96.我が主君(ガブリエラ)
見渡すものは全て最高品質と覚しき調度品に囲まれた、広い室内に若い男女が二人。
二人以外に、人の気配はない。
一人は一人掛けのソファにゆったりと腰を下ろし、もう一人はその人物の前で、行儀よく手を組み佇んでいた。
ソファの人物は、この国では珍しい、少し癖のある黒髪の巻き毛を持ち、その表情にはひどく退屈そうな様子が浮かんでいる。
前に佇む人物は、容姿こそ凡庸だが、厳かな雰囲気の漂うこの空間に負けないくらいの気品と厳格さを兼ね備えていた。
そんな彼女が、口を開く。
「――ダンテ殿下は、もう堕ちました」
鈴の鳴るような声で、目の前の彼に語りかける。
「そうか」
彼は短くだけ返す。その表情からは、何も読み取れない。
しかし次の瞬間、感情があふれ出るかのように、顔に滲んだ。
「いい気味だ――っ」
彼はそう言い、片方の口の端をわずかに吊り上げ、肘当ての上に置いた両手を固く握りしめる。
その様子を、彼女は冷静に見つめていた。
(一体いつから――この方は変わってしまわれたのだろうか)
彼女は静かに、記憶を回顧していった。
◇
――それはまだ自分が幼い頃のこと。
突如として父の不義を知り、周りの何もかもが信じられなくなっていたときがあった。
そのとき、唯一、自分の味方でいてくれたのが、後に『我が君』となる彼だった。
婚約者ですら、話は聞いてくれるものの、自分のことを真に理解しようとはしてくれなかった。
もちろん、自分の考えが誤っていたことは、自分自身がよくわかっていた。
紐解いてみれば、誰も悪くない。
けれども、あのときは、何かを悪者にしなければ、自分の感情を抑えられなかった。
この世界で誰よりも愛し、尊敬していた父。
そんな父が学生時代に平民の同級生と身体の契りを交わし、子まで授かっていたなんて。
しかも、その子を今さら我が子として迎え入れるという。
自分たち家族を、蔑ろにされたように感じた。
父を憎もうと思ったが、そもそも産み落としたのは平民である母親の方である。
噂では相思相愛だったということだが、もしかしたら父が強要された可能性だってゼロではない。
そんな風に理由をつけて、その母親のことを憎んだ。
そして、彼女が平民であったことも憎んだ。
もし彼女が貴族でさえあれば、きっと卒業後は父と結婚していただろう。
――その場合、自分や弟は、この世に存在していないのだが。
むしろ、父と彼女が出会わなければ。
そもそも、王族の血を引く高貴な父が、平民などと出会うような環境があること自体、おかしいのかもしれない。
『身分差なく平等』
そんな偽りの制度を掲げる学園で、彼らは出会った。
――出会ってしまった。
(私は、そんな環境を――学園を――壊してやりたい)
それが、あのとき真っ先に湧き上がった感情だった。
婚約者である彼にそれを伝えると、
「そうだね」
と、本心ではそう思ってもいないだろうに、同意してくる。
けれど、自分の従兄妹であり、婚約者の主君でもあるこの方に自分の願望を打ち明けると、
「必ず私が、おまえの望みを叶えてやる」
と、真剣な眼差しで言い切った。
――私の主君は、この方しかいない。
実に単純だと、我ながら思う。
けれども、あのとき――彼が、自分の気持ちを肩代わりするかのように感情を滲ませてくれた、その声と表情は、今になっても色褪せることなく、強く頭に焼き付いている。
そのうち、『我が君』の『弟』が、終始『あの子』を伴って王城をうろつくようになった。
『あの子』は自分と年がさほど変わらず、しかし自分とは違って、恐ろしく礼儀がなっていない――それでも、誰もが目を惹くほど容姿は整っていた。
自分ですら、あの薄い硝子のような水色の瞳と目が合ったときは、その美しさに息を呑んだくらいだ。
しかも、彼は飲み込みも早く、恐らく容量がいいのだろう。
目についていた所作もすぐに正し、むしろ人の目を惹くほどの成長を遂げていった。
そのことに、胸の奥に燻っていた黒い感情が、再び燃え上がった。
(平民の血が半分混じっている紛い物のくせに)
一度そう思うと、止まらなかった。
最初は王城に引き取られた『あの子』が、教育を終えてわが家にやってくると、父はもちろん、血のつながりのない母や弟でさえも、彼を温かく迎え入れ、彼の優秀さを褒め称えた。
私が自慢に思っていた貴族としての所作や教養、そして魔法の腕さえも、
彼はわずか二年で軽々と飛び越えていく。
このことに、嫉妬しない人間などいるのだろうか。
婚約者に、今度は『あの子』のことを苦言すると、
「君の気持ちもわかるよ」
と、共感するに留めてくる。
違う。私が求めているのは、そんな優しい言葉ではない。もっと別の――
「野蛮な混合物は排除すべきだ」
我が君は、はっきりと仰ってくれた。
これこそ、私が求めていた言葉だった。
その後にわかったことだが、我が君は、混合物である『あの子』――私の『義兄』を側に置く、自身の『弟』に、酷いコンプレックスを抱いていた。
周囲から神童ともてはやされ、かつて抱いた民主主義との共存を軽くやってのけようとする『弟』。
しかも、自分には持ち得ない魔法の才も持つのに、本人は王位に興味がないと平然と言い放つ。
彼は、そんな『弟』が目障りで仕方がなかった。
そして私は、『義兄』が邪魔で仕方がなかった。
――結局、私たちは似た者同士だったのだ。
そのことに気づいたとき、私は軽い絶望を覚えた。
共依存のような関係など、望んでいなかったからだ。
しかし、彼の野望は私にとって心地よく、婚約者よりも彼に重きを置くようになったのは、必然だったのだろう。
私は、平民そのものよりも、『義兄』を心の底から憎んでいた。
彼を排除するためなら、この国の身分制度の在り方すら変えてやる。
そのくらいの強い意思をもって、中立派である家の方針に反し、裏で貴族主義のコネクションを広げていった。
一方、我が君は。
『民主主義』を憎み、平民そのものを嫌悪した。
留学先の環境の影響もあったのだろうが、今の教育係の思うがままに偏った貴族主義へと思考を歪め、いつの間にか、彼らの都合のいい傀儡へと成り果てていた。
私の婚約者は、そんな我が君に見切りをつけたらしい。
すっかり登城することも減り、私が壊してやりたいと願っていた学園で、青春を謳歌していた。
彼は私とも次第に疎遠になっていた。
幼い頃、三人で仲良く城で過ごしていた日々は、まるで泡沫の夢のようだった。
それと反比例するかのように、私は我が君との仲を深めていた。
家では普通に振る舞っていたが、内心では全員のことを軽蔑していた。
私のことを理解してくれるのは、ただ一人、我が君だけ。
彼は、私の唯一だった。
たとえ思想が極端な方に傾こうとも、甘い汁を吸おうとする輩に操られていたとしても、
それでも彼だけは、私を肯定してくれるのだった。
そして、私が進学を控えたある年。彼は言った。
「おまえの願いを叶える前に、一つ実験がしたい」
――私の願いを覚えていてくださったことに、私は歓喜した。
そして、なんの抵抗もなく、私は彼の命に忠実に従った。
たとえそれが――まだ婚約者でいる彼を、マインドコントロールの魔法にかけることであっても。
この魔法は、この国では大昔に禁呪とされており、我が君が承知していたかどうかはわからない。
しかし、その魔法が記述された魔法書を、彼は私に与えた。
チャンスは一度きり。
私は何度も練習した。
あるときは動物で、あるときは城にいた適当な者で。
魔法の痕跡を絶対に残すなという彼の命令に従い、証拠を残さない方法も必死になって習得した。
このときほど、魔法の素養に恵まれていて感謝したことはなかった。
魔法痕が残らない代わりに、わずかに甘ったるい香りがその場に残ってしまうのは、どうにもならなかった。
だが、匂いなどすぐに消えるものだ。まったく問題はなかった。
我が君は私の婚約者を自室へと呼び出し、私はタイミングを見計らって、婚約者に向かって魔法をかける。
姿を見られぬよう人払いは済ませ、目眩ましの魔法も忘れなかった。
そして――
魔法は、大成功だった。
婚約者は、まるで我が君の思考を写し取ったかのような行動を、次々と取っていったらしい。
私は学園の生徒ではなかったため、実際に何が起こっていたのか、彼がどのように振る舞っていたのかは知らない。
けれど、家族との食卓の席で、
「ブリード家の彼とは、縁を切ることになるかもしれない」
父からそう告げられたとき、事態が想像以上に進んでいるのだと、改めて思い知らされた。
婚約者のことを心配したわけでは、決してない。
もし、私の魔法が露見すれば――罰を受けるのは、我が君だ。
それだけが、ただ恐ろしかった。
結果として、『元』婚約者は廃人のようになり、学園を退学するまでに至った。
そのことに、我が君は、とんでもなく喜びを顕にした。
「これで、一つ準備が整った」
そう、今回の件は彼にとって、ただの予行演習に過ぎなかったのだ。
来たるべき本番に向け――
我が君は、私に学園へ入学するよう命じた。
私が最も嫌悪する学園へ、なぜそんな酷いことを言えるのか。
私は珍しく、彼に抗議した。
けれども、彼はこうも言った。
「内部から、潰すほうが景色がいいだろう」、と。
私は彼の言葉に打ち震えた。
なんて、……なんて素敵な未来なのだろうと。
彼の言う「来たるべきとき」に向け、私は我が君の命に従い、学園に入学した。
入学後は、自分なりに土台を作っていった。
貴族主義の筆頭家の令嬢を隠れ蓑にし、我が君の『弟』に怪しまれないよう、学園内で事件を演出する。
『弟』は非常に聡明なため、表立って動くことはできない。
そのため、『弟』の仲間であり――平民の血が混じる女を、執拗に狙った。
しかし、その女も後に『弟』の手先であることが判明した。
――そうであれば、退場してもらうほうがいい。
階段から誰かに突き落とされたと思い込むよう暗示をかけ、彼女は宙を舞った。
さすがに殺すつもりはなかったため、なるべく低い位置から狙ったおかげで、女は重傷で済んだ。
そして、思惑通り、学園に来なくなった。
準備が整うまで、あと少し――
そんなとき、あの『弟』は別の生贄を補充してきた。
しかも、平民の血が混じるどころではない。
混じりっけなしの、平民を、だ。
頭がおかしいのではないかと思った。
自分が狙う以前に、他の生徒からも嫉妬や反感を買うだろう、地味で目立たない人材を、わざわざ仲間に引き入れたのだから。
手始めに、貴族主義の令嬢に命じ、その平民を堂々と魔法で狙わせた。
しかし、あろうことか、彼女は危険を察知したかのように、魔法を軽々と避けてしまった。
そのことを確かめるべく、次は『弟』の仲間たちがいる中で、彼女だけを狙わせた。
だが、結果は同じだった。簡単に避けられてしまう。
――ここで、ある疑問に行き着く。
この平民は、単に『弟』に引き入れられたのではない。
自分たちをおびき寄せるために、わざわざ連れて来られたのだ、と。
一度手を引き、貴族主義の者たちに自由に動かせてみた。
すると案の定、次々と彼らは彼女に反撃されていくではないか。
これは一筋縄ではいかない。
そう悟った直後、貴族主義の筆頭の令嬢が大怪我をしたという情報が入ってきた。
なんでも、彼女に放った魔法が、時間を置いて丸ごと自分に返ってきたというのだ。
彼女は生粋の平民で、その姿からは魔力など全く感じられなかった。
――であれば、何か魔道具を使ったに違いない。
こっそり彼女の姿を観察していると、彼女の指に、見覚えのある指輪が嵌っていることに気付いた。
それは、我が君と同じ王家の指輪だ。国宝でもあるその指輪は、魔力を持つ者が身に着けると、何らかの魔法を受けた際に、それを自分の魔力へと変換する。
一方、魔力のない者が身に着けると、指輪が魔法を吸収してくれるという代物である。
間違いなく、我が君の『弟』が彼女に渡したものだった。
(これは、チャンスだ)
つまり――『弟』は丸腰の状態だということになる。
ただし、丸腰とはいえ、彼の魔法の腕は自分をも上回る。
正面から魔法を仕掛ければ、間違いなく返り討ちに遭うだろう。
そこで考えたのは、指輪に禁呪を吸収させ、間接的に『弟』へ放つことだった。
貴族主義筆頭の令嬢が魔法の反発を受けたのは、指輪の浄化によって、魔法が放った本人へ返却されたためである。
実を言うと、我が君の指輪の浄化作業を自分が請け負ったことが、何度かあったのだ。
そのとき――
強過ぎる魔法の浄化を行った際、浄化しきれなかった魔法が、かつて自分を襲ったことがある。
油断しなければ、自然と霧散していただろうそれは、ほんの僅かな隙を突き、浄化者を排除すべく牙を剥いた。
――この手を、利用しようと考えたのだ。
しかし、あまりにも強力な魔法は、学園内では学園長による結界によって、即座に探知されてしまう。
そのため、彼女が学園を出た隙を狙い、元婚約者にかけた、あのときの呪詛を、思い切りぶつけた。
彼女は攻撃魔法には敏感だが、精神系の魔法に対しては、まったく感知能力が働かないようだった。
こうして、種は蒔き終わった。
あとは、向こうが罠に掛かってくれるのを待つだけ。
我が君にも、もちろんこのことは報告した。
彼は言葉少なに、「よくやった」と告げる。
その一言だけで、私の胸は幸福で満ちていった。
『弟』はまんまと罠に引っかかり、学園を休学した。
王室お抱えの宮廷魔術師の解呪を受けることとなったが、私の心は凪いでいた。
チャンスは一度きり。
彼らが解呪した後に何食わぬ顔で重ねがけをすれば、誰にも疑われることなく、『弟』を意のままに操ることができる。
そして、思惑どおり、『弟』は見事に、私の元婚約者同様、我が君の意識を模した行動を取っていくこととなる。
あとは――
我が君は『弟』の失脚を。
そして私は、念願だった『学園の内側からの破壊』を、実行に移していくだけだ。
本来であれば、学園はもうすぐ創立祭の準備に取り掛かる頃だったらしい。
――けれども、そんな日は、二度と来ない。
平民と貴族が仲良く力を合わせる日々は終わった。
学園が崩れゆく様を見る祭りを――私は、実行していく。
『弟』は思想を変え、これまで築いてきた生徒たちの信頼を裏切り、坂道を転がり落ちるように堕ちていった。
仕上げに、『弟』が私の婚約者から奪った地位を、今度は私の手で取り上げた。
もちろん、彼の仲間たちも同様だ。そこには『義兄』も当然ながら含まれている。
学則には、身分制度の厳格化と、貴族専用区の制定を盛り込んだ。
周囲から見れば、私は独裁者として、貴族だけのユートピアを作ろうとしているように映るだろう。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
『学園を、内側から徹底的に崩壊させる』
それが、私の目標であり、願望だった。
そうすれば、かつての自分が報われる――
そんな気が、確かにしていた。
目の前にいる我が君は、いつから変わってしまったのだろう。
そして、私は――いつから、歪んでしまったのか。
二人、堕ちるところまで堕ちよう。
私は我が君に頭を垂れ、彼の私室を後にした。




