一
「早く買い物に行かなくちゃ」
あたしがそう言うと、舜は不思議そうに聞いた。
「買い物って? 何、買うの?」
「色々、準備があるじゃん。水着とかさ、日焼け止め、とか」
あたしが彼を見上げると、
彼は、チョッピリくせ毛の前髪の下に隠れている、女の子みたいにパッチリとした目を少し細めながら、
男にしては厚みがあって柔らかそうな唇を少し上げて、
クスッと笑った。
「そんなのさ、向こうで買えばいいんじゃね? 散歩がてら、とかさ。どう?」
スッキリとした彼の顎が、あたしの目線のちょっと上にある。
最近、痩せたんだよなあ。仕事が忙しいからだ。
食べる事が大好きなくせに、何かに集中したり忙しくなりすぎると、食べる事がおろそかになるんだ、この人は。
「水着なんて、『ついで』で買うもんじゃないよー。本気買いなんだから。プランタンに行きたいっ」
「わかった、わかった」
どうどう、と言うように、舜は両手を少し上げて「降参」のポーズを取り、
その右手で、あたしの背中をポンポンと叩いた。
「銀座ね。じゃ、今度の週末に行くか」
「休めるの?」
「うーん、多分?」
ちょっぴり困ったような笑顔。また、新人だからって休日に駆り出されるのかもしれない。
水着なんて、一人でも買える。
むしろ、可愛くってオーソドックスな水着を買って、当日ビーチでお披露目した方が、舜はウケるかもしれない。
舜の好みは分かりやすいもん。
それに舜の「散歩がてら」に付き合わされたら、大変な事になる。
本気で「街中探索」みたいになっちゃって、ちい散歩どころじゃないくらいで、
ミュールやヒールのあるサンダルを履いていたら、私の足は流血するわ。おやじ趣味だもん、この子。
でも、一緒に行かなくちゃ、ダメだ。
一緒に行かないと、絶対ダメだ。
何でか分からないけど、いつも買い物なんて一人でするけど、女の買い物に付き合わせて嫌な思いをさせたくないからいつも一人だけど、
でも、今は、一緒に行かなくちゃダメなんだ。
「絶対だよ?絶対休みを取ってね?一緒に行こうね?」
彼のストライプのシャツを少し掴んで、あたしがお願いをすると、彼はそのハンサムな顔で優しく笑って、
右手であたしの頬を少し撫でながら言ってくれた。
「はい。わかりました。……一緒に行こうな」
切ない、切ない、切ない。
胸が、そう言っている。
目が覚めた時、あたしの胸の中は文字通り泣いていた。でも、泣きながらでも物凄く幸せだった。
本当に幸せで、もう一度続きを見たいと思った。でも、一度目が覚めると、あたしはダメ。
本物の目からは、チョッピリ涙が滲んでいるだけだった。
すごい幸せ。泣きたいけど、いい夢だったな。
そう思いながら、顔を洗いに行く。現実を直視したくなくて、鏡は見れなかった。メイクが面倒くさい。
先に服を着替えよう。明るい色は、なんだか気分が乗らない。カーキー色ぐらいで手を打とう。
こんな気持ちに負けていてはダメだ。頑張らなくちゃ。
やっぱりちゃんとメイクをしよう。やっぱり鏡は見たくないけど。誰か代わりにやってくれないかな?
こんなに気分が乗らなくても、ちゃんといつもの時間どおり食卓にはつくことが出来て、お母さんがトーストや目玉焼き、フルーツなんかをお皿に乗せてくれていた。
「おはよう。今日は爽やかねー。布団も洗濯物も、スッキリと乾きそう」
「おはよう」
お母さん、今日は家事にまい進するんだな。夜、家に帰ってきたら、「今日は疲れたー!もうダメ!」とか言いながらひっくりかえってそう。
「ごちそうさん」
お父さんがお茶碗とお箸を置く。お父さんは、朝のパンはダメな人で、ほぼ毎朝お茶漬け。
最近年をとってきたせいか、あたしより早起き。
「東北の方はまだ雨が残っているんだってね。気温もグッと下がって、直樹、大変だねえ」
お母さんの言葉に、あたしは呆れる。
勤め人の若い男が、天気が悪いくらいで大変なもんか。
母親というものは、こんなに息子を溺愛するものなのかしら。嫁姑問題は時代を超えるのね。怖いなあ。
いつも通りの満員電車に30分ほど揺られて、いつも通りの時間に職場に着いた。
あたしは都内のデパートで契約社員をしている。紳士服売り場なので、午前中はお客が少ない。
だからみんな、割と心の余裕を持って(?)朝の支度をしている。
「おはようございます」
半年前に転職してきた私は、売り場の中で一番の新人。
だから何かをしなくては、と思っていて、いつも朝一番に来て(っていっても他にも3人くらい朝一組がいるけど)一人でロッカールームの机を拭いたり、流し台を拭いたりしている。
デパート勤務なんて生まれて初めてなので、他に何をしていいのか分からなくて、
でも指示待ちをするほどの年齢でもないし、誰かにしつこく聞いて回るのも悪い気がして、
馴れるまで、自分で仕事を見つけられるまでは、という思いで、この朝掃除を始めた。
それが今や、定着しつつある。あたしの居場所になりかかっている。
制服に着替える時、いつも通り携帯に目をやると、メールが一通来ていた。
それを開いて、それを読んで、あたしはしばらくポカンとした。
なんだろう、これ。
一分ぐらいたって、ようやく、あたしは心当たりを思い出した。
そして、息が止まった。
題名:今週土曜
休み取った。
10時ぐらいでいい?
有楽町駅のいつもの所で。
今、携帯の電波悪くってメールしか使えね。ごめんな。
いつもは朝の夢の内容なんか忘れてしまう私が、今朝の夢は細かくはっきりと覚えている。
彼の笑顔を覚えている。色も、匂いもある夢だった。
でも、そんなバカなことがあるわけがない。
それにこれ、なんだかよく分からないメールだし、誰かが間違えて送ったものなのだろう。
誰が? あたし、男の人にメルアド教えていない。
そもそも差出人に、名前が表示されていない。
あたしはその、差出人のメルアドをじっと見て、一秒後には、再び息が止まった。顔が痺れてきた。
差出人のメルアドは、
あたしが半年前に解約した携帯の、メルアドだった。
あたしは頭が混乱してきた。
胸が痛いくらいドキドキとして、顔はもう何も感じないくらいに痺れてきた。
ショックのあまりに、吐き気がしてきた。
誰かが、あたしに嫌がらせをしている? そうとしか考えられない。
あたしの前のメルアド使って送って来るなんて、悪意があるとしか思えない。
なんだか今朝見た夢の内容を思い起こさせるけど、そんな訳が無い。あり得ない。
それにこの文章だけでは、何も分からない。なんとでも取れる。
なにが言いたいの?
でも、誰かが、あたしに嫌がらせをしている。ショックを与えている。
この文章、この書き方。この雰囲気。
舜を真似している。
一年前に死んだ、舜の真似をしている。