3.風呂イベントが発生してしまいました
俺が案内されたのは、あの巨大モニターが置いてある部屋の中に、いくつか並んでいた扉の内の一つ。その中も壁一面が若草色で統一されている部屋だったのだが、中の様子はモニター部屋とは一風変わったものとなっていた。
毛の硬いベージュの絨毯が敷かれたその部屋の広さは、およそ十畳ほどだろうか。部屋の奥に置かれたダブルサイズのベッドが、圧倒的な存在感を醸し出している。ベッドの向かい側には木製のクローゼットが設置され、入り口のすぐ左手には、いかにも風呂に通じてます、という雰囲気のドアが。
まるで大学受験の時に泊まった、ビジネスホテルを彷彿とさせる部屋だな。もっともその時の部屋のベッドは、シングルサイズだったわけだけど。
それにしても、異世界の宿という雰囲気が微塵も感じられない。何なのこの現代日本感溢れる雰囲気は。色々な意味でがっかりだよ!
だが今さら部屋の世界観に文句を言っても仕方がない。明日にはさっさと終わらせて元の世界に帰る予定だしね。一泊二日のお泊り旅行と考えたらいいんだ。ポジティブにいこう。
とりあえずそうだな。まずは風呂でも入ろうか。何だか体中にネギの臭いが染み付いてしまっている気がするし、さっき暗殺ニラが首を掠めたので、ちょっとニラ臭いのも移ってしまっているし。
俺は入り口近くのドアを開き、バスルームを確認する。中はアイボリー色で統一されたユニットバスだった。
……うん、本当にビジネスホテルみたいな造りだ。しみじみと思いながら栓で穴を塞ぎ、蛇口を捻ってバスタブに湯を溜める。俺はその間に服を脱ぐことにした。
「ふいー」
全身に湯を浸けると同時に思わず声が洩れる。やはり風呂のリラックス効果はたとえ異世界だろうが変わることはないんだなー、と束の間の幸せを堪能していると、突然カサッという音がバスルームの外から聞こえた。
何だ?
俺は思わず浴槽に預けていた背中を起こし、身構える。
「あ、あの勇者様……」
この声は、あの美少女声のネギか。人が風呂に入っているところに声をかけてくるなんて、何か緊急を要する事態にでもなったのだろうか?
ていうかよく思い返してみたらこの部屋、鍵が付いていなかったな。それはプライベート的にちょっと嫌かもしれない。
……いや、今日一日の我慢だ。どうせ誰かが勝手に入ってきても全部ネギだし。問題なし、ということにしておこう。
「どうしたの?」
俺はバスタブに再度もたれ掛かり、美少女声のネギに返事をする。と次の瞬間、バスルームの扉がそっと押し開かれた。えっ!? そのへろへろの体でどうやって開けたの!? と軽く混乱しかけた俺だったが、その答えを知る間も無く美少女声のネギが声をかけてきた。
「そ、その……。お、お背中を、流して差し上げようと、思いまして……」
恥ずかしげにそう言いながら美少女声のネギは中に入ってきた。若干だが全身をくねらせている。
な、何かいきなりお風呂イベントキターッ!? でもどうしよう!? 全然嬉しくない! まったくドキドキしない! 家族以外に風呂に乱入されるなんて人生初のことなのに!
……くそぅ、なぜこの子は美少女の姿をしていないのだ!?
「えっ、えっと、その、べ、別にいいよ。君だと俺の背中に届きそうにないし」
「そ、そんなことありません! 私、精一杯頑張りますから!」
「…………」
美少女声のネギは全身をぴょこぴょこと上に跳ねらせながら俺に訴える。
何か、断っても無駄そうな雰囲気だな……。まぁいいか。
人類で初めてネギに背中を流してもらった人間になるのも悪くないかもしれない。就職の面接時に役立つかもしれないしね! きっと面接官の人も、俺のこの体験談に入れ食い状態になるに違いない!
……いや、今のはかなり無理があるってのは俺もわかっているから何も言わないで。そう思わなければ発狂しそうなんだよ。
「それじゃあ、お願いします……」
俺は渋々と湯船から立ち上がる。と同時に「きゃあっ!?」という悲鳴が。そして美少女ネギはくるりとこちら背(?)を向け、全身を真っ二つに折り曲げてしまった。
………………。
あの、やはり前は隠した方がいいんですかね? でもネギ相手なので、俺に大事な所を見られているという羞恥心が一ミクロも生まれてはいないのですが。むしろちょっと反応が面白そうなので、ほーれほーれとこれ見よがしに見せ付けてやりたい衝動が出てきているくらいですが。
……いや、さすがにそれは傍目から見たら危ない人極まりないので、やはりやめておこう。実行してしまったら、精神的黒歴史になることは確実だ。
俺はタオルを腰に巻くとバスタブの縁に腰掛け、美少女声のネギに背を向けた。
「もう大丈夫だよ。はい、これボディソープ」
「あっ……。は、はい。で、では失礼します」
そう言うと美少女声のネギはボディソープを全身に塗りこむように浴び始め――。
え? ちょっと待って。もしかしなくてもタオル使わない派!? いや、よく考えたらタオルを持つ手がねーじゃん! そりゃそうだよな! と頭の中で状況を整理している間に、背中にヒヤッとした感触が!
「わっ!?」
「あっ、す、すみません。い、痛かったですか?」
「い、いや。ちょっと冷たかったからびっくりしただけ。ごめん」
「そうですか……」
美少女声のネギは俺の背骨に沿うように、ゆっくりと全身を上下に動かす。
うむ。何というか……。一往復で背中を擦れる範囲が非常に狭いので、何かもどかしい感覚。でもこの微妙なくすぐったさが少し癖になってしまうかもしれない。
「ゆ、勇者様……。ど、どうですか?」
「あぁ、うん。気持ちいいよ」
「そ、そうですか。良かったです。その……わ、私も……。はぁ……はぁ……」
ちょっと待てーッ!? 何そのちょっとエロスを感じる息遣い!? もしかして発情しちゃってんのこの子!? っつーかむしろ感じてません!? えっ!? ネギだよね君!? おしべとめしべで繁殖する植物なはずですよね!?
「ゆ、勇者様……。お慕い申しております……」
吐息と共に吐き出された言葉に、思わず俺の全身から血の気が引いた。
ええええっ!? 何で俺、ネギに慕われてんの!? そもそもこっちに来てからの君との接点て、最初に一言話した程度だよね!?
「も、もういいよ! ありがとう!」
何だか身の危険を感じた俺は咄嗟に声を張り上げ、シャワーの蛇口を捻ると一気に背中を洗い流した。
「ひゃんっ!?」
美少女声のネギが悲鳴をあげる。振り返ると彼女は、突如全身を襲ったシャワーの水流のせいで排水溝近くまで流されていた。くたりと萎びた全身に、思わず海水浴場に無造作に転がっているワカメを想像してしまった。その憐れな姿を見て、さすがに俺もちょっと罪悪感が……。
「その、何かごめん」
「いえ……。大丈夫です。これくらいの障害、何ともありません。あの、もしよろしければ、明日も是非……」
もじもじと恥らうように二、三度全身を捻りながら言った彼女に、俺は引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。