58. 徐々に忍び寄る異変
「ダンテ会長、保健室に移動しましょう。早くきちんとした処置を受けないと、痕が残ってしまいます」
「……」
クィアシーナが懇願しても、ダンテは口を噤んだままだった。
先ほどから、明らかに様子がおかしい。
「あの、大丈夫ですか? さっきから様子が変ですよ?」
こちらを見ようともしないダンテに、クィアシーナは視線を合わせようと、下から顔を覗き込む。
すると――
「あ……。
なんだ、クィアシーナ、君か」
まるで今になって気づいたかのように、ダンテが言った。
ようやく目の焦点が合ったものの、クィアシーナの胸のざわつきは消えない。
「しっかりしてください。ほら、保健室に行きますよ?
私は階段から追いかけますので、ダンテ会長は転移式で保健室へ向かってください。いいですね?」
しっかりと視線を合わせ、念を押す。
――けれども。
「保健室って……どうしたの?
クィアシーナ、君、頭でも痛いの?」
ダンテは困惑した表情で、そう問いかけてきた。
「え……」
(ダンテ会長は、自分が怪我をしていることに気づいていないの?)
「ダンテ会長」
クィアシーナは、自分自身の気持ちを落ち着かせるように、ダンテの名を呼んだ。
「あなたはさっき、指輪の浄化で掌に火傷を負っています。このままだと、ばい菌が入って感染症になる可能性もありますし、何より痛みで生活に支障が出ます。速やかに保健室に行って、手当てをしてもらう必要があります」
この数分間、彼の様子は、記憶が混乱しているように見えた。
クィアシーナは簡潔に経緯を説明し、治療の必要性を強く訴える。
だがダンテは、その言葉に首を傾げ、クィアシーナへ向かって自分の手を差し出してみせた。
クィアシーナは、その掌を見て、驚きに目を見開く。
「掌の怪我なんて、どこにあるんだい?」
「……そんな」
(信じられない)
ダンテの掌には、先ほどまであったはずの痛々しい火傷の痕が、きれいさっぱり消えていた。
治癒した、というより――最初からそんな怪我など存在しなかったかのように。
「ダンテ会長、あの……ここに来てから今まで、何をしていたか覚えていますか?」
「え? 何って、指輪の浄化だよね?」
指輪の浄化をしていた記憶はあるらしく、クィアシーナはひとまず安堵する。
しかし――
「でも、おかしいな……。
さっきまで応接室にいたはずなのに、どうして給湯室なんかにいるんだろう?」
ダンテは顎に手を当て、心底不思議そうな表情を浮かべた。
(嘘でしょ……浄化した“あとの”記憶が、消えてるなんて)
クィアシーナの顔から、さっと血の気が引く。
震えそうになる声を必死に抑えながら、彼女は問いかけた。
「あの、ダンテ会長。
以前、私に指輪を貸してくださったとき、スペアがあるとおっしゃっていましたよね。
それって……今、身につけていらっしゃいますか?」
(お願い。嫌な予感が当たりませんように。
――付けていると言って)
そう祈ったものの、
「いや、つけてないよ。そもそも、本当はあれにスペアなんてないからね」
そう告げられ、クィアシーナは愕然とした。
――ダンテは、何らかの魔法の影響を受けている。
浄化の際、ダンテは前回と同じように反撃しようとしたが、どういう経緯かはわからないものの、失敗した。
その結果、記憶に混乱をきたしている。
(まずい。一国の王子の一大事だ)
記憶が混乱しているだけなら、まだいい。
だが、先ほどの様子を見る限り、本人が気づいていないだけで、ほかにも何らかの影響が出ているはずだった。
「あの、お願いがあるんですが」
クィアシーナは深く息を吸い、頭を落ち着かせてからダンテに切り出す。
「なんだい?」
「伝達魔法で、リンスティーさんを今すぐここに呼んでもらえませんか?
それと、ほかに魔法に長けた方がいるなら、その人も」
「いいけど……急にどうしたの?」
「説明は応援が来てからします。
とりあえず、ちゃっちゃとお願いします!」
クィアシーナの余裕なく焦る様子に、ダンテは訝し気な表情をする。
けれど、すぐに伝達魔法で言われたとおり、生徒会メンバーへと招集をかけてくれた。
◇
「うーん。見たところ、普通ですね」
「うん、私の目にも、いつものダンテにしか見えないんだけど……」
生徒会館にやってきたのは、リンスティーとドゥランの二人だった。
クィアシーナは、この二人がダンテに次ぐ魔力の持ち主であることを、今日この場で初めて知った。
「私にも、何がなんだかわからないんだよね。
指輪はちゃんと浄化されているんだろう?」
ダンテはそう言って、クィアシーナの胸元にぶら下がった指輪を見る。
確かに、あのあと執務室に戻って指輪を拾い上げたとき、浄化は成功していたのだろう。
それは元の銀色の輝きを、完全に取り戻していた。
「あの……ダンテ会長の掌、本当に何も起きていないんですか?
私には判断できませんが、何か魔力の痕跡が残っていたりしませんか?」
クィアシーナは念を押すように、三人へ問いかける。
「ドゥラン、あんたが一番こういうの得意でしょ。どう?
何か見える?」
リンスティーに促され、ドゥランはダンテの手を取り、じっとまじまじと観察した。
「うわっ!」
今までにないほど切迫した声が、ドゥランの口から漏れた。
同時に、彼は反射的にダンテの手を払いのける。
「どうしたんだい、ドゥラン」
突然の行動に、ダンテも驚いて声をかけた。
「……私の手には負えません。
すぐに城へ戻って、宮廷魔術師に診てもらってください。それか、呪術師。……あー、こわ」
「じゅ、呪術師、ですか?」
聞き慣れない言葉に、クィアシーナは思わず問い返す。
「ええ。呪いの一種ですね。恐ろしい……。おそらく精神系なので命に別状はないと思いますが、呪いが蠢いていて、正直かなり気持ち悪いです。
ダンテさんは平気なんですか? そんなものを掌に飼っていて」
「掌に飼う……」
クィアシーナは、その表現に背筋がぞわりとした。
「それが、残念なことに、まったく何も感じないんだよね」
そう言って肩をすくめるダンテに、リンスティーが眉を顰める。
「あんたが何も感じないって、よっぽどのことじゃない?
他の人には見えない魔力の色が見えるくらいなのに……」
「確かに……ちょっと変だね」
リンスティーの指摘を受けて、ダンテもようやく、自身の内にある違和感を自覚し始めたようだった。
そんなダンテに、ドゥランは容赦なく帰宅を促す。
「ほら、こんなところで悩んでいないで、ダンテさんはとっとと帰ってください。
即撤退です。むしろリンスティーさん、城から使いを呼んでください。
生きた呪いが他に感染したら、堪ったものではありません」
「ドゥラン、君、なかなか言うね……」
無表情のまましっしと追い払うような仕草をするドゥランに、ダンテは呆れた視線を向け、苦笑を漏らす。
「そうね。すぐに使いを呼ぶわ。ダンテはここにいなさい。
使いを呼んだあと、私があんたの荷物をまとめてくるから」
「みんな、ありがとう。迷惑をかけてしまったね」
「……それを言うなら、わたしのほうが、です」
これまで口を閉ざしていたクィアシーナが、ダンテをまっすぐ見て言った。
「巻き込んでしまって、すいませんでした……」
そう言って、深く頭を下げる。
朝、自分が魔法の気配に気づいていれば、こんな事態にはならなかったはずだ。
後悔だけが、頭の中を占めていく。
「謝らなくていいよ。巻き込んだのは、むしろこっちだ」
ダンテはそう言ってから、腕を組み、低く唸る。
「おそらくだけど……相手は、これが狙いだったんじゃないかな」
「え⋯⋯」
彼は少し考え込むようにして、続けた。
「ブレンダ・マクレンに魔法を返したことで、君には魔法が効かないと気づいた。
それに、私の浄化で跳ね返されることもね」
一拍置いて、ダンテは淡々と言い切る。
「――裏を返せば、今の私には、魔法が効く。
王家の指輪を、身につけていないから」
(そんな……)
はっと、クィアシーナは気づいた。
犯人の本命は、ダンテだ。
アリーチェや自分は、彼の弱点に過ぎない。
完全無欠だった彼に、もし綻びが生じたのだとしたら――
狙われるのは、間違いなく本人だ。
「ゆ、指輪……! 今すぐお返しします!
これで御身の安全を、お守りください!!!」
クィアシーナは叫ぶように言うと、指輪を掴み、ダンテの掌に押し込む。
だがダンテは、静かに首を横に振って、それを断った。
「ううん。これは、まだ君が持っていて。
契約が終わるまで、お守り代わりにしてていいから」
そして、少しだけ肩をすくめる。
「それに、私はこれから城で魔法による治療を受けることになる。
どうせ、すぐには使えないだろうしね」
「ダンテ会長……」
指輪を、そっと握り返される。
その優しい手つきと微笑みに、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「もし浄化が必要になったら、学園長に相談してみて。
きっと、力になってくれるはずだ」
「……はい」
なぜだろう。
しばらく、ダンテとは会えなくなる――そんな予感が、胸をよぎった。
――そして。
グゥゥ……。
「……」
「……」
「……」
「……」
クィアシーナのお腹の音が、静まり返った執務室に、盛大に響き渡った。
「くぅ、こんなときにぃ~っ!」
昼食を食べ損ねていたクィアシーナの腹は、正直だ。
そろそろ限界だと言わんばかりに、音を鳴らして主張してくる。
「ははっ! そうだよね、お腹空いてるよね」
ダンテは口を開け、屈託なく笑った。
まるで、重く沈んでいた空気を払拭するかのように。
「緊張感ないわねぇ……。
ここはいいから、カフェテリアにでも行って食べてきたら?」
リンスティーが呆れたように言い、クィアシーナを促す。
「いえ、私もダンテ会長をお見送りしたいので……
あ! そうだ! 私、非常食持ってます!」
クィアシーナは、ポケットに忍ばせていたクッキーの存在を思い出した。
昨日のお礼にと、マグノリアンのために焼いた『可もなく不可もなくクッキー』の余りである。
ふんふんと上機嫌に袋を開けるクィアシーナに、三人は「どれどれ」と言わんばかりに、揃って覗き込んだ。
「皆さんもいります? 私の、可もなく不可もなくのクッキー。無難に美味しいですよ」
クィアシーナは、良ければ、と声をかける。
三人とも、王子や良家の坊ちゃんたちだ。
こんな庶民の作った怪しいクッキーは遠慮するだろうと思って、念のため声をかけただけだったのだが、みんな躊躇うことなく手を伸ばしてきた。
「これは無難に美味しいですね」
ドゥランが一口食べて感想を述べ、もう一枚に手を伸ばす。
「あら、本当ね。癖のない素朴な味があなたらしいわ」
リンスティーも一枚食べたあと、袋からごそっと大量にクッキーを取っていく。
「私もちょうどお腹が減ってたから、ちょうどよかったよ。ありがとう、クィアシーナ」
微笑みながら、ちゃっかり二枚目を頂くダンテ。
(みんな、遠慮というものを知らないのか……)
四人でクィアシーナの非常食を食べる。
その様子は、ただの仲良しの昼休みの光景だ。このときだけは、不穏な空気など頭からすべて消え去っていた。
だから、
「それじゃあ、またね。なるべく早く戻れるようにするから、それまで生徒会を……学園を頼んだよ」
そう言って去っていったダンテの柔らかな笑顔が、しばらく見られなくなるなんて。
このときは誰も、想像すらしていなかった。




