きたいと願う人間の悲劇がテーマになったし、ドストエフスキーの場合にもまた、限界を越えようとして犯罪を犯す人間が現れてきた。漱石にしろドストエフスキーにしろ、単に犯罪や恋愛が問題となっているのではない。彼らにとって犯罪行為や恋愛事件にはあらゆる世界の諸要素が詰まっているのである。今生きている個人には、世界全部が封入されている。そういう洞察があった。


 しかし、平野啓一郎にはそういう認識はおそらくないし、それを平野啓一郎に求めるのは過大な要求という事になるだろう。だから、平野啓一郎は形式的にドストエフスキーをなぞるにとどまる。この問題を村上春樹にずらしても同じ解答が得られる。村上春樹は平野啓一郎よりは本質的な作家だが、やはり漱石、ドストエフスキーとは比べられない。

 

 この問題をもう少しずらして考えてみよう。朝井リョウは「作家のイメージを覆す」というような事を言っているが、それは大塚英志の言う「文学の健全化」である。そしてこの文学の「健全化」は現在の消費社会に適したものと言えるだろう。つまり、作品というよりは「商品」に近いのであって、書いている本人は新しい事をしているつもり、エンタメを紡いでいるつもりなのだが、実際はこの社会の機構、あり方が作家に対して必然的に要請している形式という事である。これは例えば「一生懸命、受験勉強して社会を這い上がる物語」に代表される。こうした物語は作家が書いているというよりは、社会が自らに対して肯定的な物語を必要としている為に、作家がいわば「書かせられている」と見る事ができる。


 こうした事は様々な事に見られる。今の「文学志望者」は「新人賞」を取る事を目的としている。そして「新人賞」には選考委員がいる。選考委員と関係しているのは出版社で、出版社は社会と関係しており、最終的には力を握っているのは消費者である。


 出版社や選考委員が、エンタメ志向、難しい事は嫌だ、面白い事だけをくれ、という消費者の意向をはねつけて、自分達の基準で作品を選んでいるならまだ希望が持てるが、実際、そんな風には見えない。現状の「純文学」は、元の文学をオリジナルとするなら、それを何度も希釈したもののように見える。つまり、文学が社会に対して開かれ、社会と闘おうとするよりはむしろ、社会に順応しようとしており、社会内部では「文学っぽいもの」が規範として守られているか、あるいは「売れれば勝ち」というエンタメ志向であるかのどちらかで、大抵の作品はどちらかに寄っているように見える。これは安定した社会の中で人が作品を読み、味わうというよりは、それを消費するようになった結果なのだと思う。作家もどこか真剣に書いていない。まるで自分の作品に他人事のような態度で書いている。すぐにメタな位置に立ってキャラクターやストーリーをこねくり回したがる。そしてそれを創造性と誤解する。


 ここまでをまとめると、要するに、文学は社会と向き合い、それを描き出すというよりは、社会が自分にとって必要な文学作品を生み出し、社会の規範の強化に使われている、という事だ。なぜそのような作品が必要とされるかと言うと、簡単に言って「社会」とは現代人の宗教だからだろう。この宗教の正当性を証明する事が、多くのフィクションに課せられた課題でもある。しかし、過去の文学、芸術を調べれば、それだけが芸術の機能ではない。芸術は社会に巧みに従う振りをしつつ、社会を越える要素も持っていた。偉大な芸術家が、後から評価されるというのはそういう原因が考えられる。


                           ※


 ここまで、非常に雑に社会と文学の関係を考えてみたが、もう少しだけ言いたい事があるのでそれを最後に書いておこうと思う。


 今の作家というのは、僕の目からは、大抵、バルザック、フローベール、モーパッサン辺りの自然主義を基礎とした文体ではないかと思う。もちろん、今の作家には「バルザックなんか読んだ事もない」という人もいるだろうが、自分の言いたいのは根源な意味だ。


 バルザックの認識にはまず、きちんした形で成立した近代社会があった。西欧型の国民国家、近代社会において、それぞれの人間はそれぞれの場所を守りながら日常生活を生きている。すると、この日常生活を俯瞰で描く視点があるはずだ、という確信からバルザックの小説は始まっているように見える。個人は社会の部分を構成しており、自分の欲望や意志で生きていながら同時に社会的存在であるという、そういう視点があった。ゲーテの言葉で「それぞれの市民が家の前を綺麗にすれば街中が綺麗になる」というのがある。この言葉は西欧近代の理想を手短に言い表したように見える。この視点が崩れてきて現代がスタートするわけだが、現状、近代社会が完全に崩れたわけではない。様々な経済・政治制度はやはり近代的なものとしてある。しかし、例えば、政治においてネット、SNSが強烈な力を持つなど、きちんとした制度とは違うところで、近代的なものはほころびが出てきている。そういう時代では、作家もバルザック的な視点を変えなければならない。そういう風に見ている。


 しかしながら、現代の作家はそういう点はそれほど意識していないように見える。文体を見れば分かるが、大抵は普通の書き方、つまり一人の人間の言動は社会の中での本人の立ち位置、本人のあり方を示すと無条件的に前提されている。これを、文体だけひねくり回しても事は変わらない。


 僕が思うのは…そもそも、人間が変質しているという事だ。バルザック的近代において、人間は部分を構成するという意味において、全体に奉仕する存在だった。それぞれの人間は市民社会において、それぞれの分を守っていた。これは現代では、夫、妻、息子、娘、あるいは会社員であり、学生でありといった様々な立場として生きている事がそのままその個人として生きている全てだ、という事を意味している。


 しかし、現代においては、例えば、インターネットなどで、個人はそのまま世界に直結する存在となった。個人は世界中に、自分の意見を表明する事ができる。社会のほんの一部分でしかない人間が、世界中の情報を知り、それにしたがって自分のあり方を変容させる事ができるようになった。世界と私は直結し、それによって、私の自意識は部分ではなく、世界と同じくらいの大きさに膨れ上がった。


 ただ、同時にそれとは逆方向の運動も起こった。人口の増加という問題もあって、個人は、現実存在としては以前よりはるかに卑小なものとなってしまった。人口は増え、社会機構は大きくなり、かつてよりも個人の無力さ、卑小さはより強烈なものとなった。かつてのように、個人は社会の部分を成しているという自覚さえも持てないほどに、微小な原子となった。大きな社会、経済組織の中で、僕達は自分の意志とは違うものに毎日を左右されて生きている。そこでは僕達は社会の大きさに対して個人の小ささを否応なく見せつけられている。例えば、自分が仕事を一日サボったらそこでどんな害が出るか。社会は巨大な機構であるが為に、その一部分、歯車が一つ欠ける事も許されない。その無意識的圧力が僕達の背中に常にのしかかっている。


 つまり、僕達は歴史が進歩したおかげで、個人の自意識や情報は膨れ上がったものの、現実存在としては非常に卑小なものとなってしまった。そこでは日常生活は矮小化したが、同時に、個人の内面、意識は巨大に膨れ上がった。これは現代的な人間の姿であるように思う。さて、そのような人間がうごめいている社会を作家はどのように描けばいいか。


 また、そこでは倫理の問題も重要だ。かつてのような社会が平然として存在しているものではない事が分かった時、人はどのようにして生きればいいだろうか。漠然と、日常生活をそれなりに愉しめばいいという時代が終わって、人がどう生きるべきかという根源的問題が問われている。今の社会はそれに対する答えがほとんどない。その答えとして用意されているのは「金を稼ぐ事」「有名になる事」だったりするが、これは当然、大衆社会に迎合した発想であり、個人の自由や主体性は抜きにされている。個人は社会に服従する事が幸福であるとするなら、果たして幸福とはそんなに素晴らしいものだろうか。ここに至って、古代の倫理が帰ってこざるを得ない。ソクラテスの刑死、「ただ生きる」ではなく「よく生きる」という選択(「よく生きる」の為には死を選ぶ事もある)は現代の問題として戻ってこざるを得ない。価値観が崩壊している現代では、価値観は自分で作らなければならない。


 …さて、これまで現代の文学の問題点について書いてきた。ただ、これはあくまでもメモ書きみたいなものなので、この文章は問題点を提出するだけに留めようと思う。もともと、この手の文章は自分の思考整理の為に書いている。この手の文章が自分以外の人にも参考になれば、結構な事であると思っている。

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[良い点] プロの方なのでしょうか? 非常に面白く読ませて頂きました。 昔から国語に対する苦手意識が私の読書欲を邪魔して、そのためか文学からも横目でチラチラ見ながら遠ざかって生きていたのですが、 …
[良い点] 自分にはこう言う内容のエッセイは書けませんし、書きたいと思った事もありません。 でも、誰かに書いて欲しかったですし、誰かが書かなければいけなかった内容だと思います。 書いてくれてありが…
[一言] 『日常生活は矮小化したが、同時に、個人の内面、意識は巨大に膨れ上がった。』 すごい。上に挙げたこの一文だけでも核心を突いているし、そこに至るまでの例示、思考・論理の流れ、それらが上手くまとま…
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