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9月7日 上

 9月7日


 十一時、質屋の裏手にある路地に黒いバンが滑り込む。街灯の死角を選んだのか、車体は闇に溶け、まるでここが隠れ家であるかのように周囲から隔絶されていた。


 僕は助手席から降りると、夜気に包まれた。九月半ばの夜はじっとりとした湿気を含み、肌にまとわりつく。街のざわめきは遠く、ここだけがぽっかりと取り残されたように静まり返っていた。


「お前ら、忘れもんはねぇな?」


 後部座席の窓を開け、ヘルシイが顔を出す。液晶画面の光が暗がりを裂き、青白い輪郭が彼の顔を浮かび上がらせる。


「カメラは全部ダミー映像に切り替え済みだ。今さら尻込みすんなよ」


「問題ない」アキラは短く返す。


 僕は喉を鳴らし、曖昧に頷いた。


「俺はここで待機だ。何かあったら無線で呼べ。……ただし、ガキみたいに『怖い』とか『帰りたい』とか言ったら、回線ぶった切るからな」


 乱暴に笑い、ヘルシイは窓を閉めた。


 黒いフィルムの貼ってあるバンの窓からは車内が見えない。

 だが、PCを見つめるヘルシイの顔は既に、これから手に入るであろう大金の使い道を考えながらニヤけていることだろう。


 アキラが僕に視線を向けた。


「行くぞ、ショウ」





 夜零時ぴったり。


 質屋の表口に影が二つ。

 アキラは手際よくピッキングを済ませ、僕に片目で合図した。


「よし、オープンだ。入るぞ」


 扉が小さく軋んだ。僕は喉を鳴らし、慌てて後に続く。

 昼間付いていたであろうエアコンの所為か、残暑厳しい熱帯夜でも、不気味なほどに涼しい店内だった。


 中は昼間と違い、薄暗い影ばかりが支配していた。ガラスケースの中の財布や高級バッグが、不気味に沈黙している。

 宝石類は金庫の中らしい。ケースの所々に空白があった。


『映像、切り替え完了。お前ら、今どこだ?』


 イヤホン越しにヘルシイの声が飛んできた。車内に残った彼は、ノートPCを叩きながら監視している。


「フロントは通過。今、奥へ向かってる」アキラが短く返す。


 店の最奥に、無骨な南京錠付きの扉。彼はまた道具を差し込み、数秒で錠を外した。


「な? チョロいもんだ」


 にやりと笑い、扉を押し開ける。


 カビ臭い空気が押し寄せる。倉庫と呼ぶには小さな部屋だが、積み上げられた段ボールの奥に、ひときわ重たそうな金庫が鎮座していた。


「ショウ、お前は入口だ。目を離すな」


「……わかった」


 僕は入口脇に立ち、外の様子を窺える位置を確保する。

 表のガラス越しに見える街灯は、やけに遠く冷たい。


 心臓がやかましく鳴り、握った拳が汗で湿る。


『おいビビってねぇだろうな?』ヘルシイが無線で茶化す。


「ビビってない」必死に言葉を絞り出すと、アキラが横目で笑った。


「いい返事だ。余計なことは考えるな。ただ見張れ。それで十分だ」


 彼は金庫の前にしゃがみ込み、布でダイヤルを拭った。


「行くぜ」


  アキラの指がダイヤルに掛かった。金属の冷たい表面をなぞる仕草は妙に優雅で、倉庫の中の空気がぴんと張り詰める。

 カチリ、とひとつ音がした。


 その瞬間、僕の胸に奇妙な違和感が走った。


 ――あれ? この質屋に、俺、来たことあったか?


 記憶を探る。どれだけ辿っても、ここに足を踏み入れた覚えがない。

 なのに、妻の指輪は確かにここに流れたと、そう信じていた。なぜ?


「……なぁ、ちょっと待ってくれ」


 思わず声を上げると、アキラがちらりと振り返った。


「何だ」


「この店……俺、来たことないんだよ」


「は?」アキラの目が一瞬だけ細くなる。


 無線からヘルシイが笑い声を上げた。


『あーそれか。改装したんだよ、バカ。店の内装も倉庫の造りも、全部去年いじってんだ。昔の記憶で探しても無駄だ』


「いや、違う。俺は、そもそも……ここに指輪を売りに来た覚えが、ない」


 自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ口を突いて出た。

 胸の奥で、はっきりとした違和感が形を持ち始めていた。


『おいおい、ショウ。酔ってたんだろ。酒場でいつもベロベロだろ? その勢いでフラッと入って、売っちまった。それを忘れてるだけじゃねぇのか?』


 ヘルシイは茶化すように、しかし妙に確信めいた調子で言った。


「……いや、本当に、ないんだ」僕は首を振る。手のひらがじっとり汗ばんでいる。


 そのとき、またカチリと音が鳴った。アキラの指先が淡々とダイヤルを進めていく。


「忘れてるか、気づかないうちに手放したかだ」アキラが低く言う。


「重要なのはそこじゃない。今、目の前に金庫がある。それを開けて、指輪を取り返す。ただそれだけだ」


『そうだ。ぐだぐだ言ってねぇで、呼吸整えろ』


 無線越しにヘルシイが鼻を鳴らす。


『お前が覚えてるかどうかなんざ、どうでもいいんだよ。現にここに金庫があって、アキラが開けようとしてる。それで十分だろ』


 僕は扉脇に立ちながら、胸の奥に渦巻く違和感と必死に戦った。

 確かに理屈はそうだ。


 だが、あの指輪がこの金庫に眠っているという確信の根拠は、どこにある? なぜ僕は「ここだ」と信じ切っている?


 カチリ。ダイヤルが滑らかに回り、アキラの表情が少しだけ緩む。


「……よし、あとひとつ」


 僕の心臓は逆に締め付けられた。鼓動が痛みに変わる。


「アキラ……もし、この中に指輪がなかったら、どうするんだ」


「そんときは次を探すだけだ」彼は顔を上げず、淡々と答える。


「だが俺は外さない。そういう仕事だ」


『おう、リーダーの言うことは聞いとけよ、ショウ。お前が迷ってようが泣いてようが、金庫は開くんだ』


 無線の向こうで、ヘルシイがけたたましく笑った。


 アキラの指が最後の数字を刻む。静かな倉庫に、最も重い音が落ちる。


 ――ガチャリ。


 長い呼吸のあとで、金庫の錠が外れた。

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