おわりの時間
「…おはよ。具合いはどう?」
病室の戸を開けると、彼女は子供みたいな純粋な瞳で僕を見上げた。
「あ、元気ですけど…」
この人は誰なんだろうと、素直に不思議がっているのが顔に出ている。
前はこんな表情しなかった。彼女はいつも子悪魔のような妖艶な笑顔で僕たちを振りまわし、いつ何時も強気だった。決してこんなあどけない表情を他人に見せるような人ではなかった。
「やっぱり、覚えてないかな?僕のこと」
すると、彼女は真剣な表情で僕の姿をじっと見つめ始めた。その顔はどこか苦しそうにも見える。
「…ごめんなさい。やっぱり思い出せないです」
彼女は哀しそうに俯いた。
「…自分の恋人を助けようとして事故に合ったってことは、もう誰かに聞いているよね?」
「はい…でも、なんにも覚えてなくて全然実感がわかないんですけど…」
彼女は本当に何も覚えていない。
僕との日々も、あの日起きたことも。
「僕が、君の恋人だった早見だよ」
彼女は目を見開いた。そして、口を少し開けて、何か言いたげに僕を見つめてくる。
「会いにくるのが遅くなってごめん。でも、君に会うのが怖かったんだ。自分のせいで君が事故に合って、意識が無くなって、記憶も無くなって…」
僕は彼女の全てを奪ってしまった。
「…僕は、本当に最悪だ…」
愛していた彼女を、こんな目に合わせることしかできない自分はなんて愚かなんだろう。
「…顔を上げてください」
彼女がそっとつぶやく。
「やっぱり何も思い出せないけど、大切な人を守れたことは誇りに思うべきことだと思います。だから…」
弱々しく無理に微笑んでくれる、そんな彼女を見るのは初めてで、驚きと共に恐怖さえ感じた。
「…ごめんね、今日はこれから用事があって、もう帰らなくちゃならないんだ。今度、もっと時間がある日にまた来るよ」
「あ、はい。また今度」
僕は彼女の顔を直視できず、逃げるように病室を去った。
一刻も早く病院から出たくて、廊下を走った。
もう、あの頃の彼女はいない。
僕が全てを壊してしまった。
顔を手で覆う。抑えきれない涙が溢れて、僕の頬を容赦なく濡らしていった。
ごめん、本当は全部嘘なんだ。
僕は過去を塗り替えたんだ。
あの日、僕と彼女は喧嘩をしていた。なんのことはない、今思うとひたすら下らない喧嘩だった。それでも彼女は烈火のごとく怒った。
「時間の無駄遣いにしか思えないわ。あんたなんかとこのまま付き合うよりなら、死んだ方がまし。早く別れて」
こんな感じのことを彼女は延々と言い放ち、僕に背中を向けて足早に去って行った。
その瞬間から、僕が今まで彼女へ捧げた大量の愛が全てひっくり返り、憎しみへと変わった。
僕はこんなにも君を愛しているのに。
僕は、道路の前で車が通り過ぎるのを待っている彼女の背中を押した。
その時は、何も考えてなくて、ただただ彼女が憎かった。
アスファルトに彼女の血が滲む。何故だか僕はその光景を、空っぽに渇いた心で茫然と見つめていた。
焦って出てきた運転手が、何が起こったかわからないような顔していた。それでも僕を責めるような目はせず、むしろ眠そうな目をしていることから、僕は直感的にこいつは居眠り運転をしていたように見えた。事故が起こった瞬間をこいつは見ていなかったのだ。
だから僕は言った。
「彼女が僕を助けようとして…」
僕はずるい人間だね。運転手はその話を簡単に信じこんで、震える手で救急車を呼ぼうと携帯のキーを押してた。
彼女が僕を助けるはずがない。車に引かれそうだったら尚更だ。いつだって彼女は自分が一番大事なんだ。
あの日、もし僕が目の前で車に引かれても、きっと彼女は醜くねじ曲がった僕の体を見下して、滑稽そうに鼻で笑うんだ。君はそんな人だった。
それでも僕は好きだったんだよ。
あの強気でわがままで、妖艶な笑顔をする君が。とてつもなく好きで、彼女が僕のそばにいてくれる、それだけで僕は幸せだったんだ。
それなのに僕といなきゃいけないなら死んだ方がましなんて言葉を聞いたら、腹が立ったんだよ。
殺してやりたくなるぐらいに。
それでも君が意識を取り戻した時は、本当に嬉しかった。ほっとして、全身の力が抜けた。記憶がないと知っても、もしかしたらもう一度最初からやり直せるんじゃないかって思ってた。
でも違った。やり直せるはずがない。
もう君は昔の君じゃない。
僕の好きだった君じゃない。
人生でこんなに泣いたのは初めてなんじゃないかというぐらい、嗚咽を漏らして子供みたいに泣き続けた。
僕はこれから誰も好きにならないよ。
君のことをずっと好きでいつづける。
だから、許してくれないか。
僕の幼稚さを、愚かさを。
愛してるよ、リナ。
end.
私は少し歪んだ思考・感覚を持っている人物や、人間独特の醜い感情とかを書くのが好きです。
今回もちょっと一般ではない感じを出せればと書いたつもりです。
愛ってやっぱり簡単に憎しみへと裏返ると思うんですよね。
そういう瞬間を書けたらいいなと思ったんですけど、なかなか難しいです…
かなり短い話でしたが、何かしらの感情が残っていただけたら幸いです。
ここまで読んでいただき、
ありがとうございましたm(_ _)m
あと、記憶喪失への知識が乏しいのでもし誤りがあったら教えてください!