第8話 冷徹公爵
カツン、カツン、カツン。
大広間の激しい喧騒を冷たく切り裂く、規則正しい靴音が響いた。
その足音が近づくにつれ、波が引くように会場の男たちが静まり返っていく。
さきほどまで血走った目で怒号を上げていた大富豪たちが顔を青ざめさせ、脱帽して蜘蛛の子を散らすように道を空けた。
熱狂が一瞬で凍りつき、静寂が大広間を支配する。
割れた人波の間から歩み出てきたのは、漆黒の軍服を纏った一人の男だった。
群青の髪に、すべてを見透かすような瞳。首筋には、苛烈な戦場をくぐり抜けてきた証である深い傷跡が刻まれている。
──ノア・ヴァルハイト公爵。
若くして凄惨な北方戦線を完勝によって鎮圧し、その冷酷無慈悲な采配から「冷徹公爵」と恐れられる、この国の絶対的権力者。
色街などという不浄の地に足を運ぶはずもない男の登場に、旦那はガタガタと膝を震わせていた。
公爵は氷のような眼光で会場を一瞥すると、くだらないものを見る目で薄い唇を開いた。
「時間の無駄だな。──現在提示されている最高値の、十倍を出そう」
ざわり、と大広間が激しく揺れた。
「じ、十倍……!?」
「バカな、屋敷が……屋敷が一つ建つレベルの金だぞ……!?」
客たちの絶叫に近い悲鳴が上がる。
旦那は歓喜のあまり白目を剥きかけ、必死で倒れないよう柱にしがみついていた。
ラナについた水揚げ料は2億。
ラナの計算を遥かに置き去りにした、常軌を逸した金額だ。
2000万の入札をした男も、ソフィアも、信じられない展開に息をするのも忘れていた。
(これって……大成功……なのかな?)
思いがけない額の落札に思考が停止する。
何かが頭の片隅で警鐘を鳴らしているようないいしれぬ不安。
大階段をゆっくりと上ってきた公爵の冷ややかな視線が、一直線にラナを射抜く。
「っ……!?」
背筋にゾクリと、氷を直接押し当てられたような悪寒が走る。
公爵はゆっくりと近づいてくると、身構える隙すら与えず、ラナの顎を細く強い指で持ち上げた。
強引で、逃げ出すことの許されない圧倒的な支配の力。
「……貴様が『写真』の女か」
深海のように深い群青の瞳が、ラナの逃げ場を塞ぐように見つめている。
その瞳の奥には、冷酷な仮面の下に隠された、底知れない「狂気」と揺るぎない独占欲が揺らめいていた。
「え……? あの……?」
動揺するラナから目を離さぬまま、公爵は大階段の下で固まっている旦那や客に向かって、氷のように冷たい声で言い放った。
「これ以降、この女に他の客を取らせることは許さない」
「……は?」
旦那の間抜けた声が広間に響く。公爵は構わずに言葉を続けた。
「水揚げだけではない。色変わりまで全ての晩をこの場で買い取る。色変わりの暁には私が見受けする」
「この女の時間は、髪の一本、指先一つに至るまで、すべて私が買い取った。他者に触れさせることも、屋敷の外に出すことも許さない」
「な……ッ!?」
頭を鈍器でガツンと殴られたような衝撃が走った。
何を……何を言っている……? 全夜の買い取り? そのまま見受け? 他の客はつけない……?
頭が真っ白になる。
人生をかけて組み上げた完璧なキャリアプランが、ガラガラと音を立てて崩れ始める音がする。
男たちを競わせ、頂点に立つはずだったラナの計画は、この男の圧倒的な財力と権力によって、今阻まれようとしている。
至近距離まで公爵の顔が近づく。
「お前は俺のものだ」
耳元で囁かれたその声は、甘い愛の囁きなどではなく、絶対的な所有権の宣言だった。
公爵はラナを羽毛のように軽々と抱えあげると、階下で震える旦那を一瞥した。
「部屋は離れに」
「……は、離れと言いますと……まさかあの、黄金宮のことで……!?」
旦那の顔から一気に血の気が引いていく。
黄金宮──サロンの敷地内に鎮座する、絢爛豪華な黄金の別棟。
手入れこそ毎日欠かさず行われているものの、実質的には豪奢な飾りのようなもの。
何十年もの間、誰一人として宿泊を許されたことのない幻の空間だった。
「……ッ!?」
広場を埋め尽くしていた貴族や大富豪たちの間にどよめきが伝播していく。
「二度言わせるな」
ノアの氷のように冷たく、絶対的な威厳を孕んだ低音。
「ひいっ……!?」
旦那は小さく情けない悲鳴を上げると、ガタガタと膝を震わせながら深々と頭を下げた。
「ご、ご案内します! こちらへどうぞ……っ!!」
なりふり構わず駆け足になりながら、旦那はヴェルヴェット館の歴史上最高の客室である『黄金宮』へと二人を先導して走り出した。
熱狂の余韻と冷たい静寂が同居する会場に取り残された、ソフィアを始めとした大富豪や貴族たち。
彼らは言葉を完全に失い、呆然と開いた口が塞がらないまま、ノアの圧倒的な存在感と、抱えられたラナが奥の回廊へと消えていく姿を、ただ見送るのだった。
ガチャ──。
重々しい金属音が静寂を切り裂き、全面に精緻な黄金の装飾が施された大きな扉が開け放たれる。
ヴェルヴェット館の敷地奥に、人目を避けるようにひっそりと、しかし圧倒的な存在感を放って建つ豪華な離れ──『黄金宮』。
足を踏み入れれば、足首まで沈み込みそうなほどふかふかの高級絨毯。
シルクで仕立てられた天蓋付きベッド。
遠方からわざわざ取り寄せられたという絢爛豪華な調度品が、惜しげもなく所狭しと並べられている。
──息が詰まるほどの贅沢。
しかし扉の向こうには、公爵家の私兵である護衛たちが待機している。
黄金宮は完璧で、豪華で、そして一切の出入りを許さない物理的な隔離空間となった。
「…………」
ラナは体を震わせ、あまりの状況に言葉を失っていた。
しかし、ラナを抱える男──誰もが恐れる冷酷無比な公爵は、ラナの怯えなど気にも留めない様子だ。
彼にとって、他者からこんな恐怖の視線を向けられることなど日常茶飯事なのだろう。
「怯えるな。何もしない」
抱きかかえていたラナをベッドへ無造作に下ろすと、ノア公爵は低く冷徹な声で告げた。
「お前は誰にも触れさせはしない。この離れで、気ままに過ごすがいい。どんな贅沢も許そう」
それだけを言い捨てると、公爵は私を置いて部屋を出て行った。
カチャリ。
重厚な鍵の閉まる音が響く。
──え?
嘘?
まさか
出て行った?
鍵、かけた……?
私を一人にして、閉じ込めたの──!?
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