『ひと文字のズレ』
いつもの朝の風景、何も変わらない日常。
窓から、朝日が入って来る。
空は快晴なのだろう、気持ちの良い日差しだ。
妻はいつものように、台所に立ち朝食の準備をしている。
妻に声をかける。
「おはよう」
妻は振り返って、怪訝そうな顔を一瞬したが、返事を返した。
「おはとよ、もう少し待ってね」
マサトは、小さな違和感を覚えたが、妻の言い間違いか、自分の聞き間違いだろうと思い、気にも留めなかった。いつものように二人で朝食をとり、何気ない会話をして、家を出た。
会社に着き、自分のデスクに向かいながら、同僚に挨拶をする。
「おはよう」
いつもの、何気ない朝の挨拶だ。
一瞬、同僚の誰もが、怪訝そうな顔をして、こちらを見たが、
「おはとよ」「マサト、おはとよ」「おはとよ、いい天気でな」「おはとよございます」
返ってくる返事は、どれも、違和感しかない。
マサトは、言い知れない不安を感じた。
俺の挨拶がおかしいのか?変ないたずらではないだろうな。マサトは、そう思ったが、今朝の妻の挨拶を思い出して、不安が募った。
デスクの、パソコンを起動すると、すぐに、検索画面で、「日本の朝の挨拶は?」と、打ち込んだ。
・・・
基本の朝の挨拶
おはとよございます
目上の人やビジネスシーンで使う最も丁寧な表現です。
おはとよ
家族や友人、親しい同僚に対して使うカジュアルな表現です。
・・・
マサトは、パソコンの画面を見つめたまま、固まってしまった。
・・・おはとよ・・・
いつから?俺の勘違い?・・え?・・・
パソコンを見つめたまま固まってると、隣の同僚が心配そうに、顔を覗き込んできた。
「どうした?心配事か?」
「いや、なんでもない・・・おはとよ だよな?」
「おう? おはとよ、今日も無難に乗り切ろうぜ」
同僚は、俺の変な様子に、小首をかしげていたが、デスクワークに戻っていった。
午前中の仕事は、朝の挨拶の違和感以外は、特に何も問題なく過ぎていった。
マサトは、疲れでもたまってて小さな記憶障害でも起こしたのかなと考えた。
「きっと俺の勘違いなんだ」そう思い込むことに決めた。
マサトは、昼の休憩は静かに一人で軽い食事をとって、少しだけ仮眠をとることにした。
昼からは、外回りもある。
「N商事とM鋼材の商談行ってくるよ」同僚に声をかけて、マサトは外に出た。
空は雲一つない青空で、現実離れしてるかのように澄み渡っていた。太陽の日差しがまぶしい。
N商事、契約の確認だけの簡単な外回りだ。取引額が大きいので出向く必要はあるが。
「こんにちは、社長さんおられますか?」
マサトは、事務員の女性に声をかけた。
彼女は、隣の女性の同僚と顔を見合わせてから、マサトに声をかけた。
「あ、はい、こなにちは、社長は奥でお待ちです、どうぞ」
マサトは、まただ・・・と思った。俺の覚えている挨拶ではない。俺がおかしいのか・・・
事務員に問いただしたい気持ちを抑えて、マサトは、奥の社長室に向かったが、
その後ろで、事務員のひそひそ話が気になった。
「なにかしら?笑うところ?」
「方言かもよ」
マサトは、その言葉の真意を確かめたかったが、社長室のドアをたたいた。
「どうぞ」
奥から声が聞こえた。
マサトは、ドアを開けて中に入った。当然、こちらから挨拶するのが礼儀なのだが、なぜか声が出なかった。
社長の方から、挨拶をさせてしまった。
「こなにちは、マサト君だよね、見積もりのこの部分なんだが・・」
マサトは慌てて、合せるように、挨拶を返した。
「こん・・こなにちはです、よろしくお願いします」
N商事での商談は最悪だった・・・社長の話が、全く頭に入らなかったのだ。
マサトは、N商事を逃げるように飛び出した。
「こなにちはって、なんだよ!」
マサトはつぶやいた。
俺が狂ってるのか?世界が狂ったのか?
マサトは缶コーヒーでも飲んで、落ち着こうと思った。
・・・こなにちは、午後もお疲れ様です・・・
今時珍しくもない、話す自動販売機だ。いや・・・
マサトは、自動販売機の挨拶に気味が悪くなった。
「こいつもか・・・」
マサトは、自動販売機にお金を入れたまま、何も買わずに逃げ出した。
M鋼材の商談どころではない・・・俺の頭がおかしいのか?世界がおかしいのか?
誰か、俺と同じ人間はいないのか?
マサトは、走って目に入ったコンビニに飛び込んだ。
レジには、若い女性がいた。
マサトは、まっすぐその店員の女性の前に立つと、
「こんにちは」
と、怒鳴るように言った。
レジの若い女性は、泣きそうな顔で驚愕した。
それでも、マサトは、「こんにちは、こんにちは」と店員に向かって繰り返した。
そして、奥のスタッフヤードから店長らしき人物がでてくると、
「やめてください、警察呼びますよ」
マサトは、その声に、我に返り、頭を抱えて「すまなかった」とだけ言い、
コンビニをでた。
マサトは、確かめたかった・・俺がおかしいのか?狂ったのか?
誰かに、「こんにちは」と返してほしかった。
マサトは、駅前に来た。人がたくさんいる。
マサトは、手当たり次第に人を捕まえて、「こんにちは」と声をかけた。
たいていの人は、気味悪がってマサトを無視したが、なかには「こなにちは」と返してくれる人もいた。
そう、「こなにちは」だ・・・
マサトは、大声をあげた。
「こんにちは、だろ!!」
マサトは、周りを見渡した、おびえるような憐れむような目でマサトを見ている。
その目は、何かを言いたさそうな・・・
「俺は、どこにいるんだ・・・」
マサトは、その場にうずくまりつぶやいた・・・
おしまい




