魔女と英雄
ロザリー・ウェルベックは魔女ではない。
少なくとも彼女はそう自負しているのだが、しかしそういった噂が流れているというのもまた確かなことだった。
だから、今のような状況は決して珍しくない。
「あの盗難事件はお前の仕業なんだろ」
というふうに。
魔女、という噂から否定的な想像を膨らませた他人に話しかけられること。路地裏で見知らぬ不良に絡まれること。虚構の噂により不本意な疑いを掛けられることは、それほど珍しいことではない。
そういったことだけなら、決して珍しくはなかったのだが。
「──そこまでだ」
だが、その場面で助けが入るというのは初めての経験だった。
唐突に横合いから声が掛けられると同時に──ロザリーと男の間に割って入った人影が、彼女に絡んでいたその男を殴り飛ばす。
「事情を知っているわけじゃあないが……女の子ひとりに対して大の男が大勢で囲いこむなんて状況は、これ以上は許せないな」
赤く、紅く、緋い──真っ赤な髪の少女だった。
腰にまで伸びる真紅の長髪。その長さに比例しているかのように身長は高く、ロザリーに背を向ける姿は頼もしく感じられる。その服装がロザリーが通っているのと同じ学園の制服であるというのは、後ろ姿であっても見てとれた。
「な……いきなり邪魔してきやがって! 誰だお前!」
動揺からかあまりにも典型的な不良らしく因縁を掛けるその男は、助けられたという精神的余裕もあってか滑稽にすら思えてしまう。自分たちの優位だと思っていた情勢が覆された、ということを考えれば、それも無理はないのだが。
そして、虚勢を張る男に正対するその少女は、あくまでも自然体でその誰何に応じる。
「あたしの名前はアサヒ」
背後にいるロザリーからでも彼女が笑みを浮かべたということがはっきりわかるような、高らかなそれは口上で。
「ヒーローだよ」
それが、ロザリー・ウェルベックとアサヒという少女の──風評に語られる魔女とヒーロー志望の、物語の始まりだった。
1
ロザリー・ウェルベックは落ちこぼれである。
あくまでもそれは、彼女が通う学園での評価なのだが。
魔女であると噂されているのは事実だが、その風説に反して彼女は一切の攻撃系魔術を扱うことができない。適性の有無は天性のものなので、今後使えるようになる見込みもないだろう。
魔女だといわれている少女が身体能力に優れているはずもなく、ありとあらゆる運動はロザリーの不得手とするところである。
そして不運なことに、彼女が通う学園は生徒の戦闘能力を重要視している──それも、単独での戦闘能力を。
もちろん場面に応じては協力することを否定してはいないのだが、どんな状況においてもひとりで生き抜くことができるように──、そのための教育指導を行っていくというのが、学園側の公的な声明だった。
故に、ロザリー・ウェルベックは落ちこぼれなのだ。攻撃魔術にも身体能力にも優れない彼女の単独での戦闘力は、皆無だといって相違ないのだから。
そんな彼女のことを気に掛ける者は当然多くない。無関心であるだけなら構わないのだが、自分より劣っていることを理由に侮蔑し軽蔑してくる者も多いのだ。
それは要するに。
「えっと、助けてくれてありがとうございました」
落ちこぼれの魔女が落ちこぼれの不良に絡まれていたところで、見て見ぬふりをする輩か弱者の戯れと嗤う輩かしかいないのが常態だった。そういう場面で助けが入るというのは、まさしく初めてのことだ。
もっとも、今回についてはただ絡まれていたというのとは事情が異なるのだけれど。
「気にすんなって。襲われている女の子を助けるのは、ヒーローであれば当たり前のことだ」
「……はあ」
そして、助けに入ってくれたアサヒという少女もまた風変わりな人物だった。
路地裏を逃れ、落ち着いた場所で正面から見た彼女は驚くほどに美しい。特徴的な赤髪に目を惹かれるが顔立ち自体も非常に整っており、鋭い眼差しと不敵な微笑が彼女の気高さを窺わせる。
身に纏っている制服から察するに、やはりロザリーと同じ学園の生徒であるらしい。ならば落ちこぼれとの評判を知っていたうえで助けようとした、ということで。
しかし、それ以上に気になるのはその自称である。
「その、ヒーローっていうのは……?」
ヒーロー。英雄。正義の味方、悪の敵。主人公。つまるところの特別な存在──。
物語に語られるような華々しさをもつその言葉について尋ねると、
「言葉どおりの意味だよ」
当然だろ、とでも言いたげな表情での答えが返ってくる。
「窮地に陥った女の子を助けるような。見知らぬ誰かのために体を張れるような。そうして世界を救えるような──そんなヒーローに、あたしはなりたいんだ」
憧れているというだけではあるんだが、とアサヒは苦笑して。
「そして今は、あの盗難事件を追っている」
「…………」
盗難事件。
その言葉が意味するものは、もちろんロザリーも知っている。
学園の中のある部屋から──事務室やら学園長室といった部屋に連なるような、要は教師側に属する部屋なのだが──その一室から、とある重要なものが盗まれたのだという。重要なもの──つまりは機密の類である。学園の重要機密であるが故になにが盗まれたのかさえ明らかにされていないが、しかし確かになにかが盗まれた、というそんな事件。
その事件のことはロザリーもよく知っている。一般の生徒よりはよほど核心に近いところにいる、と述べることもできるだろう。
なにせ、まさに今。
『魔女』が盗難事件の犯人なのではないかという疑いを、ロザリー・ウェルベックは掛けられていたのだから。
「一応聞いておくが、お前は、えっと」
「私はロザリー・ウェルベック。もちろん、その事件の犯人なんかじゃないわ」
「そっか。ちなみにロザリーが魔女だっていうのは」
「それも違う。そもそも、攻撃魔術を使えない私が魔女であるはずもないじゃない」
ふたつの噂を両方とも否定する。事実無根もいいところだ。第一、盗まれたものの正体もわかっていないというのに、どうして特定の人物を犯人だなどと指摘できるのだろう。
「その質問からすると、調査はあまり進んでいないみたいね」
「……まあ、そうだな。とりあえず盗難物のことを知っていそうな貴族連中には話を聞いてみようとしたんだが、当然あたしなんかに機密のことを明かせるはずもない。もっとも、連中も詳細はあまり知らないようだったが」
学園の運営に携わっているような貴族たちの子息であれば事態を把握しているのではないか、ということだろう。残念ながら思惑は外れたらしいけれど。
「そんなこんなで、まだ訪ねていない残り少ない貴族連中とどう話をつけようか思案している最中に、不良に絡まれているお前を発見したってわけだ」
「なるほどね。どうして……、いや」
なぜ落ちこぼれのロザリーを助けようとしたのか、ということは尋ねなくとも大丈夫だろう。アサヒ自身が言っていたことだ。
たとえそれが冗談なのだとしても。
ヒーローに憧れていると真剣に語るような少女は、落ちこぼれか否かで助ける相手を区別したりはしないのだろう。
「そこで、だ」
ヒーローを名乗る少女は、改めてロザリーに向き直った。強い視線がまっすぐに彼女を射抜く。思わず怯みそうになるのをこらえる。
「ロザリー、あたしの調査に協力してくれないか?」
「……協力?」
「そうだ。事件に直接は関係のないあたしには口を開いてくれないやつらも多くてな。その点、容疑者だといわれているお前になら話をしてくれる人もいるかもしれないし……今日みたいに絡まれる前に助けてやれる」
考える。
もっとも、考える前から答えは決まっているようなものだった。アサヒの頼みを受けることによる不利益はまったくない。これまでの学園生活で慣れているとはいえ、疑われるのも絡まれるのも面倒だ。前々から放課後にはたいてい暇を持て余していたし、たまにはごっこ遊びのような犯人探しにつきあうというのも面白いだろう。
なにより、興味が湧いた。
躊躇もなくヒーローを名乗れるような、ためらいなく他人を助けられるような、アサヒという少女に。
「わかった。協力するよ」
魔女と噂される落ちこぼれと、ヒーローを名乗る少女の、奇妙な協力体制の結成だった。
2
ロザリー・ウェルベックは決して顔の広い学生ではない。
落ちこぼれだ、という風評の影響も大きいのだろう。話しかけてくるような変わり者はそうそういないし、まして貴族の子女などと知りあえるはずもない。
だから、彼女が『貴族』というものを目の当たりにするのはこれが初めての経験だ。
アンジェリカ・ケネット。
アサヒがまだ訪れていなかった貴族の子息たち、そのひとり。
その名前が貴族としてはよくあるものなのかそうではないのかもロザリーにはわからないが、少なくともアンジェリカ本人に対する第一印象は、典型的な貴族だな、というものだった。綺麗な金色で縦巻きの髪型と豪奢な装飾品がそう思わせた、というのにすぎないのだが。
そして、彼女の周囲に目を向けてみれば「典型的な貴族だな」という印象も覆される。
会談の場所として指定されたアンジェリカの自室に入って、まず意識させられるのはその暗さである。とにかく暗い。やけに暗い。単に窓が隠されているだけでそう感じるのは、おそらく今が昼間だという認識のせいだろう。この時間帯にしては異様に、視界が暗い。
そして、アンジェリカの服装は黒い。制服ではないのは自室の中だからなのだろうと推測できるし、貴族という印象に背くわけでもない高級そうなドレスだというのも確かだ。確かなのだが、基調となる色が真っ黒である上に装飾もまた暗色系である。
他にも、部屋の中にいろいろと怪しげな物品が置かれているのがわかる。典型的な貴族だなんてとんでもない。
自分なんかよりも彼女のほうがよほど──はるかに魔女らしいのではないか。
それが、アンジェリカ・ケネットという少女に対する、最終的な印象だった。
そんな奇怪さに怖気づいたロザリーとは違って、アサヒは淡々と訪問の意図を説明していた。盗難事件について調べている、ということ。傍らの少女が容疑者だとの噂は誤っていること。その疑惑を晴らすためにも、知っていることがあれば教えてほしいということ。
のちに聞いたところでは、アサヒがこれまでに訪れてきた貴族にもこのような変わった趣味の輩は少なくなかったのだという。この程度はましなほうだ、とも言っていた。
それを踏まえても、充分に堂々とした態度だったが。
「……ふむ、なるほど。事情はわかりました」
ともあれ、その話を聞いたアンジェリカの様子はロザリーの想定とは違っていた。てっきり貴族という連中は庶民の話に耳を傾けるつもりも平民に情報を提供するつもりもないものだと考えていたが、少なくとも彼女はそうではないらしい。
「そういうことなのでしたら、残念ながらわたくしに手伝えることはございませんわ。盗みがあったという部屋になにか重要な機密が保管されていたという話も耳にしていませんし、犯人探しに役立つような情報もございません」
わたくしの家柄がそれほど高くないからかもしれませんが……、とアンジェリカは微苦笑する。
「ただ、本当に重大な機密が盗難されたというのであれば、理事会だとか警備員だとか……、そういう立場にある方々がじきに事件を解決してくださると思いますわ」
「まあ、それはそうなんですけどね」
今度はアサヒが苦笑を返す番だった。路地裏で見せていた不遜な態度は、相手が相手だというのもあってか覆い隠されている。丁寧なその物腰やその美貌を見ていると、彼女も高貴な身分の生まれなのではないかという気もしてくるから不思議だ。
「じゃあ、これは純粋な興味から質問するんですが──この部屋はどういった趣向の部屋なんですか?」
「おや」
そこに目をつけますか、とでも言いたげな、驚いたような表情のアンジェリカ。それに続くのは困ったような──それでいてなにかを企んでいるかのような、不思議な微笑で。
「……わたくしは、コロナ=イロードに憧れているのです。伝説に残る、かの『魔女』に」
その言葉でアサヒの顔が凍りつくのが、はっきりとわかった。
3
コロナ=イロードは魔女である。
あくまで偽物であり、噂に語られるだけの魔女であるロザリー・ウェルベックとは異なる、正真正銘の魔女であった。
その伝説の舞台となるのは、今からほんの百年前から数十年前にかけての時代だ。その『魔女』の名前は、恐怖を伴ってはっきりと天下に轟いていたという。
魔女。その言葉から想像されるあらゆる行いがそのままコロナ=イロードの魔女伝説に一致するといわれている。それほどに彼女は、魔女と呼ぶのにふさわしい魔女だったのだ。
罪のない一般人を傷つける邪悪な魔女としてだけではなく、誰かを気まぐれに救う善良な魔女としてだけでもなく。これまでの歴史には『何々の魔女』という二つ名で知られる人物も少なくなかったが──それらの魔女がもつ歴史を圧倒的に上回るほどに魔女らしく在ったが故に、コロナ=イロードは単に『魔女』、と呼ばれている。彼女はまさしく魔女の中の魔女だったのだ、と語る魔女学の権威も多い。
そうして自身の名を世界中に知らしめた『魔女』は、数十年前に唐突に歴史から姿を消した。寿命からするとまだ彼女は生きているはずだと述べる学者もいるが、いずれにしても消息は定かではない。
以上が、コロナ=イロードについてロザリーが知る情報である。魔女という不本意な噂を立てられたこともあり、自分なりに調べてみたことがあったのだ。その際にも、この『魔女』に関しての言説は山ほど見つかっていた。
そんな存在に、アンジェリカ・ケネットは憧れているのだという。
まあ、そういったことも珍しくないのだろう。コロナ=イロードは歴史的な時系列からすると最も身近な伝説である。当時を知る者も多くいるだろうから。
ただ、アサヒの反応はロザリーとは異なっていた。
「あたしはその『魔女』とやらが嫌いなんだよ」
だからこれ以上話を聞くつもりもないのだ、と。
そうしてふたりはアンジェリカが暮らす学生寮を後にした。時間は夕刻に近づいている。調査の続きは明日になるだろう。
「結局、今回も有用な情報は得られなかったわけだ」
これまでにアサヒが訪れてきた貴族たちから聞き出していたことも話してくれたが、あまり重要な情報はなかった。強いていえば、貴族の子息には奇矯な趣味をもった者が多いことや、地位の低い者の話を聞こうとしない貴族も当然いたということがわかった程度だ。
「とりあえず、明日からも残る数人の貴族を訪ねていきたい。もしそれでも役立つ情報が手に入らなかったら、まあそのとき考えるか」
一応、貴族以外の生徒や教師へと聞きこみをしたこともあるが、こちらも成果は芳しくなかったという。
結局はアサヒも正義感の強い一般人にすぎないのだから、むしろ事態が進展していたほうが怖いのではないかとも思う。
「まあ、今日はこのあたりで解散だな。ロザリーが暮らしている寮はどのあたりにあるんだ?」
「私のはこの先に」
「そっか、奇遇だな。あたしもこのすぐ先のところの……、」
驚いたようにアサヒが立ち止まるが、ロザリーのほうも同じ心境だった。どこを目指して歩いているのだろう、と疑問を感じていたのは確かだが。
今歩いている道の先にある建物といえば、ロザリーが住んでいる学生寮くらいのものである。
つまりは、そういうことなのだった。
それからの数日は大きな出来事もなく過ぎていった。
基本的には、アサヒが今までに訪ねたことのない貴族たちの話を聞いていく。しかし進捗はない、ということしかできない。
訪問を快く受け入れてもらえることも、門前払いを受けることもあった。そこに共通しているのは、ろくな話を聞けなかったということだ。盗難事件自体についての噂も次第に下火になっていく。
貴族の訪問と並行して街中で聞きこみをすることもあった。この街は学園を中心に、学生寮や学生向けの店舗などにより形成されているため、通行人もほとんどが学園の関係者である。落ちこぼれのロザリーの話を聞いてくれる人はあまりいない。
うっかり単独行動をとってしまったり、単独ではなくとも路地裏を通ったりする際にはたまに不良に絡まれたりはしたが、そのときにはいつもアサヒが助けてくれた。
そのこと自体は確かに嬉しかったのだが、路地裏の界隈において彼女に対する恨みが募っているのではないかという心配も膨らんでいた。
一度、尋ねてみたことがある。
アサヒはどうしてヒーローに憧れるのか。
どうしてヒーローに憧れ続けていられるのか。
自分の行動がヒーローらしいものだとどうして信じられるのか。
偽善者と謗られることもあるのではないか。それが怖くないのか。
彼女はその問いに真剣に向きあってくれた。そして答えた。
「確かにな。世界っていうのは善悪できっちりと二分できるようなものじゃない。それはわかってる」
自分の行動が絶対に正義だとは限らないのだとわかっている、とアサヒは言った。
「他人に暴行を加えた、その手で弱者を助けるような誰かがいる。他者を救った、その手で敵を殺すような誰かがいる。そんなことはよくわかっているんだ。だけど、さ」
それでも。
「それでもあたしは、ヒーローでありたいんだ」
それが彼女の、答えだった。
そんな日常が過ぎ去っていった、ある日のことだった。
その日、ロザリーは放課後に教会を訪れていた。以前から世話になっている教会で、月に何回か手伝いをしに行っていた。それ自体はいつもの用事だったのだ。なら今日は自分だけで調査をしよう、とアサヒは言っていた。
それに反対する理由があるはずもなかった。
いろいろとあって、ロザリーが寮に戻ってきたときには日は沈みかけていた。門限というものがないとはいえ、流石に夜にひとりで出歩くというのは怖いから、帰る足は自然と速まっていた。
帰宅したことを報告するために寮の管理室のところへと向かう。部屋に戻ったらアサヒと一緒に夕飯を食べよう、なんて考えていたロザリーに管理人が言葉を投げかけたのは、そのときだった。
「アサヒがまだ帰ってきてないんだけれど、なにか用事があるのだとか聞いていないかい?」
最近よく一緒に出かけているだろう、と管理人は屈託なく笑う。その笑顔に邪心が隠されているとは思えなかった。いつもの日常の一幕として掛けられた言葉だ、とロザリーにもはっきりわかった。
「……いえ、特になにも聞いていないです」
嫌な予感がした。
4
──その少女は追い詰められていた。
事情はその日の放課後にまで遡る。教会に向かうというロザリーと別れた少女は、ある手紙を受けとっていた。
果たし状。
いやに時代がかった題のつけられたその手紙には、単純な文面で時刻と場所が記されていた。路地裏の奥深く、すでに使われることのなくなった建物。そこで待つ、と。
罠であることは一目瞭然だった。だからといって行かない理由はない。
罠を正面から乗り越えてこそのヒーローだからだ。
指定された時刻までいったん寮に戻ったりして多少の時間を潰すと、少女は路地裏へと入っていった。
果たし状に記されていたとおりの場所にあったのは、経営が立ち行かなくなって潰れたのだと思しき塾の建物だった。学園の授業についていけない学生たちを商売の対象としていたのかもしれないが、最近は学園での補講も充実してきている。需要がなくなったために廃棄せざるをえなかったのだろう。
ともかく、待ちあわせは建物の中である。警戒を怠らずに廃塾へと侵入していく少女。彼女を待ち受けていたのは、以前彼女に邪魔をされたことのある不良たちだった。
その数は目測で百人超。
少女の身体能力がある程度優れているとはいっても、単独で対処しきれる人数ではない。
逃亡を図った矢先に唯一の出口は不良たちによって塞がれた。
退路は断たれた。
そうして、一方的な戦いが始まった。
立ち止まっていては物量に押し潰される。背後は封じられている。少女に許されていたのは、真正面へと強硬突破することだけだった。
人波を強引に突き抜けて廃塾の奥深くへと入りこんでいく。階段を上がっていく。進む先に次から次へと現れる敵をあしらいながらさらに奥へと進む。
少人数に分断すれば各個撃破できたのかもしれないが、人数差は絶対的だった。どこまで進んだところにも必ず敵が待ち構えている。階段を上がりきってしまえば別の階段を通じて下りていくしかない。当然、その先にも不良たちが待っている。
決着は時間の問題だった。
次第にかすり傷が増えていく。動きから切れがなくなっていく。足が重くなっていく。強引に突き進むことが難しくなっていく。
そうして、限界が訪れる。
「──ぐっ!?」
一瞬の油断の隙に、不良のひとりが放った蹴りが少女を正面から捉える。疲労の重なった身体はたやすく吹き飛ばされた。
ちょうどそこは廃塾の一階、その入り口となる空間だった。出口を塞いでいた不良たちは少女を追うために持ち場を離れており、扉は閉ざされているだけで、脱出することもまた可能だった。
少女に動くことができれば、の話だったが。
「よくもまあここまで俺たちをコケにしてくれたもんだなぁ!?」
不良たちを指揮していた男が怒りを露わにしながら──、しかしその口を笑みのかたちに歪めながら、叫ぶ。
「あぁ!?」
男の蹴りを避けることもできず少女は再び蹴り飛ばされる。体力はすでに尽きていた。そのあまりにも無力な──不良たちの邪魔をしてきたときとはまったく異なる姿を見て、男は嗤う。
その口から──そして周囲の不良たちから放たれるのは、ありとあらゆる罵倒の言葉だ。少女の無力を嘲る言葉。少女が女性であることを蔑む言葉。少女の尊厳を否む言葉。不遜で、傲慢で、卑猥で、尊大で、横柄で、嘲笑と侮蔑に満ちた言葉の奔流。
それに抗う術は少女にはない。艶やかな赤髪は埃に塗れ、整った眼差しは苦痛に歪み、美しい唇には血が滲む。男たちのほうを睨みつけはするが、しかし立ちあがる余力もない。
玄関の扉が押し開かれたのは、ちょうどそのときだった。
扉の隙間から陽の光が差しこんでくる──、ということはない。すでに日は沈んでいる。建物の中も外も、少しずつ暗闇に覆われていく。そんな状況で。
陽の光の代わりに入りこんできたのは、弱々しく──それでいて毅然とした、声だった。
「──そこまでだよ」
ロザリー・ウェルベックが、そこに立っていた。
5
まず目に入ったのは、ぼろぼろになったアサヒが床の上に倒れている光景だった。慌てて駆け寄って声をかける。
「大丈夫? 立てる?」
「……ああ」
顔も、身体も、あちこちが傷だらけだった。至るところに怪我があった。傷ついて、弱って──それでもなお、彼女の姿は美しい。
「肩を貸すよ」
「情け、ねえな……助けられる、なんて」
ロザリーの力を借りて立ちあがりながら、アサヒは表情を歪めて言う。その顔は、どこか悔しそうで、悲しそうで。
「これじゃあ、お前のほうがヒーローみたいじゃねえか」
それは、思わず零れた弱音だったのだろう。決して本心などではなく、あくまで弱っていたから零れ落ちただけの言葉なのだろう。
だから、
「それは違うよ」
だからはっきりと、ロザリーはその言葉を否定する。
目を見開いたアサヒと向きあうように言葉を紡いでいく。
「私はヒーローだなんて大層な存在になりたいわけじゃあないし、英雄だなんて大げさな呼ばれ方をしたいわけでもない」
アサヒが抱いているような目標を抱いているわけではない。
「もちろん利益なんて求めていないし、打算だなんて以ての外」
自分のためにとった行動だというわけでもない。
「私はただ、」
そこにあったのは、たったひとつの感情だ。
「──友達として、きみのことを助けたいと思っただけだから」
だから、ロザリー・ウェルベックはヒーローなどではないのだ。
友達を助けるのは、ヒーローではなく、友達の役目なのだから。
「そして」
そして、ロザリー・ウェルベックがヒーローでないのだから──
この場にいるヒーローは、ただひとりしかいるはずもない。
「ピンチになったら友達が助けにきてくれる。
──それもまた、ヒーローというものでしょう?」
だから、アサヒという少女はヒーローでしかありえないのだ。
少なくともロザリーは、そう信じている。
「……そう、だな」
その気持ちが通じたのか、アサヒは笑う。なにかが吹っ切れたかのような、はっきりとした笑顔で。
「ピンチはここまでだ。友達が助けにきてくれたんだから──
ここからは、逆転の時間だ」
「なにをごちゃごちゃと言ってやがる!」
そこに横から割りこんできたのは知らない男だった。見たところ、この男が不良たちを束ねているのだろう。数え切れないほどの不良たちの先頭に立っているその男は、嘲笑しながら言い放つ。
「増援だか友達だか知らねえが、所詮はふたりでしかねえ!」
「それにそこのお前──確か学園の『落ちこぼれ』だったよな!? 落ちこぼれがひとり増えたところで、俺たちの優位は変わらねえ!」
男に続いて叫んだのは、おそらくはロザリーの目の前でアサヒに殴り飛ばされた路地裏の不良だろう。もちろんその顔を覚えてなどいないが、想像はつく。
「……まあ、そうだね」
認めよう。
ロザリー・ウェルベックは弱い。
「確かに、それは事実だ」
落ちこぼれの名は伊達だというわけではない。彼女の身体能力は皆無だといっていいだろう。表情に出しはしないが、アサヒの部屋にあった手紙を見てここまで走ってきただけで相当に消耗している。
直接戦闘において、ロザリーはまったく役には立たない。
「私は攻撃魔術も使えない」
魔女といわれていようがなんだろうが、その事実も変わらない。決定的に、それは真実だ。ロザリーに攻撃魔術は使えない。
つまり、確かにロザリーはどうしようもなく落ちこぼれなのだ。
「だけど」
だが、それはあくまでも学園における評価でしかない。
「私の得意分野はそこじゃない」
得意分野。単独での戦闘能力を重要だとするこの学園においてはまったく評価されない──しかし確かに得意な分野。
支援魔術と、回復魔術。
「つまり」
男たちのほうをまっすぐに見据えながら、片手をアサヒにかざす。そこから発せられる柔らかな光が彼女を包みこんでいく。
回復魔術の光がアサヒを癒していく。ついさっき教会で鍛えてきたばかりの魔術なのだから、その威力は折り紙つきだ。
「要するに私は──」
続いて魔術を展開していく。身体能力を総合的に向上させる魔術。動体視力を強化する魔術。筋力を、俊敏さを、耐久力を、感覚器官を、三半規管を──ありとあらゆる能力をそれぞれに強化する魔術。
ロザリーに使える支援魔術を、使える限り施していく。
「──アサヒの支援に回ったときに、最大限にその真価を発揮する」
これがロザリー・ウェルベックの力だ。学園では評価されることなかった──しかし確かに今役立っている、ロザリー自身の力だ。
そして同時に、それはロザリーだけの力ではない。
「あとは任せたよ」
「──ああ、任せろ」
肩を借りることなく自分自身で、アサヒがしっかりと立ちあがる。その身体に普段以上の力が宿されているのは、見るだけでもわかる。
支援魔術を使いすぎたせいだろうか。その身体から溢れる赤色の燐光が、アサヒに掛けられた魔術の力を物語っている。
「お前とあたしの──ふたりの力で、この逆境をぶち壊す」
これは、ロザリーだけの力ではなく、アサヒだけの力でもない。
ふたりの力で、この逆境を打ち破るのだ。
さあ、改めて名乗ろうか──そう言って、少女は笑う。
「アサヒ=イロード。ヒーローだ」
「ロザリー・ウェルベック。ヒーローの、友達だよ」
そうして、一方的な戦いが始まった。
6
それは、およそ半年ほど前のことだっただろうか。
合同戦闘演習──単独での戦闘を重んじる学園には珍しい、集団戦を扱う授業での出来事だった。
十数人同時の軍に分かれて争うこの授業で、とある少女はその力を遺憾なく発揮した。倒れても間もなく回復し、幽鬼のように立ち向かってくる兵士たち。その身体から溢れ出る、赤色の、青色の、緑色の、あらゆる色の燐光。そして幽鬼のような軍隊の中心に佇み哄笑する、真っ黒なローブ姿の女子生徒──。
人々は、畏れをもってその姿をこう呼んだ。
『魔女』、と。
「…………そりゃあ魔女って呼ばれるよなぁ」
「そうかな?」
そんな昔話に対するアサヒの反応は、ロザリーにはあまり納得のいくものではなかった。
ともあれ、一件落着である。
寮の管理人の通報によって学園の警備員たちがやってきた頃には、強化されたアサヒの力により不良たちは軒並み叩きのめされていた。人数の差をものともしない圧倒的な実力である。中にはやりすぎてしまった人もいたのだが、不良たちの手口のほうが悪質だった、と判断されたためか見逃されている。
人数が人数だったため、不良たち全員を一箇所に拘置することは難しかった。各所の拘置所に連絡をとったり不良たちを移送したりで相当な労力がかかっているらしいだが、まあ少女たちには関係のない話である。
そんなこんなで、ふたりは現場から一番近いところにある拘置所において待機していた。この建物内に収まりきる限りの不良たちは押しこまれ、ロザリーたちは被害者として手続きを済ませていた、というわけだ。
幸い被害者として行う手続きにはさほどの時間はかからなかったのだが、ロザリーにはひとつ用件があった。
「……おそらく、アサヒを襲うために不良たちをけしかけたのは、盗難事件の犯人だと思う」
単に不良たちが協力しただけだと考えるには、あまりにも規模が大きすぎる。背後で指示を出していた人物がいるのではないか、というのが彼女の推理である。
と、
「お待たせいたしました。被疑者との面会とのことですが」
「あ、はい。よろしくお願いします」
警備員に促されて、拘置所の中へと進んでいく。多くの牢が並ぶ中に、その男の姿もあった。男が睨みつけてくるのを無視して、ロザリーは問うた。
「主謀者は誰?」
「…………」
長い沈黙の末に、男はひとりの名前を挙げた。
それを聞いて、ロザリーは嘆息する。
「……これで辻褄が合った、というわけだ」
謎はすべて解けていた。
7
「結論からいえば、盗難事件なんてものは起きていなかったんだ」
残念ながら確固たる根拠はないため、単なる推測でしかないのだが。
「情況証拠となることはいくつか明らかになっている。たとえば、重要な機密が盗まれたといわれているわりにはそれほど大きな騒ぎにはなっていなかったこと。盗まれた、といわれている重要機密について知っている人がほとんどいなかったこと」
後者については、さらに調査を進めれば遭遇することができたという可能性もなくはなかったのだろう。
しかしあの男が口にした名前から考えると、盗難事件はなかったと考えなければ辻褄が合わない。
「では、盗難事件なんてものが起きていなかったとする。この場合、存在しないはずの盗難事件を噂に仕立てあげたその人物こそが犯人と呼ぶにふさわしい、ということになる」
火のないところに煙を立てるのだから、そう簡単なことではないだろう。非常に広い人脈だとか、あるいは莫大な資金力だとか……そういったものが必要だったはずだ。
「だが、そう考えたとしても理解できないことがひとつある。なぜ犯人はそんな噂を仕立てあげたのか。つまり動機だ」
火のないところに煙を立てるような面倒なことをしたのは、なにが目的だったのか。
「盗難事件の噂によってなにが変わったのか。思い浮かぶことは、ひとつしかなかった」
魔女と噂される少女──つまりロザリーに、容疑者だという噂が追加されたこと。
「さらに、犯人は盗難事件の謎を追うある少女に出会う。アサヒ=イロードという少女に──『魔女』の娘に、ね」
アサヒが自らの名前の一部を伏せていたのはそのためなのだろう。彼女は言っていた。『魔女』が、──コロナ=イロードのことが嫌いなのだと。そこにどんな因縁があったのかはロザリーには定かではないが。
「そして数日後、まさにそのアサヒという少女が、不良たちに襲撃される。幸いにも彼女は無事だったわけだけれど」
それでも、ロザリーが間に合わなければどんなことになっていたことか。
「要するに、犯人は魔女というものに対してなんらかの思い入れを抱いていたというわけだ」
それが好意なのか悪意なのか、というのは、本人に尋ねればいいことだろう。
「そうじゃないかな──アンジェリカ・ケネットさん」
「…………」
アンジェリカは答えずに、黙ってロザリーたちを見つめている。前回と同様に、窓の覆い隠された暗い部屋で、真っ黒なドレスを身に着けて。
「あるいは、あなたはこの状況すらも予期していたのかもしれない」
「…………!」
図星だったのか、彼女の目が見開かれる。それを確認してから、淡々と続ける。
「他人を貶めるためだけに存在しない事件を仕立てあげるなんて、いかにも邪悪な魔女のやりそうなことだ──とでも思われたかったんじゃないかな?」
「……驚きましたわ。まさかそこまで見破られるとは」
確かにそのとおりです、とアンジェリカは静かに言った。
「すべてわたくしが行ったことでした。存在しない盗難事件の噂を立てたのも、アサヒさんを襲わせるために彼らを唆したのも」
「……動機についてはどうなんだ?」
「そちらについてもご推察のとおりですわ。
──わたくしは、羨ましかったのです。あなたがたのことが」
ロザリー・ウェルベック。本人が意図していなくとも自然と魔女と噂されている少女。
そしてアサヒ=イロード。アンジェリカがどこまでも憧れている『魔女』、その娘。
「羨ましくて、妬ましくて、疎ましくて……だから、わたくしは、それを貶めることにしたのです。魔女としてのあなたがたを貶めると同時に、わたくしを魔女だと認めさせるために」
それは、ロザリーにもアサヒにも理解できない心情だった。魔女と噂されることを厭うロザリーにも、母である『魔女』を嫌悪するアサヒにも。
「ですが、その企みは見事に失敗してしまいました。……おそらく、心のどこかで軽んじていたのでしょうね。あなたがたよりわたくしのほうが──より、魔女に近いのだと」
「いや、そうでもないと思うよ」
ロザリーだけならば。彼女ひとりならば、自らに関する噂を払拭することはできなかっただろう。
アサヒだけだったなら。彼女ひとりならば、不良たちの圧倒的な物量に押し負けていただろう。
だけど、そうではなかった。
けれど、そうではなかった。
それがすべてを決定づけていた。
「私たちがふたりだったこと。それがあなたの、最大の敗因だ」
「……そのようですね」
アンジェリカは、自らの負けを認めながらもどこか眩しそうに、微笑んだ。
「……それで、わたくしをどうするつもりなのです?」
「どうもしないよ」
「……は?」
驚きを口からもらす彼女へと、端的に告げる。
「少なくとも私に実害はなかった。噂を立てられているだけなら、前となにも変わらない」
「あたしはヒーローだよ。ヒーローっていうのは、敵も赦してこそだからな」
その言葉は紛れもない本心だ。ロザリーにも、アサヒにも──、アンジェリカをどうするつもりもない。
「だから、私たちはどうもしない。私たちは、ね」
「…………え?」
「あの男に自分の名前を隠さなかったのは、あなたの油断だったのかな」
それじゃあ、と別れを告げて、アンジェリカの部屋を出る支度をする。もうこの部屋に残された用事はない。
そうして出口の扉を開けると同時、事前に約束していたとおりに警備員たちが入ってきた。
「それでは、またどこかで」
こうして、世間を多少騒がせていた盗難事件はその幕を下ろした。
8
ロザリー・ウェルベックは魔女ではない。
どうしようもなく彼女は、落ちこぼれでしかない。
事件が終わったところでその事実は変わらない。学園の評価基準が変わらなければ、支援魔術も回復魔術も学園にとっては無価値なままだ。今日も明日もロザリー・ウェルベックは落ちこぼれであり続ける。
けれど、確かに変わっていたこともある。
「ロザリー、いるか? 出かけるぞ」
「どうしたの、また事件?」
合鍵を使ってアサヒが部屋に入ってくる。その口から告げられるのは、すでに日常と化している外出の要請だ。
「ああ、今日もヒーローを呼ぶ叫び声は止まらない。今回も相当な難事件らしいが……」
難事件。
その言葉とは裏腹に、彼女の表情は晴れやかだ。
「だが、お前と一緒ならどんな事件でも解決できるさ。そうだろう?」
「……うん、私もそう思うよ」
アサヒと一緒なら、どこまでもいける。掛け値なく、疑いようもなく、ロザリーはそう思う。
「それじゃあ、出かけるか」
「うん、出かけよう」
そうして、今日も非日常が幕を開ける。日常の一部となっている非日常に、自分から踏みこんでいく。
アサヒ=イロードというヒーローの友達として、ロザリー・ウェルベックの物語は続いていく。




