67. 居心地の悪い学園
結局、クィアシーナはあの後三日も学校を休む羽目になった。
制服のまま寝てしまった翌日、見事に熱がぶり返し、ベッドから起きることができなかった。
なかなか熱は下がらず、精神的な落ち込みもあって食事が取れず、回復が遅れたのだと自覚している。
(いま……どうなってるんだろ)
もちろん勉強の遅れも気になるところだが、それ以上に気がかりなのは、生徒会の新体制だった。
三日も経てば、すでに全校生徒に周知され、ダンテの思想も明るみに出ている頃だろう。
――登校したら、ぜんぶ元通りになってないかな。
間違いなく、あり得ない。
それでも、ふとそんな甘い期待を抱いてしまう。
本当は今日も様子見で学校を休むつもりだった。
だが、今日さえ登校したら、明日からはまた休日になる。多少の無理なら構わないだろう。
クィアシーナは三日ぶりに制服に袖を通し、足早に学園へと向かった。
◇
久しぶりに足を踏み入れた学園には、生徒会メンバーによる挨拶当番の姿がなかった。
挨拶当番は生徒会の伝統だと言っていたが、もしかするとダンテが不要と判断したのかもしれない。
クィアシーナとしては――殴った手前、できることならダンテには会いたくなかった。
その姿を見ずに済んだことに、ほっと胸を撫で下ろす。
周囲の様子を見ると、どこか張りつめた空気が漂っている気がした。
普段はワイワイしている登校風景なのに、生徒たちは皆、口数少なく校舎へ向かっている。
異様なまでの静けさに、クィアシーナの不安はじわじわと募っていった。
教室に入っても、その雰囲気は変わらない。
ほとんどの生徒が席に着いたままで、普段のように談笑する者は一人もいなかった。
その居心地の悪さに耐えきれず、クィアシーナは後ろの席のララに声をかける。
「おはよう、ララ。なんか、みんな静かじゃない?」
「お、おはよう、クィアシーナ。やっと復帰できたんだね……心配したよ。……ちょっと痩せた?」
「うん、ちょっと拗らせちゃってたみたいで、ほとんどご飯、食べられなかったんだ」
「そっか……」
本来なら、こういう会話には必ず割って入ってくるマリアが、今日は自分の席で静かにしている。
「なんか今日のマリア大人しいね?」
彼女の方を見ながらララにそう尋ねると、
「だ、だめ、クィアシーナ! マリア様、だよ!」
「え」
「マリア様は例え準貴族でも、爵位を持った家のご令嬢なんだから、敬称をつけないと」
そう言ってララは声を潜め、クィアシーナの耳元で続ける。
「……クィアシーナが休んでいる間に、第二王子殿下から生徒会の新体制が発表されたの。
それと同時に、学園の方針を百八十度変えるような通達も出て……」
一瞬、言葉を切り、周囲を気にするように視線を巡らせてから、さらに声を落とす。
「その一つが、貴族への敬称呼び。それから、平民はみだりに貴族へ関わってはいけないっていう学則が言い渡されたの」
クィアシーナは思わず息を呑んだ。
「平民が話しかけるときは、必ず事前に許可を得ること。
監視役は、各クラスの学級委員長と生徒会メンバー。
これを守らなかった生徒には、罰則が与えられるって……平民と貴族、両方にね」
(監視に、罰則……。そこまで生徒たちに強要してしまったのか)
「たまに巡回に来る、新しく副会長に就任したシュターグ家の姫――ガブリエラ様が、特に厳格で……」
ララは小さく肩をすくめる。
「今はみんな、罰則が怖くて。
うっかり話すことすらできない雰囲気になってるの」
「ちなみに、罰則がどんなものか、教えて貰ってもいい?」
「……反省文五枚」
「軽っ!!!」
あまりにも拍子抜けする内容に、クィアシーナは思わず席から崩れ落ちそうになる。
「それが、そんなことないの!」
ララは慌てたように身を乗り出した。
「ちょっとしたことでも、すぐ罰則にされちゃうから。
私もマリアも、この三日で百枚以上は提出したと思う!」
「ひゃ、百……?」
「紙は自腹だし、一日以内に提出しないと、さらに五枚追加で……」
ララは右手をさすりながら、涙目で続ける。
「私、今もう、軽く腱鞘炎みたいになってて……」
「あー……痛いよね、腱鞘炎……」
クィアシーナは遠い目になった。
なぜだろう。
やはりこの学園は、どこか平和だ。
「でも、反省文なんて書いて……誰が読むの?」
「各クラスの学級委員長だよ。うちの委員長も、休み時間は監視と反省文の査読で自由時間が取れないらしいし……ほんと、めちゃくちゃだよ」
「あ、うん……めちゃくちゃ、だね」
今回の件で、心底割を食っているのが学級委員長であることが、はっきりしてしまった。
「クィアシーナの机に、校内報と新聞部の新聞を入れておいたから、あとで見て。新聞のほうは、こっそりね。
新体制に反対した記事を大々的に載せたものだから、全部押収されたうえに、新聞部は今、活動停止処分を受けてるの」
「ありがとう。でも……活動停止って……」
「新聞部だけじゃなくて、ファンクラ部もだよ。第二王子殿下のあまりの態度の変わりように、メンバーが直接嘆願に行ったんだけど、一切聞く耳を持たないどころか……こっちも、活動停止を言い渡されちゃったの」
「そう、なんだ……」
ダンテ推しだったリファラたちは、さぞかしショックだっただろう。
ちらりと彼女たちのほうを見ると、意外にも、普段どおりの顔をしていた。
「リファラたち、もう立ち直ったんだ?」
前は挨拶を無視されたと泣いていたはずだが……。
「あー、あの子たち、推し変したんだよ。いまやリンスティー様の熱狂的ファン。クィアシーナ、ライバルだね」
「え゛っ!? お、推し変!?」
「クィアシーナ、もうリンスティー様に会った?
あれは、推し変になるのもわかるよ。
私はいまだにアレクシス様推しだけどね。彼、平民の私たちに挨拶こそしてくれなくなったんだけど、代わりにこっそりウインクしてくれるの!
もう、この荒んだ心の最大のオアシスだわー」
「なんか想像つくなぁ……」
女の子はみな平等。
彼はそのスタンスを、どんなことがあっても崩さないだろう。
「私、まだリンスティーさん……あ、リンスティー様の姿、見てないんだけど」
元々、挨拶当番に立っていないのであれば、姿を見かけるのは生徒会館くらいだ。
それなのに、みんなどうやって推しに会いに行っているのだろう。
「え、まだ見てないんだ。わかった、昼休みに一緒に見に行こう。こっそり、遠目にだけどね」
「う、うん。わかった」
どうやら、遠目で見られる定位置があるらしい。
そうこうしているうちに、本鈴が鳴った。
まだ不安は胸の奥で燻ったままだが、今は授業に集中することにした。
(ヤバい、三日の勉強の遅れは、私にとっては一ヶ月の遅れ……)
クィアシーナは、授業の内容がまったく頭に入ってこなかった。
最初は、先生が外国語を喋っているのかと思ったほどである。
休んでいる間にかなり単元が進んでおり、先生の話はちんぷんかんぷんだった。
ララとお喋りをする前に、ノートを写させてもらえばよかったと後悔する。
そして――
思い切って授業を捨て、教科書で机を覆って新聞をこっそりと読むことにした。
(どれどれ)
まずは校内報。
一枚ペラの紙に、非常にシンプルな内容が記載されている。
新任とリンスティーの役職の交代、そして――自分の退任について。
名前だけ載った体制変更の部分に対し、新任メンバーとなったガブリエラの自己紹介だけは詳細に記されていた。
予想通り、ばっちり家名も記されており、たおやかな笑みを浮かべる彼女の写真が添えられている。
自分のときは、適当に試験写真を貼られただけなのに、その扱いの落差にガッカリする。
(アレクシスさんもビクターさんも、ガブリエラさんの、ときはちゃんとしやがって!)
心の中で悪態をつきながら読み進めると、今朝ララから聞かされた通り、学則の追加と変更についても、事細かに記載されていた。
『学園における身分制度の厳格化』
――初めてこれを目にした者は、何を感じただろうか。
これを書くことになった書記の二人は、どんな気持ちだったのだろう。
どこか胸が締め付けられるような思いを抱えながら、クィアシーナは新聞の方へと目を移した。
そして、その見出しを目にした瞬間――
授業中であるにも関わらず、思わず声を上げそうになった。
「!!?」
『ダンテ第二王子殿下、御乱心か!?』
あまりにも率直なゴシップぶりに、押収されるのも無理はない、と納得してしまう。
『二週間の療養生活を経て復学されたダンテ第二王子殿下。しかし、彼はその療養とともに、信念の一部をどこかに置き忘れてきたかのようだ。
掲げる貴族主義の思想は、ジガルデ前会長の意思に酷似している。
平民は貴族を敬い、二者の間には決して越えてはいけない垣根がある――
まるで悪しき前代の猿真似をして、何かを企んでいるかのようにも思える。
しかし現時点で彼は、この心変わりを「身分差による諍いを正そうとした結果」と主張している。
学園の方針をねじ曲げ、監視と罰則で秩序を守ろうとするのが、彼なりの正義なのだ。
かつて平等に向けられていた笑顔は、今や『選ばれしもの=貴族』限定となってしまった。
今の彼が見据えているのは、破滅への道。
果たして、新体制による学園の未来は――どうなってしまうのだろうか。』
ここまで読み終え、クィアシーナは確信した。
――この文体は間違いなくラシャトのものだ。
よくぞここまで明けすけに記事を書けたものである。彼の報道魂には、素直に敬意を評したい。
この新聞は急遽発行された号外だったらしく、裏面には申し訳程度に新体制について触れた記事が添えられていた。
(私の退任については、それほど詳しく触れられていない。少しは配慮してくれたのかな)
クィアシーナは、二枚の新聞を机に仕舞い、ため息を漏らした。
たった三日でこれほどの変化。まだ生徒たちは混乱の中にあり、新制度には全く馴染めていない。
これが日常になる前に、何とか手を打たなければ。
さもなければ、三年の卒業後も今の状態がスタンダードになってしまうだろう。それに、どこかで不満が噴出し、誰かが余計な行動を起こす気がする。そうなれば、待っているのは、反省文どころでは済まない粛清だ。
(居心地が悪そう……)
転校もありかな、とふと考える。
でも、きっとこう思った生徒は他にもいるのだろうな、とクィアシーナは思った。
◇
昼休み。
ララと二人で、リンスティーの姿が見られるというおすすめスポットへ向かう。
マリアも一緒に行くかと目線を送ったが、彼女は静かに首を振り、席でご飯を広げ始めた。
「仕方ないね」とララと顔を見合わせ、二人で教室を後にする。
ここ数日、リンスティーは昼休みの鐘が鳴ると、生徒たちの悩み相談に乗るため、裏庭の階段ルートから生徒会へ向かうらしい。
この悩み相談は、クィアシーナが担当することのなかった庶務の仕事の一つだ。
教室棟の外階段から、裏庭までの道のりを歩く彼女の姿を眺めることができるという。
「ここだよ。二階に移動しよう」
ララに案内され、二階の手すりから身を乗り出し、外を眺める。クィアシーナは、これまで裏庭を頻繁に行き来していたにも関わらず、こんな場所から裏庭全体を一望できることを初めて知った。
しばらく外を眺めていると、女子生徒たちの囁き声があちこちから聞こえてきた。階下や階上、さらには裏庭の端にも人の列ができ、ざわつきが広がっていく。
「え、なに、ここめっちゃ人いない?」
「みんなリンスティー様を見たくてここに集まるんだよ。昼休みの悩み相談は、今やプレミアムチケットみたいなものだし!」
「プレミアムチケット……」
たった三日――本当に、学園は色々とガラリと変わってしまったらしい。
というか、私やマグノリアンさんのときは、全然悩み相談の依頼なんて来なかったのに、と、つい対抗心が芽生えてしまう。
(まあ、面倒見のいいお姉様に相談に乗ってもらえるなら、落選覚悟で相談箱に入れに行く気持ちもわかるっちゃわかるけど)
クィアシーナが遠い目をどこともなく向けていると、ララがそっと服を引っ張った。
「クィアシーナ、あそこ、空いてる! 埋まらないうちに下に移動しよう。やっぱり近くで見れたほうが嬉しいでしょ?」
「え、いや、別に……」
一目見れれば十分だと思っていたクィアシーナだったが、ララの力強い引きに逆らえず、結局階下へ降りることになってしまった。
(久しぶりのリンスティーさん、大丈夫かな……)
ダンテ不在の期間、会長職を代理して疲れ果てていたリンスティー。
さらに今回の騒動で、きっと体力は限界に近いはずだと、クィアシーナは心配せずにはいられなかった。
そこへ、どこからともなく「きゃー」という黄色い声がいくつも聞こえてきた。
「クィアシーナ、リンスティー様がやってきたみたいだよ」
クィアシーナの位置からは姿は見えないが、彼が通るたび、出待ちしていた女子生徒たちのささやきや挨拶の声が風に混ざって届く。
今の学則であれば、平民は手を出せないはずだ。
リンスティーから声をかけない限り、挨拶の声は聞こえてくるはずもない。なのに。
「やあ、こんにちは」
先週の休暇中に聞いたあのバリトンボイスが、遠くからクィアシーナの耳に届く。
その声は柔らかく、分け隔てなく、全員に挨拶を返しているのが、距離を超えてもはっきりとわかった。
(え、なんで……?)
慌てて人の列から身を乗り出し、無理やり顔を出して向こう側を覗き込む。
そこにいたのは――
いつものリンスティーお姉様ではなかった。
男子生徒の制服に身を包み、きらきらとした笑顔を浮かべ、通る生徒たちに手を振りながら人のアーチを進む姿。
「こんにちは。今日もみんな元気だね」
彼の笑顔は柔らかく、仕草のひとつひとつが――
まるでかつてのダンテそのものだった。
(なんで……)
クィアシーナは今、自分の感情がわからなかった。
混乱と戸惑い、憤りと悲しさ――どれがどれなのか、自分でも整理がつかない。
リンスティーとしての個性を殺したその姿に、思わず口の中を噛みしめた。
「……クィアシーナ、もうくるよ。ほら、手を振らなきゃ」
ララに小さな声で促されるが、クィアシーナは手を振るどころか、前を向くことさえできなかった。
「クィアシーナ、どうしちゃったの?」
ララが急かすように声をかけると、「あ……」という低い声とともに、目の前に気配が近づき、そこでぴたりと止まった。
「クィアシーナ。もう学校に来てたんだね……」
はっと顔を上げると、目の前に悲しそうな微笑を浮かべたリンスティーが立っていた。
休暇中に見た、あの制服姿で。
けれどクィアシーナは、声をかけることができない。
なぜなら――発言の許可を得ていないからだ。
見えない、決して越えられない大きな壁が、二人の間に立ちはだかっているように感じられた。
(リンスティーさんを、こんな形で見たくなんてなかった)
いつものリンスティーお姉様なら、
「クィアシーナ、もう学校に来てたのね」と、労るように声をかけてくれただろう。
お姉様の格好をやめた、素の彼なら、
「クィアシーナ、もう来てたのか」と、少し庶民寄りの雑な言い方で。
それなのに――
今の、聞き慣れないダンテのような言い回しに、なぜだか無性に腹が立った。
どうしようもない気持ちのまま、肯定の意味を込めて、クィアシーナはさっと頭を下げた。




