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89. 旧校舎にて、彼の問いかけ

翌日。


どこか、学園の雰囲気が変わった気がした。

ほんの少しの違和感。

たった一日で何が変わるのかと思うかもしれない。

それでも――明らかに昨日とは空気が違っているのだ。


「ねぇねぇ、クィアシーナ! ジガルデ先生って、ほんとすごい人だね」


「え? 急にどうしたの?」


朝イチでララからジガルデの名前を聞き、突然どうしたのかと理由を尋ねる。


「昨日ね、私見ちゃったんだよ。

ジガルデ先生がヒーローみたいにして平民の子を助けるところを!」


ふふんと得意げな表情で、ララが続ける。


「なんか、平民の子がシュターグ公爵令嬢に噛みついちゃったみたいでさ。

彼女が、その生徒相手に、身分を弁えない振る舞いをしたってことで魔法で罰則を与えようとしてたんだけど……

そこになんと! ジガルデ先生が現れて、シュターグ公爵令嬢が魔法を放つ前に解除しちゃったの!」


「ええっ!? なにそれ、めちゃくちゃカッコイイじゃん!」


気持ちを高ぶらせて語るララに、クィアシーナも釣られて興奮する。


「そうなの! かっこ良かったの! そのとき、私を含めかなりの人が成り行きを見守ってたんだけど、みんなから感嘆の声が漏れてたよ。こんな学則がある前だったら、拍手喝さいだったと思う。

クィアシーナはさ、ジガルデ先生のこと気品がどうだって言ってたけど、魔法の腕も相当なものでしょう?

ちょっとクィアシーナが先生を推しまくる理由が、わかっちゃったかも」


「でしょ? やっと気づいてくれた?」


クィアシーナの顔がニヤリと笑った。

ようやく、彼の魅力に気付いてくれたか、と。


(それにしても――ガブリエラさんは、相変わらず罰則に魔法を行使しているんだ)


前にダンテからも窘められたと言っていたが、彼女に改める気はないらしい。


「それにそれに、ファンクラ部の先輩が、ジガルデ先生に会った時、ちゃんと名前を憶えてて、挨拶もしてくれたんだって!

昨年までいた生徒なら、全員顔も名前も覚えてるだなんて、凄いと思わない!?」


「……う、うん、そうだね……」


これに関しては、現在の一年生まで含め、親の職業まで把握している、ダンテとガブリエラという上位互換がいたため、相槌を打つにとどめておいた。


「あとね、身分制度を履き違えて、横柄な振る舞いをした生徒にも指導が入ったの!

品位を叩き込むってことで、そのおかげで大きい顔をしてた生徒たちが静かになったんだって! これもファンクラ部の先輩からの情報だよ」


「ファンクラ部、活動停止してるのに、情報回るの早いね……」


話の内容よりも、ファンクラ部の情報網の凄さに意識を持っていかれる。

結束力が強いというか、なんというか……。

これは、推しという共通の趣味が成せる絆なのだろうか。


(私も――この生徒会のゴタゴタが片付いたら、絶対にファンクラ部に入ってやる!)


生徒会は辞めた。

最推しができた。


以上、十分過ぎる加入理由である。


そうこうしている内に、本鈴が鳴った。

今日は一限から、先程話題にしていたジガルデ先生によるありがたいラスカーダの歴史学の授業だ。

彼は主に、歴史や社会科関連の授業を受け持つことになったらしい。


(耳に心地いいわ……)


真剣に彼の講義を聞きながら思う。

早すぎることもなく、かといって退屈を誘うようなスピードでもない授業だ。

授業の終わりには、みんなに考えさせるため、グループで議論を行う時間も設けられていた。

このグループというのも、平民、貴族を敢えて交えるよう工夫され、「この授業では身分ではなく、自分個人として意見をするように」と前置きをし、授業中の身分差の学則はいったん目を瞑ると約束した。


もう、クィアシーナはうはうはである。

議論、討論、別に好んでいるわけではないが、いかんせん得意な部類であった。


フォボロス学園では、受け身の授業でも内職ができる点が気に入っていた。

でも、ダントリアス校のように、意見をガンガン出す授業が恋しくなっていたのだ。


(ありがとう、ジガルデ先生……好き……!)


もう、クィアシーナは授業中、終始無双状態だった。



授業が終わると、やはり教室の空気は変わっていた。

これまで貴族と平民の間にあった、見えない壁のようなものが薄れ、休み時間には、貴族も平民も議論の続きを話している姿が見られる。


一方で、クィアシーナと同じグループになった生徒たちは、疲労困憊で皆、机に突っ伏していた。


議論中、クィアシーナの質問や意見に次々に引きずり出されるメンバーたち。

「うんうん、それでそれで?」

「それはどうしてそう思ったの? 私は――」

自分の反論に対しても、彼女は巧みに場を回しながら、さらに「じゃあ、この場合はどう思う?」と追い打ちをかける。


普段は受け身の授業ばかりで、自分の意見をあまり言わない彼らは、最近の学園の風潮もあって、話す機会はさらに減っていた。

そのためか、授業後のメンバーはみな、喉がカラカラになったかのようだった。



授業中、彼はこうも説いた。


『ラスカーダの歴史的背景を考えれば、完全に身分をなくすことは容易ではありません。

何百年もかけて、少しずつ改革していく必要があります。性急に事をなそうとすると、どこかで血が流れる可能性すらあります。


しかし、だからといって、平民の上に貴族があり、貴族の下に平民がある──そんな奢った考えは、即座に正すべきです。

平民も貴族も、自由に意見を言える社会こそが、ラスカーダをより発展させていくと、私は信じています』


この言葉に、生徒たちは一斉に頷き、力強く首を振って同意の意を示した。


(ジガルデ様は貴族主義でありながらも、歴史的背景やその先の未来を見据えて、身分というものの在り方を考えているんだな……)


――こうして、ジガルデの授業は、さまざまな意味で生徒たちに良い風を吹き込む役割を果たした。





少しの緊張で、鼓動が早まっているのがわかる。

それなのに、なぜか足取りは軽かった。


クィアシーナは旧校舎の三階へと足を進めていた。


一昨日使った、鍵のかかったあの部屋。

使い終わったあと、施錠しないままにしてある。


もしかしたら、すでに警備の者が再び鍵をかけているかもしれない。

その場合は、廊下で待てばいい――そう思っていた。


ガラッ。


勢いよく引いた引き戸は、拍子抜けするほどあっさりと開いた。


(よかった……鍵、かかってなかった)


クィアシーナは静かに息を整え、

以前ダンテが入ってきたときの動きをなぞるように、窓際へと歩み寄った。


手すりに手をかけ、ガラス越しに外を覗く。


最初に視界へ飛び込んできたのは、すぐそばの小高い丘の上に建つ生徒会館だった。

こんな位置からでも、その姿をはっきり確認できるらしい。


生徒会館からはフォボロス学園全体が見渡せる、と聞いていたが――

どうやら、その視界には旧校舎も含まれていたようだ。


さらに視線を落とすと、裏庭から会館へと続く階段が、小さくではあるが見えた。


毎日のように、あの階段を登っていた時期があった。

今となっては、そんな日々がどこか懐かしい。

庶務を解任されてからは全く使うことがなくなった。

せっかく慣れてきていたはずなのに、もし今登れば、きっとすぐに息が上がってしまうだろう。


その先に広がるのは、ただの雑木林だけだった。


特別な景色もなく、心を惹かれるものもない。

クィアシーナは、ほどなくしてその風景に興味を失った。


教室の中へ向き直り、手すりにもたれかかりながら、ぼんやりと扉を見つめる。

このまま昼休みが終わってしまう可能性は大いにあった。


それでも、クィアシーナは僅かな望みに賭けていた。


(……あ)


そのとき、廊下から微かな足音と、確かな気配を感じた。


見回りの教師だった場合は、「一人になりたかった」などと、適当な言い訳をするつもりだ。


けれども――

もし、そうではなかったなら。


ガラッ。


先ほど自分が開けたときと、まったく同じ音が響いた。


そして扉を開けた生徒は、部屋に足を踏み入れることなく、ただクィアシーナの姿を、その瞳に映した。


ゴクリ、と喉が鳴る。


さっきまでのぼんやりした感覚が嘘のように、思考も視界も一瞬で冴え渡った。


目の前の生徒から放たれる、圧倒的な気配。

それに押されるように、もたれかかっていた手すりと背中のあいだに、じわりと汗が滲んだ。



咄嗟に、お腹の前で緩く両手を重ね、頭を下げた。


すると、扉の前で止まっていた生徒が、ゆっくりと歩を進め、教室の中へ入ってくる。


クィアシーナは、頭を下げたままだ。


視界に映るのは、床と、自分の靴先だけ。

そこへ、もう一つ影が差し込んだ。


「……」


彼は何も言わない。

だから、クィアシーナも顔を上げなかった。


生徒は彼女の隣まで来ると、手すりに身を預け、静かに外を眺める。


しばらくの間、奇妙な沈黙が続いた。


このまま、彼は何も言わずに去ってしまうのかもしれない。


――そのときは、引き留めよう。


そう考えた、まさにその瞬間だった。


「――ここは、フォボロス学園だ」


ぴくりと耳が動く。

あまりに当たり前の言葉に、クィアシーナは続きを待った。


「生徒会館は、王城であり議会の場」


静かな息とともに、言葉が一つずつ紡がれていく。


「生徒は国民。ここは、貴族と平民が入り乱れる街そのものだ」


そして、唐突に、話が止まった。


ごくり、と喉が鳴る。

震えそうになるのを必死で抑え、クィアシーナは声を絞り出す。


「――発言の許可を、頂いてもよろしいでしょうか」


頭を下げたまま、静かに告げた。


彼は一拍置いたあと、口を開いた。


「……赦す」


その声に尊大な響きはない。

許可は得た。あとは、発言するだけ。


クィアシーナは、床を睨見つけながら、一息で言った。



「学園が崩れゆく様を見て、"王様"のあなたは、何をお感じになりましたか」



クィアシーナの言葉に、一瞬空気が揺れた。

そのことを肌で感じたクィアシーナは、前で重ねた手をグッと握りしめる。


――彼に僅かでも動揺を与えられた。そう、雰囲気だけで確かに感じ取れた。


彼はまだ、黙ったままである。


張り詰めた空気は重く、次に返ってくる言葉を想像するだけで、緊張が走った。


そして、――その空気を断ち切るかのように、彼は告げた。


「人の生き様と」


短く言葉を区切り、


「時代の流れだ」


返された答えは、あまりにも予想外だった。


(『時代の流れ』――まるで、陛下が口にしていた言葉……)


突然の学則変更に、生徒たちは皆動揺し、反発した。

だが次第に、抗えぬ現実の前に、ヒエラルキーの下の者から順に従い始め、上の者たちでさえ流れに身を委ねていった。


ある者は奢り、

ある者は裏で策略を巡らせる。


そして――外部から救世主らしき人物(ジガルデ)が現れ、人々は皆、彼を頼るようになった。



「――この先に、()は何があると思う?」


静かな問いだった。


クィアシーナは自分に向けられた言葉だと理解するのが遅れ、思わず顔を上げてしまう。


彼の碧の瞳には、何も映っていなかった。


「――顔を上げる許可は出していない」


静かに落とされた声に、彼女は慌てて再び視線を伏せる。


(この質問の意図は……一体、何?)


だが彼は答えを待つ気などないらしく、俯いた彼女の耳元で小さく囁くと、そのまま踵を返した。


――その言葉に、クィアシーナは瞬きも、呼吸もできなかった。


 


『革命だよ』


 


ダンテから紡がれたその一言は、いつまでも耳から離れなかった。


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