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68. 仮面の王子様

周囲がざわめいているのがわかる。

――あの人、前の庶務の人じゃない?

そんな声が、ちらほらと耳に入ってきた。


変に目立ってしまっている。

だからこそ、頭を下げているこの間に、一刻も早くこの場から立ち去ってほしかった。


けれど、視界の端に映る彼の足先は、ずっと同じ場所から動かない。


「――顔を上げて」


それを命令だと受け取り、クィアシーナはゆっくりと顔を上げた。


薄い水色の瞳が、まっすぐに彼女を映す。


「……っ! これは大変だ!」


途端に、リンスティーが慌てたような声を上げた。


「なんて顔色が悪いんだろう。早く保健室に連れていかないと」


(……なんだ、この小芝居)


クィアシーナが怪訝そうな表情を浮かべていることにも気づかないふりをして、リンスティーは彼女の手を掴む。


「あ――」


そう思う間もなく、強引に引かれる手。

振り払うこともできないまま、クィアシーナは彼の背中を追うように歩き出した。


「ごめんね、みんな道を空けて」


周囲のざわめきが一層大きくなるが、お構いなしに、リンスティーは管理棟の保健室へと足を進めていく。

病人を連れて行くには、歩調がやや速すぎる気もしたが、クィアシーナはひたすら黙ってついていった。


保健医にひと言告げ、パーテーションで区切られた奥のベッドへ案内されると、ようやくリンスティーは手を離した。


そして無言のままクィアシーナをベッドに座らせ、自身はベッド脇の簡易椅子に腰を下ろす。


なぜこんな場所に連れてこられたのか。

リンスティーの意図がわからず、クィアシーナは沈黙を貫いた。


その様子を見て、彼は声を潜めて告げる。


「……今、防音魔法をかける」


そう言って、指をパチンと鳴らした。


「もう、好きに喋っていいから」


リンスティーは髪を掻き上げ、どこか心配そうな表情でクィアシーナに尋ねた。


「三日ぶりだな……。体調はどう?」


ようやく聞き慣れたいつもの調子に、クィアシーナはほっと肩の力を抜く。


「……発言の許可を?」


「それ、マジでやめろ」


間髪入れない雑な物言いに、クィアシーナの口元から「ふふ」と自然に笑みがこぼれた。


「体調は、やっと復活しました。拗らせると厄介なんですね。もう、ベッドの住人はしばらく勘弁です。逆に身体が痛くて」


「三日も引き摺るって、相当だからな。ストレスのせいもあったのかもな……」


「今日、久しぶりに登校してみて、すでに色々ストレス溜めてるんで。またぶり返すかもしれません」


一拍置いて、クィアシーナはむすっとした表情で続けた。


「それで――なんなんですか、その格好。私のお姉様は? ペナルティはどこに消えたんですか?」


クィアシーナがいちばん憤っていたのは、実のところ――

心待ちにしていた“リンスティーお姉様”に会えなかったことだった。


遠目からでも、お姉様の気配を感じ取れたなら。

それだけで、しばらくは元気になれる気がしていたのに。


そんな淡い期待は、見事に裏切られてしまったのだった。


「そんなに怒らなくても……」


呆れ混じりの声で、リンスティーがぼやいた。


「……ダンテが復学した日の放課後、執務室でさ。

『ペナルティはもういいから、自分の補佐らしく、まともな格好をしてこい』って言われたんだ」


リンスティーは小さく肩をすくめる。


「今まで誰が強要したと思ってんだよ、って言い返したかったけど……そこはなんとか堪えた。

で、今さら元通り、ってわけ」


クィアシーナは、ダンテがリンスティーに課していたペナルティさえ、あっさり反故にした事実に、わずかに目を見開く。


――だが、問題はそこではなかった。


「でも、それだけならまだしも」


思わず、声に力がこもる。


「あの、ダンテ会長の真似!

一体どういうつもりなんですか? 正直……見ていられませんでした」


柔らかく、きらきらとした眩しい笑顔。

誰にでも気さくに手を振り、声をかける仕草。


先ほどのリンスティーは、まるで――

かつてのダンテそのものだった。


「見てられなかった……か」


リンスティーは小さく息を吐いた。


「あれは、俺なりに生徒たちの捌け口になろうとした結果だ」


「……捌け口、ですか?」


「ああ。ファンクラ部が活動停止になったのは、聞いたか?」


「あ、はい。今朝、友人から」


「そのときのダンテの対応が、なかなか辛辣でさ。

あまりの態度に、その場で泣き崩れる子もいた」


リンスティーは、少しだけ視線を伏せる。


「崇めるほど憧れていた存在が、突然この世から消えた。

あの場にいた子たちには、そんなふうに映ったんだろう。

……ああ、これは。別の“支え”がないと、立ち直れないなって思った」


そこで、彼は自嘲気味に笑う。


「だから、ちょうどダンテから“お姉様”はやめるように言われたんだし、代わりに――“王子様”を演じることにしたんだ」


「相変わらず……面倒見がいいというか。優し過ぎるというか……」


そう言いながらも、クィアシーナの胸には、別の感情が込み上げていた。


それは呆れでも尊敬でもなく、

ただひたすらに――不安だった。


(この人……いつか、本当に倒れてしまうんじゃないだろうか)


「大丈夫ですか? 無理、してません?」


探るように聞くと、いつぞやと同じように、リンスティーはカッと目を見開いて

「もちろん、無理しかしてないに決まってんだろ!」

と憤り始めた。


「大体、ダンテが戻ってきたら楽になると思ってたのに、アイツ俺の首まで絞めてきただろ!? ほんと信じらんねぇ。

クィアシーナがあのとき一発かましてなかったら、俺もどこかで絶対に殴りかかってたと思う。


それに、庶務になってからずーっと、ダンテの尻ぬぐいばっかりってどういうことなんだよ。生徒たちの苦情をマグノリアンと二人で捌くだけで、一日が潰れるんだけど!?」


リンスティーはお姉様を止めても、その勢いは変わらない。

その様子に安堵しつつ、やっぱり無理してるんだ、とも思う。


「昼休みにまで相談対応ですもんね……

あれ、今もしかして、その人を待たせてる状態なんじゃ!?」


完全に忘れていた。この人は生徒会館に向かう途中なんだった。


「たぶん、マグノリアンが一人でなんとかしてくれてるから大丈夫。なんせ……体調の悪い生徒を救護してやってるだけだし?」


ニヤリと、悪い笑みを浮かべてクィアシーナを見る。

なんてうまい言い訳なんだろうか。


「まあ、でもそろそろ行かないとだな」


「そうですよね。すみません、長居させてしまいました」


「なんで謝るんだよ。連れてきたのは俺の方だろ。

久しぶりに……ちゃんと話が出来てよかった」


リンスティーの顔には、誰の真似でもない彼自身の微笑みが浮かんでいた。

そのことに、クィアシーナの胸の奥が熱くなる。


「もう今は、放課後に気軽に雑談、なんてことも、出来ないですもんね……」


本当はもっと時間を作ってほしい。

今生徒会内部はどうなってるのか、ダンテの様子も、もっと詳しく聞いておきたかった。

それだけでなく、今みたいに、彼の本音も。


「時間はつくるもんだろ? ってわけで、体調に問題ないなら、今日生徒会帰りに家に寄っていい?」


「フットワーク軽すぎません?

それに、庶民のエリアに足を踏み入れることさえ、いまだと咎められるんじゃ……」


「校門を出たら、学園外の話だから、むしろ干渉されなくて済む」


「……部屋に、風邪菌が残ってるかもしれません。それでもいいなら」


「ん、了解。気にしないから、終わったらすぐ向かう」


疲れているはずなのに、自分のために時間を作ってくれる優しさが、今胸にぐっとくる。


この気持ちは――


いつものアレ、でしか収まる気がしなかった。


「リンスティーさん。ぎゅっとさせてください」


もはや、男性姿の彼でも、口にするのにためらいはない。

本音を言えば、お姉様のほうが良かったけれど、贅沢は言わない。今はただ、彼とハグしたい衝動に駆られていた。


「親愛のハグ?」


「しばし別れのハグです。放課後、お待ちしてます」


クィアシーナは腕を広げ、ベッドから立ち上がり、座ったままのリンスティーに抱きつこうとする。

が、リンスティーも立ち上がり、腕を広げてクィアシーナの身体に手をまわした。


「ああ、ほんのちょっとの、別れのハグだな」


囁くような声に、クィアシーナも堪らず優しく抱きしめ返す。

お姉様のときの香りとは少し違うけれど、久しぶりに感じるリンスティーの体温と香りに、心がじんわりと満たされていった。



――そんな矢先。


突如、悪寒が、クィアシーナを襲った。


慌ててリンスティーから身体を離し、目線をパーテーションの方向へ向ける。


リンスティーもクィアシーナの警戒する様子に気付き、慌てて指を鳴らして防音魔法を解除した。


「失礼致します――。ここに、お義兄様と女子生徒の方が運ばれてきたと聞いて、様子を伺いにきたのですが――」


無機質な床を、規則正しい速度で響く靴音。

パーテーションの向こうに、ゆらりと影が落ちる。


そこから顔を覗かせたのは。


「やはり、こちらにいらしたのですね?」


たおやかに微笑む、漆黒の瞳のガブリエラが、静かに佇んでいた。


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