40. 休日のひととき
(ベッドから出られない……)
昨日まで、ずっと早起きの毎日だった。
今日は、まったく予定のない休日。
溜まった家事に、授業の復習。
それに、護身アイテムの手入れもしなくてはならない。
頭ではわかっている。
わかってはいるのだが――。
「お腹すいた……でも何も作りたくない……」
クィアシーナは、基本的な生活力は身に付いていた。
両親は共働きで、家のことはほとんど彼女が担ってきたのだ。
けれど、生活力があることと、やる気があるかどうかは、まったくの別問題である。
(あ!そうだ、昨日貰ったパンがあるじゃん!)
昨日、帰りにマグノリアンがパンを買って帰ると店に立ち寄ったのだが、そのときにクィアシーナの分も買って持たせてくれたのだ。
持つべきものは優しい先輩である。
嬉々とベッドから身体を起こし、机の上に置きっぱなしだった紙袋を開ける。そして、はたと気付いた。
「ジャムもバターもない!」
パンのお供となるものが何もない。
マグノリアンがくれたのはシンプルなベーグルの詰め合わせである。
どれも、少しだけ焼いてクリームチーズやバターを塗って食べたら間違いなく最高に美味しくなるに違いない。
(く……無いものは仕方がない、そのまま食べるか……)
美味しさよりもお腹を満たすことを優先したクィアシーナだが、一口食べて、やはり物足りなさを感じる。
美味しいはずなのに、口の中の水分を持っていかれるだけのパンに、勿体ないことをしているという気持ちが募る。
口を潤わそうと備え付けの保冷庫を覗くも、中にはミルクすらなかった。
「おわってる……」
昨日の帰りに買い出しに行こうとして、結局疲れて家に帰ってきてしまったのだ。面倒くさがった結果、今こうして後悔する羽目になっていた。
(昨日のうちに行ってれば、今日は家から一歩も出ずに済んだのに……)
クィアシーナは、自分の家の食糧事情に絶望した。
この前、リンスティーが置いていってくれた野菜はまだたくさん残っている。だが、今クィアシーナが求めているのは、断じてそれではなかった。
机に置かれた時計に目をやると、時刻は九時。
商店街の店も、そろそろ開き始めている頃だろう。
(くそー! 午前中はしゃあなしで買い物だ! 面倒すぎる!
午後は絶対に家に引き籠もって、一歩も外に出ない!)
クィアシーナはそう固く決意し、自分を奮い立たせるようにして、出かける準備を始めた。
二日ぶりに訪れた商店街は、休日ということもあって、ほどよい賑わいを見せていた。
人々は朝のうちに買い物を済ませ、午後はそれぞれ別の予定に向かうのだろう。
クィアシーナは、以前リンスティーと立ち寄った八百屋や肉屋を通り過ぎ、乳製品を扱う店へと足を運んだ。
店内に入ると、意外にも奥行きがあり、何人かの客が商品を手に取って眺めている。
(かわいいお店……)
初めて入る店だが、商店街に並ぶ生活感あふれる店々とは雰囲気が違い、女子ウケしそうな、おしゃれな陳列がされていた。
クィアシーナは、まず蜂蜜やジャムが並ぶ棚へと向かう。
色とりどりのジャムを前にして、思わず視線があちこちへと泳いだ。
(檸檬ジャム? 葡萄ミルクバター? なにこの美味しそうなラインナップ!)
全てのジャムの前には試食するための棒が置かれており、味を確かめることが出来た。隣には小さなクラッカーも置かれている。
クィアシーナはクラッカーを一つ手に取り、檸檬ジャムの試食をすることにした。
(うっま! 酸っぱ甘い! でも、あのベーグルには、クリームチーズに合うような、もっと甘いやつのほうがいいかな)
棚に視線を戻すと、果肉がごろごろ入ったブルーベリーの瓶が目に留まる。
どうやらこれも試食できるらしい。
再びクラッカーに手を伸ばした、そのとき――
同じく試食をしようとしていた客と、手がぶつかった。
「す、すいません」
試食に夢中で、すぐ近くに人がいることにまったく気づいていなかった。
慌てて頭を下げ、別の棚へ移動しようとしたところ、
「クィアシーナ?」
予想外にも、自分の名前を呼ばれてしまった。
顔を上げ、声をかけてきた人物を真正面から捉える。
「?」
――しかし、目の前の人物にまったく見覚えはなかった。
その人物はシャツにズボンというラフな格好の男性で、帽子を目深に被っているため目元がよく見えない。
髪色も帽子に隠れて判別できなかった。
ただ、その背はクィアシーナの頭二つ分ほど高く、細身ながらも筋肉質であることが服の上からでもわかる。
辛うじて見える鼻筋や口元は、とても整っていた。
(誰だ?)
学園の関係者だっただろうかと記憶を探るが、思い当たる人物はいない。
不思議そうに見つめるクィアシーナに、その人物が口を開いた。
「買い物? すんごい偶然……。あ、俺さっきそこの苺ジャム試したんだけど、めっちゃうまかった。クィアシーナはどれか試した?」
なんとも馴れ馴れしい口調で話しかけてくるが、その声にも聞き覚えがあるような、ないような――そんな曖昧な感覚があった。
(Dクラスの子? いや、こんなに背の高い人、うちのクラスにはいなかったはず)
話しかけられているにもかかわらず反応を返さないクィアシーナに、男は少し不思議そうな顔をして、ぐっと距離を詰めて覗き込んできた。
「クィアシーナ?」
目の前の男と、はっきりと目が合う。
そして、その薄い水色の、ややつり目がちな鋭い瞳を見て――ようやく、この人物が誰なのか理解した。
「リンスティーさん!?」
「え、嘘だろ。気付いてなかったのかよ」
絶対にいるはずのない場所で、
いつもと違う格好で、
いつもと違う声と口調で話しかけられたのだ。
気付かないほうがむしろ自然だろう。
……というか、目だけで本人だと分かった自分を、褒めてやりたいくらいである。
「え、休日にこんなとこで何してるんですか?」
「何って、買い物だよ。この前一緒に来たとき、もっと奥の方の店も見てみたいと思って」
「いや、買い物って……」
特別寮に住むような、筋金入りのお坊っちゃんである。
しかもダンテのお付きとして、王城にまで出入りする身分の。
商店街の人たちには悪いが、ここはそんな人が一人で来るような場所では決してない。
彼の場合、休日はやんごとなき人々とサロンで優雅に談笑――
そんな過ごし方をしているものだと、勝手に思い込んでいた。
完全に偏見だが。
「朝からルーベントの手合わせに付き合わされててさ。ようやく抜け出せたんだ。腹が減ってたから隣のパン屋で適当に買って、それでこっちの店でジャムを選んでた」
「お、お疲れ様です……」
よく見れば片手に大きな紙袋をぶら下げており、バケットやいくつかのパンが入っているのが見えた。
寮食はどうした、寮食は、とツッコミを入れたかったが、なんとか我慢した。
「で、クィアシーナは? 朝から買い物?」
「う、」
リンスティーに問われ、思わず変な声が漏れた。
先ほどから、彼はやたらとクィアシーナの名前を呼ぶ。
お嬢様リンスティーのときも、名前で呼ばれたことはあった。
けれど、どちらかといえば「あなた」と呼ばれることのほうが多かったのだ。
だからこうして立て続けに名前を呼ばれると、胸の奥が落ち着かず、そわそわしてしまう。
「えと……はい。昨日ベーグルをマグノリアンさんからたくさん頂いたんですが、何も挟むようなものがなくて、買い出しにきてたんです」
「ふーん?」
そう言うと、リンスティーはクィアシーナを上から下まで眺め、ぽつりと呟いた。
「私服、かわいいな」
「!?」
突然、何を言い出すのだ、この人は。
クィアシーナが着ているのは、なんの変哲もないワンピースだ。
各国を転々とする生活が長かった彼女は、その土地ごとの流行に左右されない、どこでも無難に受け入れられる――言ってしまえば“普通オブ普通”の服を好んで選んできた。
派手さも個性もない代わりに、浮くこともない。
自分の平凡な顔立ちにも、きちんと馴染んでいる。それだけだ。
(……いや、でも、いつものリンスティーさんが、「あら、かわいいわね」と言っている場面を想像したら、普段の彼とやってること自体はそう変わらないのか)
不意打ちの言葉にドキドキしてしまったが、急速に冷静さを取り戻した。
「ありがとうございます。あの、リンスティーさんはなんで帽子を被って変装みたいにしてるんですか?」
淡々とお礼を言うと、クィアシーナは、リンスティーに顔を隠してる理由を尋ねてみた。
「ああ、変装っていうか、俺の髪色って目立つだろ?だから帽子被って隠してるってだけ。無駄に長いから帽子ん中に入れんのも一苦労だよ。
本当はうっとおしいから髪もバッサリ切りたいんだけどな。ダンテの野郎が切んなってうっせぇから面倒だけど伸ばしてんだ」
「確かに、リンスティーさんの髪は目立ちますね……」
彼の白銀の髪はここらでは大変珍しい。
しかも艶があってサラサラだ。切ってしまうなんて勿体ない。ダンテかどういう理由で切るなと言ってるのかはわからないが、何にせよよく止めてくれた。
(それにしても、この人、普段はこんなに庶民寄りな喋り方するんだ)
いつものお嬢様口調とは雲泥の差である。男版もダンテくらい丁寧な物言いをしたら、もっとお貴族様のお忍び感が出そうだが、今のリンスティーはこの場に完全に馴染んでいた。
「それで、試食しようとしてたみたいだけど、どれか気になったのはあった?」
「あ、はい。いまそこのブルーベリーのジャムを試そうとしてました」
「これか」
リンスティーは試食用のクラッカーを手に取り、ブルーベリーのジャムを乗せると、「はい」と言ってクィアシーナに差し出した。
「あ、ありがとうございます……」
あまりにも自然な動作だったため、クィアシーナは何の抵抗もなく、それを受け取ってしまった。そのまま、ありがたく口へと運ぶ。
(……うん、美味しい。やっぱりベーグルには、こっちのジャムのほうが合うかも)
「私、これ買います。あっちの乳製品コーナーにあるクリームチーズと合わせたら多分、間違いないです」
「あー確かにその組み合わせは間違いなさそう。他にも何か買う?」
「あとは普通のチーズとバターとミルクを買うつもりです。全部切らしちゃってるんですよね」
「了解」
リンスティーはブルーベリーとさっき試食したと言ってた苺のジャムの瓶を棚から取り、買い物用のカゴへと入れた。
そのまま迷いなく乳製品の棚へ向かい、チーズとバター、それからミルクの瓶も同じくカゴに放り込むと、手早く会計を済ませてしまう。
あまりに淀みのない動きに、クィアシーナは思わず首を傾げた。
「リンスティーさんも、私と同じものを買おうとしてたんですか?」
「まさか」
即答だった。
「え、じゃあ、なんで」
「ご相伴に預かろうかと思って」
「ん゛!?」
何か聞き捨てならない言葉が聞こえた。顔を引き攣らせるクィアシーナに対し、リンスティーの口元は弧を描いている。
「えぇと、どういう意味でしょうか?」
「俺もその間違いない組み合わせをマグノリアンから貰ったベーグルで試してみたい。クィアシーナも、俺の買ったパンを食べていいから」
「えぇー……」
この流れは、また自分の家に寄っていくということである。
今日は掃除もしていない。洗濯途中の服もそのまま。ベッドの上には脱ぎっぱなしの上着。
そもそも、休日仕様の生活感丸出しの部屋である。
(無理無理無理無理……!)
できることなら、家に上がるのは全力でご遠慮願いたい。
――が、彼の様子を見る限り、すでに家に行くという選択肢は決定事項のようだった。しかも、お金を払って貰った手前、非常に断りにくい。
(この有無を言わせない感じといい、圧の強さといい……やっぱり中身はリンスティーさんなんだな……)
クィアシーナは、その手の圧にとことん弱い。
「……いいですけど。中に入る前に、ちょっとだけ片付けさせてください」
「もちろん。手伝おうか?」
「いえ、結構です」
その最後の提案だけは、珍しくはっきりと、きっぱり断ることができた。




