43. ビクターのお迎え
「おはよー、シーナ! 晴れてて良かったねー! さあ学園に出発しよっ」
「……」
朝、アパートから出た瞬間、この一声である。
思わず言葉を失ってしまった自分は何も悪くない。
今日は挨拶当番ではない。
そして、登下校時の送り迎えも先週で終わったとみんなの前で確認もとった。
では、なぜ、彼はこうして自分のことを迎えに来てるんだろうか?
「おはようございます……ビクターさん」
「あれ、なんかテンション低いね? 低血圧?」
ビクターは猫のような金の瞳を向けて、クィアシーナの顔を覗き込んでくる。
「いや、そんなことはないんですが……というか、なんでここにいるんですか。
もう登下校の送り迎えは必要ないんですよ?」
「?」
ビクターは一瞬きょとんとしたあと、
「送り迎えの必要がなくなったら、一緒に登校しちゃダメっていうこともないよね?」
と、ごく当然のことのように言った。
(この人、何を当たり前の前提にしてるんだろう)
「えーと、はい、そうですね……そうなんですが……」
彼の言う理屈は合っている。合ってはいるのだが、
どうしてそこに行き着くのかがまったく理解できない。
「よし、じゃあ早く行こう。向こうに馬車を停めてるから」
「え、馬車!?」
マグノリアンが向かおうとしている先に、大層な家紋(しかしクィアシーナは詳しくない)がついた立派な馬車が停まっているのが見えた。
(マズイ。今は先週と違って、普通の登校時間でしょ。ビクターさんの馬車に乗り合いしてきたなんて目撃されたら、あの互いにけん制し合ってたファンの子たちに袋叩きにあいそう)
乗せていってもらうのは有難いのだが、その後のことを考えると非常に憂鬱である。
「はい、お手をどうぞ?」
鬱々と考え込んでいるうちに、いつの間にかクィアシーナはビクターのエスコートを受け、馬車に乗り込んでいた。
豪華な内装に違わず、座席は驚くほど座り心地がいい。
(まあいいや。後のことは着いてから考えよう)
クィアシーナは、その素晴らしい乗り心地に身を委ね、さっきまでの躊躇いはどこへやら、リラックスして学校へ向かうことにした。
ビクターがクィアシーナの向かいに腰を下ろすと、
ほどなくして馬車はゆっくりと走り出す。
それと同時に、彼は改まった様子で「実はね」と口を開いた。
「今日迎えに来た本当の理由は、アリーチェさんの様子を聞きたかったからなんだ」
「!」
今日の放課後、生徒会館を訪れたときに、みんなには元気そうだったと伝えるつもりではいた。
学園を辞めることについては、マグノリアンとも口裏を合わせ、伏せておこうと決めていたのだ。
だが、こうして一対一で話を聞かれるとは思ってもおらず、クィアシーナは思わず気を引き締める。
ボロが出ないように――ほんのわずかだが、意識を切り替えた。
「元気にしてた?」
様子を探るように、彼が問いかけてくる。
「あ、はい。まだ足は治っていなくて、杖をついて歩いていましたけど……その杖を投げてくるくらいには元気でした」
本人には少し申し訳ないが、元気であることを伝えるには、あの衝撃的な癇癪エピソードが一番手っ取り早いと思った。
「ははは!!」
今の話を聞いて、ビクターが腹を抱えて笑い出す。
「あの人らしいや! それで、その杖は誰かに命中したの?」
「いいえ。二人とも間一髪のところで避けたので、無事でした。
……初めてお会いしましたけど、なかなかパワフルな人ですよね」
「フフ、それは良かった。
そうだね、彼女は見た目とのギャップが激しい人だよねー」
まだ笑いの余韻が残っているのか、ビクターは肩を小さく震わせている。
そして、そのままの調子でクィアシーナに問いかけてきた。
「それで、復学の時期については何か聞いてる?」
ふいに聞かれて、一瞬言葉に詰まった。
(あ、マズった)
そんなクィアシーナの様子から、何かを察したのだろう。
ビクターは、ほんの一瞬だけ視線を伏せ、少し寂しげな表情を浮かべた。
「……もう、戻ってこないんだ?」
「……」
ここは否定しなくてはいけないところだと、頭ではわかっていた。
けれども、ビクターの確信めいた問いかけに、クィアシーナは何の言葉も返すことができなかった。
「なんとなくさ、予感はしてたんだー。
捻挫くらいなら、もう学校に戻ってきてもいいんじゃないかって」
ビクターは、どこか遠くを見るような目で続ける。
「あの人、どんなことがあっても、絶対に毎日学校に来てたから」
クィアシーナが想像するに、アリーチェは囮役として、毎日自分の役割を全うしていたのだろう。
それこそ、どんなに悲惨な嫌がらせを受けても。
わざと周囲を煽るように振る舞い、
悪意のすべてを――自分ひとりに集めるために。
「……私が彼女にお会いして感じた印象は、身体的にパワフルなだけでなく、“芯が強い人”だということです。
私も、彼女と一緒に庶務の仕事をしてみたかった、です」
ビクターの問いへの答えとして、クィアシーナは敢えて明言を避け、自分の想いだけを口にした。
察しのいいビクターのことだ。
きっと、もう答えはわかっているだろう。
クィアシーナの返答に、彼はわざとらしいほど明るい声で言った。
「それは本当に見てみたかったよ! あの人、本当に仕事しないからさ。マグノリアンとシーナの二人が“働いてください”って言って、逆に仕事を増やされて困ってる姿が、簡単に想像できるなぁ」
「……それは、私もちょっと想像できます」
クィアシーナが小さく笑って返すと、ビクターもそれにつられるように、軽く肩をすくめた。
「でも、アリーチェさん、お茶請けの買い出しだけは譲らなかったんだよね。これは私の仕事だからーって言って。
それで毎回予算オーバーのものばっか買ってきてさ。そのたびにドゥランに嫌味を言われて、ルーベントさんに泣きついて他の予算を削って、なぜかマグノリアンがみんなに謝って……
ほんとめちゃくちゃだったなぁ」
ビクターは、どこか懐かしむような表情で語り出した。
その声音から、きっと本当に楽しかった記憶なのだろうと想像できる。
「めちゃくちゃだったし、正直、最初の頃は『なんでこの人が生徒会メンバーに選ばれたんだろう』って、不思議で仕方なかったよ。
仕事はしないし、トラブルは次から次へと持ち込んでくるしさ」
そう言って、ビクターは小さく笑う。
「ダンテさんが、毛色の違う子を面白がって、気まぐれで入れたのかな、なんて思ったりもした。
――でもね、その考えが間違いだって、すぐに気づいたんだ」
そこで一度、言葉を切った。
「前会長時代の僕ら三人は……あの人のおかげで、安心して学校に通えてたんだ」
「……!」
クィアシーナは息を飲み、ビクターの話の続きを待った。
「僕らが一年生の頃、前会長が罷免されて、再選挙でダンテさんが新しい会長になった。
罷免に動いていた僕、マグノリアン、ドゥランの三人は、ダンテさんから『生徒会に残ってほしい』と言われて、そのまま続投することになったんだけど……。
そのときに受けた周囲からの嫌がらせは、前回生徒会メンバーに選ばれたときとは比べものにならなかった。
僕ら三人はそれぞれに対処してはいたけれど、あの頃はさすがの僕でも、少し心が折れかけたかな……。
そんなときだよ。
アリーチェさんが、目立った行動をとるようになったのは。
まるで周囲を煽るかのようにね」
クィアシーナは、アリーチェから
「旧生徒会のメンバー三人が落ち着くまで、自分が一身に周囲の嫉妬を引き受ける」
という契約を、ダンテと交わしたのだと聞いていた。
彼女はその契約に従い、与えられた役割を徹頭徹尾、果たしていたはずだ。
だが――まさか、そのことにビクターが気づいていたとは、思ってもみなかっただろう。
「そんなふうに、僕らを守るために無理をする必要はないって、本人にも言ったんだけどね。でも、うまくはぐらかされちゃってさ。
同じ書記のアレクシスさんにも相談したんだけど、
『彼女がやりたいようにさせてあげなさい。本当に困ったときに、そっと手を差し伸べてあげればいい』
って言われちゃった。
……結局、みんなわかってたんだよね。
アリーチェさんのあの振る舞いが、本当は何のためだったのかってことを」
「みなさんは彼女に守られて、同時に――彼女のことも見守っていたんですね……」
クィアシーナが、ぽつりとこぼす。
「そうだね。まあ、迷惑はかなり被ってたけどね! 主にマグノリアンが」
ビクターはハハッと軽く笑った。
そして、ふっと調子を変える。
「だから、シーナ。君も、無理しないでね?」
「え……?」
「あ、もう学園前だ。シーナの家から学園までって、めちゃくちゃ近いんだね」
クィアシーナは、無意識のうちに胸元を押さえていた。
一瞬――ビクターに、自分が“囮”として振る舞っていることを、見抜かれたのではないかと思ったのだ。
しかし、ビクターに問い返そうとしたときには、すでに馬車は停留所へと滑り込んでいた。
話はそこで一旦途切れ、二人は並んで降車の準備を始める。
(……そうだ。今は話をしている場合じゃない。
馬車を降りてからの立ち回りを、真剣に考えないと。
彼のファンから余計な嫉妬は買いたくない)
「ビクターさん」
クィアシーナは、意を決したように――いつになく真面目な声音で、彼の名を呼んだ。
「ん? なに?」
「ここまで送っていただき、ありがとうございました。
ですが私はこれから、“空気”になります。
馬車を降りてからの私は、いないものとして扱ってください」
「んん? いきなりどうしたっていうのさ」
訝しげに首を傾げながら、ビクターは先に馬車を降りた。
そして当然のようにクィアシーナの手を取ろうと、後ろを振り返る。
――しかし、そこに彼女の姿はなかった。
「……え、シーナ?」
周囲を見回し、名を呼ぶ。
けれど、返事はない。
どこにもいない。まるで――最初から、そこにいなかったかのように。
不可解さを抱えたまま立ち尽くしていると、ビクターの登校を待っていた生徒たちが、わらわらと集まってきた。
「ビクターさん! おはようございます!」
「今日は僕が鞄をお持ちしますよ」
「おはよー。……今日は連れがいるから、そういうのはいいんだけど……」
ビクターは改めてクィアシーナの姿を探したが、やはりどこにも見当たらなかった。
「あれぇ……なんで?」
周囲の者たちもまた、一人で馬車から降りてきたビクターの言う“連れ”が誰なのかわからず、揃って首を傾げる。
登校時間のその一角だけ、まるで取り残されたかのように、皆が「?」に包まれていた。




