五
今晩も夢の中で舜に会えるかも。
そう思うと神経が高ぶって、なかなか眠れないに決まっている。
あたしは日中動き回ってとにかく働きまくり、眠くなりそうな風邪薬を沢山飲んだ。
睡眠薬なんてどこで手に入るか分からなかったし、なんとなく抵抗があるけど、風邪薬なら薬局で簡単に買える。おまけにあたしは、薬が効きやすいタイプ。
それでも夜中の2時過ぎまでは、時計を見ていた記憶がある。
「メールが返信できなかったよ。舜にもらったメールも、消えちゃった」
あたしがそう言うと、舜はまるで日常の事を話すかのように当り前に言った。
「そうなんだよな。なんか、俺のケータイも調子が悪くって」
「それ、あたしの携帯」
「あ、そっか」
ピンクシルバーの携帯を取り出し、画面を見ながら彼は言った。
「もちっとまともな文章打ちたかったんだけどさ、うまくいかねーんだ。中々送信できなかったし」
充電切れかな? と笑う彼に、一年前に無くした携帯なんだもの、充電がもった方が不思議、と思ってしまう。切れてもしょうがないかも、って。
「ここ、モルジブじゃなくね? それともこれが、優希さんのモルジブ?」
舜がいたずらっぽく笑った。
確かにここはモルジブでは、ない。なんだか色の無い広い空間なのに、なんだか人が沢山いるような
気がする。
それだけ。
モルジブ……そういえば口で言うだけで、写真で見た事すらなかったな。どんな景色なんだろう。
分からないのに、夢で出せる訳が無い。
もとよりモルジブの事なんて、今日一日、頭からすっかり消えていた。
「なんか……今日は、人が多いね。」
あたしがなんとなくあたりを見回すと、舜もつられてあたりを見回した。
「そうか? はじめっから、こんなだったぜ?」
そうなんだ? 全然気がつかなかった。
「ここって、どこなんだろ? みんな、何をしているんだろ?」
「優希の夢なんじゃなかったの?みんな優希の知り合い?
……冗談だよ。そんな困った顔、するなって。
……そうだな……多分、優希の夢だけど、俺がいる世界、でもあるのかも」
「……それって、あたしの夢が、あっちの世界とつながってるって事?」
「知らないよー、俺、経済学部出身だもん。不思議知識、ゼロ。こういうの、女の子の方が詳しいんじゃないの? 教えてよ? 文学部だっけ?」
「英文科。シェークスピアしか習ってないから」
こんな所で、何話してるんだろ、あたしたち。思わず二人でクスクス笑ってしまう。
「なんか……みんな、どっかに急いでいるみたいなんだ。
独り言言ったり、笑ったり、泣いたり、怒ったり、嬉しそうだったり、色んな人がいるんだけど、……あ、よく見てみろよ、外人ばっかなんだぜ?日本人とか、あんま見ないのな。
だけど何でか、言葉はなんとなくわかるみたいなんだよなあ。不思議だろ?
……みんなどっかに向かっているみたいなんだ」
舜に言われて、あたしは周りを観察した。
ところが、あたしには分からない。人が沢山いるんだろうな、っていう事はわかっても、
その人たちが外人なのかどうか、どんな表情をしているのか、すら分からない。
……ただ、人のざわめきを、感じるだけ。
舜は、柔らかそうな唇を(実際、柔らかいんだけど)少しすぼめるようにして、
それを左手で軽く覆うような仕草をして、遠くを見るような表情をして、言った。
「俺も、そのうち、そっちへ行かないといけないんだろうな……」
あたしが、彼を説得する必要は、ないみたい。
彼は、ちゃんと分かってる。自分が行く場所を。
やっぱり、頭がよくって、物わかりのいい人だ。
183センチの身長、すらっとした体型、少しくせっ毛の長めの前髪、女の子顔負けの長い睫毛と大きな瞳
頭脳明晰、スポーツ万能、歌声も最高(カラオケで、その場にいた女の子達がみんな、オチた。)
でも、なにより、優しくって穏やかで、少し悪戯っ子な所があって、チョッピリおやじ趣味のある、
年下の、素敵なあたしの王子様。
「何? ……あ、見とれてる?」
あたしの泣きそうな視線に気づいた彼が、ニヤッと茶化した。
「……うん。見とれてる」
素直にそう答えると、彼はすごく切なそうな顔になった。そっとあたしの顔に触れる。
「俺も、優希に見とれてる……」
あたしはその手をそっと握り、彼を見上げた。涙がついに、ポロっと流れた。
「……大好き……」
いかないで……と言いたくなって、グッと堪えた。
あたしのお願いは何でも聞いてくれた舜に「いかないで」なんて言ったら、舜は本当に「迷って」しまう。
そんなの、いいわけが、ない。
あたしは言葉を飲み込んで、結局同じ言葉しか言えなかった。
「……大好き……。本当に、大好きなの。……大好きなの……」
次の瞬間、舜はあたしを強く抱きしめた。
夢なのに、彼の匂いがした。
「ごめん……本当に、ごめん……嫌な思いをさせて、ごめん……つらい思いをさせて、ごめん……。……俺がもっと、ちゃんとしていれば……」
あたしはついに、彼の腕の中で泣きだした。こんな事が出来るのも、これが最後だろうな、って思いながら。
この胸を、手放したくないな、って思いながら。
大好き。大好き。大好き。本当に、愛してる。
「ごめんね、舜……仕事で疲れているのに、我儘言って。沢山疲れさせちゃって。あんなに疲れていたのに、外に連れ出しちゃって」
泣きながらあたしが言うと、彼はあたしを抱きしめたまま、あたしの頭を何度も撫でながら言った。
「優希のせいじゃないだろ。優希は何一つ悪くないだろ。みっともない事をした、俺の責任だよ。俺は優希に会った方が、疲れが取れたんだ。
頼むから、自分を責めないでくれよ。……頼むから……」
舜はあたしの頭に顔をつけて、かすれた声を震わせて言った。あたしはもっと胸が痛んだ。
死んでしまった人間に、あたしは何で気を使わせているんだろう。
死んで、無念で、悔しいのは、舜本人なのに!
舜は、ちっともそこを口に出さない。あたしの前では、何も言わない。
……あたしの事しか、話さない……!!!
なんて、優しい人。
死んでまで、なんて優しい人。
優しくて愛おしい、あたしの王子様。
こんな人には、もう二度と会えない。
彼の心残りの一つに「あたし」があるんだとしたら、
あたしはそれを取り除かねばならない。
あたしは舜の、足かせになっては、いけない。
舜の足を引っ張っちゃ、いけないんだ。
あたしは彼の胸から顔を上げると、涙でぐちゃぐちゃになった顔で彼を見据えた。
「あたしは! 不幸になんか、ならない!! 舜のせいで、不幸になったりなんか、しない!!
舜と付き合った2年間は、夢のように幸せだった。最後の最後まで、幸せだった。
だから、あたしは不幸なんかじゃ、ない! あたしは、舜のせいで、舜のせいで・・・!!」
胸から込み上げてくるものがあって、喉が痛くなって、言葉がつまった。
「……幸せなんだから!!」
舜は、大きな瞳を赤くしながらあたしの顔を両手で包みこみ、あたしの涙をその親指で、何度も何度もぬぐってくれた。
そして、言った。
「……ありがとう」
こちらこそ、ありがとう。
彼は少し顔を反らして、腕で自分の涙を軽く拭くと、あたしに冗談っぽく笑いかけた。
「俺のせいで結婚出来ない、とか、無しな?」
「……舜のせいで独身、だったりしないし、舜のせいで結婚、とかもしない。ちゃんと自分で決める」
「向井君、だっけ?いいよ、彼でも」
俳優の向井君は、かっこよくてあたしのお気に入りって事を彼は知っている。
ちょっと、からかわれた。思わず笑ってしまう。
「じゃあ、子供が出来たら、『舜』って付けようかな?」
「え? マジ? それは勘弁」
彼はギョッとしたように、少しふざけてあたしを見た。
「絶対、乳離れ遅くなるぜ、そいつ。いくつになっても母親と寝たがって、あームリムリ。生まれ出てくる時、なんかこの道見た事あるな、とか思ってたら、どうすんだよ?」
あたしは何の事かわからずポカン・・・として、次の瞬間、顔が真っ赤になった。
「バッ……何、言ってんの!!」
「あははー。冗談、冗談」
彼はさも愉快そうに笑った後、あたしの髪を優しく撫でながら言った。
「でも、そんな事、すんなよ? 旦那に悪いだろ? 死んだ元カレの名前だなんて。
それで家庭不和になっても、俺は助けてやれねーよ」
「舜って……死んでるくせに、なんて現実的……」
「そう? 常識的って言って」
「常識的……この非常識なシチュエーションで……」
二人で顔を見合わせ、プッと噴き出してしまった。
デートの時、よくこうやって笑ってた。
「じゃあ、ペットくらいにしておこうかな?」
「やめろよー、頼むから。心の思い出にしまっといて」
ふざけ合っていると、舜が急に顔をあげて前方を見た。
「どうしたの?」
「いや・・・。ほら、見える? あそこにいる、小さな男の子二人」
舜の指さす方を振り返って私も見たが、その遠くには小さな子供がいるだろうけど、それが男の子二人かまでは分からない。
この世界では、舜の視力が著しくいいのか、あたしの視力が落ちてるのか。
「あの子たち、俺に携帯見つけてくれた子たち」
そう言って、そっちに向かって軽く手を振る。
「俺を、待っててくれてるのかな?」
「え?」
「あのさ、俺の持ち物って今、誰が持っているのかな?」
「え?」
突然の話題転換。
「部屋にあった荷物の事?」
「うん。そうそう」
「……多分、ほとんど、舜の実家にあるんだと思うよ」
「そうか。俺の小さなナイロンジッパーの入れ物があるんだけどさ。その中に、デジカメのメモリーカードがいくつか入ってんの」
「……ナイロンジッパー?」
「そう。これくらいの大きさ。縁が赤くて、中が透明」
彼は、10センチ四方ぐらいの大きさを、両人差し指で空中に描いて見せる。
「そのメモリーカード、優希が貰ってくれない?」
彼はニッコリとほほ笑んだ。
「中をあけてもいいし、いいのがあれば1,2枚くらい持っていてもいいけど、基本的に、処分してほしい。」
「え……処分? あたしが?」
「うん。会社に入ってからのばっかだから、優希が見た方がよくわかるだろうし、大量だから、俺の両親が持っていても……どうせ処理しきれないだろうし」
まるで日常の用事を頼むかの如く、当り前のようにさらっと言う。
あたしは少し戸惑った。
「でも……ご両親は、全部見たいし、持っていたいんじゃ……」
「いや、いいんだ。中身はほんと、仕事関係の写真ばっかで、時たま優希とのデートや社員旅行が、写っている適度だから。適当にピックアップして、それを両親に渡してくれても構わない」
彼はあたしの顔を覗き込んだ。
「お願い、出来るかな……?」
「……うん。わかった。大丈夫」
あたしはこくん、と頷いた。
大丈夫。ちゃんと、やるよ。
あなたのお家に一人で行って、ちゃんとお母さんと話をつけてくる。
だから、安心して。
「よかった。ありがとう」
彼はあたしをそっと抱き寄せると、耳元に口を近づけて囁いた。
「キス、してもいい?」
あたしは彼を見上げた。
女の子みたいに睫毛の長い綺麗な瞳が、ふわふわの前髪の下で、切なそうに輝いている。
あたしはそっと目を閉じた。
彼の柔らかい唇がふわっと降りてきて、ああ、久しぶりだなあ、この感触、と思った。
あたし達は会う度に、本当によく、キスをした。
人前でいちゃいちゃ、程ではなかったけど、
挨拶代わりに、ふざけながら、車の中で、電車の中では軽く、そしてベッドの中で、
あたしも舜も、キスが大好きだった。
手を繋ぐよりも、キスをした。
しばらくたってから、彼の唇がゆっくり離れた。
眼をあけると、彼がとても綺麗に笑っていた。
天使みたい、と思ったら、彼がにっこりと言った。
「時間だよ」
パン!!!!
割れるような音がした。
瞬間的に眼が覚めた。飛び起きたりは出来なかったけど、なんというか、バキッと目が覚めた。
辺りはまだ暗い。枕元の時計は、まだ4時過ぎだった。
ちょっと、早くない? まだもっと、話をしたかったよ。あれだけじゃ、足りないよ。
なに、『時間だよ』って。嘘ばっかり。まだあと2時間以上あるじゃん。
あたしは布団の上に、呆然と座った。
しばらくしてから、苛立ちの様なものが込み上げてきた。
勝手なんだから、勝手なんだから。
勝手に死んじゃって、一年たってからやっと夢に出てきて、勝手にいきなりメールして、
あたしを散々振り回して、
勝手に『時間だよ』って、なによ、それ。
あたしは布団の上でボロボロ泣けてきた。
舜の事が、好きで好きで堪らなかった。
でももう、夢でも会えない事が、何故だか分かった。
舜は、行ってしまった。
今日は金曜日だよ。あなたの命日は、明日。明日がタイムリミットじゃ、なかったの?
泣きながら、心の中で少し可笑しくなってきた。
まったく、のんき者だかせっかちだか、分からない子なんだから。