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9月6日 前

 志穂の頬は陽光に照らされ、宙を漂う埃が細かく光を反射していた。


 彼女の手元にはアイパッドと数冊のファッション誌。

 机の上にはドライフラワーやフレグランスが置かれ、そのどれもが意識の高いファッション誌のライターが使っていそうな淡い色合いだった。


 目線を上げると、横顔が目に入る。

 彼女の目は薄く茶味がかっていて、その瞳に惹かれて結婚を決めたのだと思い出す。

 しかし今となっては、その目は僕を責めるか、僕を恐れるか――そのどちらかでしかない。


 彼女は仕事がひと段落したのだろうか、不意に僕の方を向いて言った。


「また文句言うの?全部私の小遣いから買ってるんだから問題ないでしょ?」


 僕は何のことを言っているのか分からなかったが、彼女が手を添える先にバッグがあって、やっとそのことを言っているのだと気づく。

 何を入れる為のバッグなのか見当もつかない、掌くらいの大きさのバッグがそこにはあった。


「……文句はない」


 僕はそう答える。


 そう言えば昨日、金を使いすぎだとかなんとかで喧嘩したっけ。

 多分、昨日の喧嘩を根に持っているのだろう。彼女は鋭い目で僕を睨み、言葉を続ける。


「文句は私より稼いでから言ってよね」


 こうなると、もはや怒りも湧かない。疲れたのだ。ただ、疲れた。


 確かに昨日の喧嘩は僕が吹っ掛けた。理由なんて単純だ。僕がイライラしていたから。

 夫婦喧嘩とは、それが十分な理由の、くだらないものなのだ。


 だが、今日は僕は悪くない。彼女が始めた。


「君が辞めさせたんだろ」


 僕は小声でぼそりと言ったが、彼女はどうやらそれを聞き取っていたらしい。

 まぁ、故意にギリギリ聞こえるよう言ったのだが。


 彼女は、顔を真っ赤にして言った。


「貴方が勝手にやめたんでしょ?あのさ、毎回毎回言ってるけど、私の夢のせいにしないでよね?第一私の夢を潰したのは貴方でしょう?貴方がやったんでしょう?」


 そうだよ。君の夢は潰れたよ。君が始めたアパレル事業と、穏やかな結婚生活と一緒にね。





「おい!おい!聞こえてんのか!おういショウ!相棒!」


 アキラに声を掛けられ、不意に我に返る。


 午前十時。

 仕入れか何かをするためのおっちゃん数人が、タバコや吐瀉物にまみれた汚い道を歩いているだけで、後は誰もいなかった。

 まばらにしか人のいない飲み屋街に来ることは中々ないから、少し違和感のある光景だった。


「あたし、妻との思い出に浸ってたの……ってところか?」


「そうだよ。悪いか」


 そう言いつつ、僕は頭を掻きながら彼の方を見た。

 彼はいかにも寝起きです、というような髪型で僕の前に立ち、むくんだ顔を僕の顔に近づけている。


 服装は昨日と違い、黒い半袖のシャツに同じく黒いストレートパンツ。

 そして彼の両手には、それと同じものが抱えられていた。


「これ、お前が着る分」


 彼はそれを突き出すと、僕の胸に押し込んだ。

 僕は半ば強引に押し付けられたそれを掴んだが、彼の顔を不安そうに見る。


「いや、僕はまだやるって決めたわけじゃなくて――」


「いいや、やるの。てか、やらざるを得ない。だって結婚指輪返して、奥さんと仲直り、したいだろ?」


「そうだけど」


「指輪はあれじゃないとダメだろ?どうせ名前とか書いてあんだろ」


「イニシャルとハートの刻印が」


「おえッ、聞くんじゃなかった。…...とにかく、お前はやるしかねんだよ」


 僕はそれを聞き、自分のやりたい泥棒に僕を協力させる言い訳として、うまく言いくるめられている様な気がしたが、実際に指輪が必要なのは事実。

 もし指輪を突き返されても、賠償金を払わないといけないことも事実。


 いや、そもそも金なんか喉から手足が出てくるほど欲しい。手だけじゃないぞ。


 金さえあれば、やり直せる。――多分。


「ほら、”インターン”で着替えるぞ。追跡者(トラッカー)もいるから、さぁ、行った行った」





 9月5日

 午前十時半頃。


 ”インターン”で全身真っ黒の服に着替えた僕は、アキラと、”トラッカー”なる人物と共にテーブルへと座った。

 マスターはいないが、勝手にここを使ってもいいのだろうか、と思ったりもしたが、聞く暇も無くすぐにアキラが喋り出した。


「彼が追跡者(トラッカー)の大文字ヘルシイ」


「おい、俺の名前は苗字だけでいいっていっつも言ってるだろ!」


「こいつ、健康って書いてヘルシイって名前してやんの。キラキラネームってやつだよ。傑作だろ」


 僕はアキラによって少し気分を損ねたであろう()()()()君の手を握り、よろしく、とだけ言った。


 彼はその名とは正反対に、病的にやせ細っており、目にはクマができ、大きな鷲鼻をぶら下げていた。

 彼も歳は僕らと同じらしいが、その見た目は、長身のおかげで、まるでおとぎ話に登場する老トロールがそのまま出て来たような姿だった。


「で、今日なんだが……練習と言っても、ただの練習じゃない。ヘルシーはいつも通りで分かってるだろうが、ショウには言っておこう」


 アキラは自信満々に今日のスケジュールについて語り出した。


 本当は少し話を聞いて帰るだけのつもりが、遂に真昼のバーの、同じテーブルで強盗の計画について話し合っている。

 普通の人間なら逃げるだろうこの状況に、僕は恐怖や怯え、といった感情よりも、高揚感を感じていた。


 それは()()()()からの解放。


 あらゆるものに圧迫され、粘液の様にまとわりつく日常を思い切って蹴破り、今、新たな自分としてここに座っているような気がしたのだ。

 今日の僕は、一味違う。


 ここで、この惨めな生活を終わらせる。今日と明日で、全てを変える。

 何でもやってみせる。


「まずは、ショウ、君にはトイらんドに行ってもらう」


 その一言を聞いて、やる気に満ち溢れていた僕はあっけにとられた。


「と、トイらんド?あの、おもちゃを売ってる?」


 アキラはそれを聞き、何か不満でも?と言う風な顔をして首を傾げた。


「そうだ。でもショウには、そこで、質屋の店主を脅す用のモデルガンを盗んでもらうぞ。これくらいできねぇと話になんねぇからな」


 僕は彼のその言葉を聞いて、やっと自分が犯罪者への一歩を踏み出そうとしていることに気づいた。


”店主を脅す用のモデルガン”


 興奮している場合なんかじゃない。

 何を考えているんだ僕は!


 その刹那、人生と言う坂道を転がって、転がって、底まで転がり落ちていく自分が脳内に浮かぶ。


 カートゥーンアニメのキャラクターが崖を走り抜け、空中だと気づいたときに落ちてしまうように、僕の頭皮は状況を理解してから、すぐに大量の冷や汗をかき始めた。


「で、でも、モデルガンくらいじゃバレるだろ、流石に質屋の店主もわかるんじゃ」


「大丈夫だ。少し光沢が出るように色塗って、重そうに持てばバレやしない。第一、銃向けられた人間は、その銃が本物かどうかなんて考える余裕すらねぇよ」


 そう言うと、アキラは煙草に火を点け、僕の方にいるか?と一本差し出したが、僕は遠慮しておいた。

 隣に座るヘルシイは、煙たがって顔の前を手で仰いでいる。


 おそらく普段から吸わないのだろう。

 健康的(ヘルシー)だ。


「で、俺は質屋の下見に行って、ヘルシイはいつも通り店主の行動を追跡する。これでいいな?全部終わったら、各自夜にまた集合。ここで落ち合おう。行くぜ、ダイナミックアタックス!」


 唐突なチーム名に沈黙する二人。


「……」


「……」


「行くぜ、ダイナミックアタックス!」


 アキラが両手を広げ、もう一度、勢いよく声を張り上げた。

 それを聞いた僕とヘルシイは顔を見合わせ、同時に口を開いた。


「ダサっ!」


「いや、それはねぇだろ……」


 僕は思わず吹き出しそうになるのを堪えつつ、指先でテーブルをとんとん叩いた。


「アタックスって複数形なのがまずおかしいし。なんか中学生のグループ名みたいだ」


「それに“ダイナミック”って……安っぽいアメコミの雑誌に載ってそうだな。まぁ、チーム名なんていらねぇよ。別にちょっと協力するだけだろ。あとタバコくせぇ」


 ヘルシイが鼻を鳴らしつつ言った。


「お前らなぁ……夢がねぇんだよ」


 アキラは不服そうに煙を吐き出し、腕を組んだ。


「カッコいい名前ってのはな、雰囲気で相手を圧倒するんだよ! “ダイナミックアタックス”って聞いた瞬間に、敵は震える。これがブランディングってやつだ!」


「いや震えるのは笑いの方だろ……」と僕。


「ブランドっていうか、ジャージに刺繍されてそうなセンスだな」とヘルシイ。


 ふたりして冷ややかな視線を送ると、アキラはテーブルを叩いて立ち上がった。


「ごちゃごちゃうるせぇ! 俺がリーダーだ、俺が決める! “ダイナミックアタックス”で行くんだよ!」


 その姿はあまりに堂々としていて、逆に誰も逆らえなくなってしまった。

 仕方なく僕とヘルシイは顔を見合わせ、肩をすくめる。


「……まぁいいか。バレなきゃ名前なんてどうでもいいし」


 渋々そうつぶやいたヘルシイをよそに、アキラは目を輝かせ、不安定な椅子に勢いよく立ち上がった。


「そう来なくっちゃなァ」


 アキラは拳を握りしめ、深く肘を引く。その視線が僕たちを射抜き、次の瞬間、彼の溜め込んだ気持ちが爆発する。


「ダイナミーック、アターックス!!」


 突き上げた拳が天井の電球を直撃し、鈍い音とともに破裂する。

 ぱらぱらと降り注ぐ破片の中、洋風酒場”インターン”から光は途絶え、暗闇だけが残った。




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