子捨て閣下と石女娘 〜妹の身代わりだった、望まれない娘が惨烈な男と無二の愛を知る話〜
※(ざまぁ対象が死んでる/あんまり訴えようがないので)ほぼざまぁ無し
※親→子の虐待酷め。ヒーローヒロインどちらも一生ものの体の損傷を伴う
実父→娘、それに伴う出産と自死の描写。赤ん坊も虐待対象(死亡)。
※女性の立場が弱めの世界観
「――お前は俺に愛を乞うか?」
そう、つまらなそうに問うた唇は皮肉げに歪む。
灰銀の髪は狼の毛並みのようだった。どこかくすんだ印象の男の、その片方しか窺えない瞳はあばら家で仰いだ満月によく似ていた。
「俺に愛を期待するのはよした方がいい。女は抱けるが、しょせん欲を処理するための肉が欲しいだけだ。そこに愛など見出すな」
何も答えない私に焦れたのか、そう続ける男はつい数時間ほど前に書類上の夫となった人だった。
通いの使用人に着付けられたはしたない丈の寝衣を着て夫婦のベッドの上にいる私に対し、眼前に立つ夫たる人は職務が終わってそのまま訪れたのだろう軍服姿だ。コートの首回りにあるふわふわの装飾に触れてみたいな、とぼんやり思いつつ私は口を開く事にした。
「私は…、愛というものをよく知りませんのでもはや期待する事もありません」
もし欠片でも知っていたらそれに縋っていたのだろう。そうはならなくて良かった、と思う。
「そして、欲を処理するための肉が欲しいだけならば…まあ、私の身体はちょうどいいと思います。子を孕めませんので」
「…ほう?」
「立場が失われる事を恐れた人に、母乳代わりに薬を飲まされていたものですから」
問い返すというより、驚きから思わず零れてしまったであろう相槌にけれどそう返せば、都合が良いな、と今度は楽しげな声が降ってくる。
「俺は子が欲しくないのでな。お前が俺の子を孕まんならかなり都合が良い。もしや神の悪戯かもしれんぞ」
満月の瞳がギラギラと輝き、無骨な男の手が伸ばされる。頬に触れ、顎を持ち上げる手つきは、存外優しかった。
――私の生は暴力に因って発生したものだ。
殴られてできた痣、叩き付けられて折れた骨。分類としてはそれらに該当する。
どこにでもいる下働きのメイドが、屋敷の主人である子爵に若く張りのある身体を見込まれて使われた結果生まれた、望まれぬ赤ん坊。子爵は赤ん坊の性別が男でなかった事に安心すると誤魔化すように赤ん坊を籍に入れた後は知らんぷり、メイドは主人を誑かしたとして処分された。
家格の低い家の娘が身を立てるためにメイドに身をやつす事も、屋敷の主人の手付きになって処分される事もよくある話だ。
娘の親はそれに文句を言えない……というより、言わない。どうせ扱いに困っていた娘だから処分されてちょうどいいのだ。だから、赤ん坊は事実上の祖父母に引き取られる事もない。
そのようにして誰にも望まれぬ赤ん坊は、殺されもせず無為に生かされる事となる。
それらの事情を知る頃の私はやっと言葉を話せるようになっていた。
「さあ、おやすみのミルクですよ。ゆっくり口を開けて下さいね」
年嵩の侍女にそうやってミルクとともに含まされていたのは子宮を役立たずにするための薬だったそう。数えで十二になっても十くらいにしか見えず、言葉もろくに話せない私に周囲の使用人達は母の事を教えた。
事実上の母が特別秀でたものはなくとも一生懸命で人に好かれる娘だった事も、主人に身体を暴かれて以来笑顔を失った事も、処分されずとも自害してもおかしくない精神状態だった事も、すべて。
そして、事実上の母が私を産んでしまったのはこの家の夫人が赤ん坊を産むより少し早かった事から、夫人の感情は激しいのだとも。
夫人は事情があって幼い頃からの婚約を十七の時に解消し、その後子爵と結婚する事になったというので嫁いだ時は結婚適齢期を少し過ぎてしまってからの事だったそうだ。
事実上の母が赤ん坊を産んだことで夫人の胸の内に生まれたのは、子爵の周囲にいる自身より若い女への複雑な感情。愛のない正しく貴族的結婚だったから、夫人は自身の存在価値を跡継ぎを産む胎に依存させていたのだ。
――今回は女だったが、もし男児が産まれていたら?
そう危惧した結果、屋敷にいた若い女の使用人は夫人の手によって全て解雇されたのだそう。だがそれは、つまるところ私の事実上の母のような被害者が増えずに済む形になったのだ。
救われた娘達は、残される私という赤ん坊をなんと思ったのだろうか。それは分からないが、そうして夫人の持つ複雑な感情の全ては私に注がれる事となった。
十と少しの頃から胸に巻き付けられた、外すには随分丈夫な刃物が要るだろう分厚い布。初潮が訪れる事さえ許さない薬。
息苦しいのも、薬もいっそ平気だが、私が“女”にならないよう肉体に調教されているのだと思うと、得体の知れない恐怖はついてまわった。
どうやら夫人は、子爵が若い女と見れば見境なく手を出すだろうと感じていたらしい。それがもはや本能的にたまらなく恐ろしく思えたのだと。
その危惧は、きっと正しいと私も思うけれど。
「だって、あの男がティアナを見る目は……」
「ケダモノだったか」
溢れてしまった思考の端っこにそんなふうに短い言葉が降ってきて、少し驚きつつ頷く。
――ティアナ。夫人が産んだ赤ん坊もまた、女だった。
柔らかなミルクティー色の髪と、垂れ気味の金の瞳を持つとても可愛らしい女の子。
事実上の母から譲られたのだろう、真っ直ぐな黒髪と切れ長の黒目を持つ私とは違い、彼女の髪の色は夫人、瞳の色は子爵と同じだ。
加えて聞き分けの良かった彼女は当然周囲から大事にされたが、当の彼女は随分幼い内に自分の両親は模範にすべき大人ではない事を悟ってしまった。そして、そのうち彼女は、私の存在に多少は胸を痛めていた家令からいろいろと実情を聞き出すとわざわざ敷地の隅にあるあばら家に自ら足を運ぶようになった。
――腐ったパンがお似合いよ、と言って軽く投げつけられたのは、日も経っていないレーズン入りのパンだった。
――こんな汚い所燃やしてしまいなさい、と言って燃料という事にして運び込まれた新聞やノートの端切れは貴重な教養となった(そして、読んだ後は冬を越す火種に)。
母親や侍女達の目を気にしてか、虐げるふりで行われた奉仕は私に死なれても寝覚めが悪いと思ったからだろうけれど。律儀に世話を焼く彼女は姉のようだった。産まれたのは私の方が先なのに……。
「ともかく、彼女は育った胸や、括れた腰に父親がいやらしい目を向けている事に気付いていたわ」
だから、早く逃れようとした彼女があらゆる集まりに頻繁に顔を見せる事の何がいけなかったのだろうか。
なまじ彼女は可愛らしくも美しかったから男女問わず眼差しを集めてしまう。それでいて家格はさほど高くないから、高位貴族に目を付けられたらおしまいだった。
出逢いを求めていたのは確かだが、貞節を守るため決して男と二人きりにならず、なるべく縁戚の令嬢と連れ立っていたはずの彼女は、いつの間にか縁戚の令嬢をアリバイのために利用しつつ男と夜を過ごしている淫婦という事になっていた。
……この縁談はそもそも、ティアナに押し付けられたものだったのだ。
リナルド・ホロウビネル侯爵。
蔑称を“子捨て閣下”と云う彼は自身以外の侯爵家を継ぐ可能性を持つ家族の全て――血の繋がった兄や妹、時には赤ん坊だろうと容赦なく鏖殺したとされており、更にはそんな侯爵を排除して後釜に座ろうとする野心的な人間すらすべて返り討ちにしているのだと云う。
そんな彼なら父親の知れぬ赤ん坊を産みかねない女も押し付けられると踏んだのだ。女も、不義の赤ん坊も簡単に殺してもらえると。
――優しい妹が、実の父親の手から逃れるために汚いあばら家で何度も眠れない夜を明かした不憫な妹が、犯してもいない罪を贖えと望まれるこの世界が私は嫌いだった。
だから、私が行くと言ったのだ。妹は花嫁として、私はお付きの侍女の振りをしてともに出発をしたあと、妹は話をつけた縁戚の伯爵家に向かわせ、私が侯爵家に向かう事にした。
彼女が自身の罪悪感を解消するために尽くしてくれた義理を返し、そして私が楽になるためだった。
『……本当に侯爵様が酷いお人ならこれを使って』
私の意志を折る事が叶わなかった妹が、そう言って私の手のひらに捩じ込んだのはくしゃくしゃに丸めた紙に包まれた幾許かの現金だった。
紙を開いてよく確認すると、私の除籍処分に関する書類だった。これを然るべき所に提出すれば私は何にも縛られず何処へも行ける、そんな魔法の紙切れだった。
「…ふん、お前の妹は確かにスズメから聞いたような頭の足りない女ではなかったようだな」
いつの間にか、リナルドはベッドに腰掛けていた。
どこまで話して、どこまで脳内で呟いたのか分からない。つまらない述懐を終えると、この場にいるのは存外まともに話が出来る(――そもそも、私は他人と会話をした経験が少ないので世間一般的にどうかは分からないが)夫と、書類を交わした妻だ。
夫の頭には、挨拶の際に名だけを告げた時の妻の姿が浮かんでいた。
『私の名はアエラス…。姓は昨日捨てましたので、ただのアエラスでございます』
そう、アエラスは既に除籍の手続きを済ませていたのだ。元より貴族らしく生きていたわけではないとしても、辛うじてあった身分を棄ててしまえばもはや平民である。
侯爵家に嫁ぐ花嫁として来たというのに薄汚れたお仕着せ姿で堂々と相対し、そんな事を大胆に言ってのけた事が面白かった。
なればこそ真実娶ってやろうかと思ったのだ。産みの母に異国の血が流れていたのか、この国ではあまり見ない黒髪は無惨に死んでいった女達を思い出さずに済むというのもあった。
「…くだらないお話を聞かせてしまい、申し訳ありませんでした」
「いいや?なかなか興味深い話だったぞ」
アエラスという女の、妙に堂々とした態度は失って悲しむものがないからこそだと男は思う。
遠縁の者はよほど信頼出来るのか、それとも除籍処分の書類を用意してみせた妹を信じているのか。妹に心を配る事を止めてしまえば、あとはもう何もない。自分の命の心配すら。
例えば、この俺に斬り捨てられても構わないとすら思っていたのだろう。そんな仄かな自殺願望に付き合ってやるつもりはないが。
「それに、お前は今日俺のもとに嫁いだ…。これまでの人生を捨ててな。ならば、捨てたものを眺める時間も必要だろうさ」
物理的に殺すつもりはないが、ある意味これまでの彼女を殺したようなものだ。だから“くだらない話”に耳を傾けたし、こちらも聞いてもらおうかと思ったのだ。
――掛けられた言葉を頭の中で精査しているのか、怪訝そうにこちらを覗う黒い瞳に己が映っている事を確認してから再び口を開く。
「俺の父親もまた我が子が可愛くない親だったさ。自分よりも頭のいい息子を勝ち目のない戦地にやり、美しい娘を三回孕ませ、生ませた子らには酒をたらふく飲ませて殺した」
はっ……と息を飲むのが静かな部屋の中に響いた。
「…美しい妹は自分の腹をかっ捌いて死んだよ」
ズタズタの腹を繕ったのは俺だった。金を積んで誰かにやらせてもどこかから話が漏れただろうから。
「父親は最初から全てを俺の横暴という事にした。そして、それに心を痛めて病んだフリをして引き篭っていたから父親を疑う奴はいなかったのさ」
「それは、どうして…」
「俺のツラは父方の祖父……つまり、父親の父親に特別似てたそうだ。残酷なほどに厳しくて、辛辣で、大嫌いだった父親に」
何度も叩き付けられた言葉を思い出し、繰り返す。
「俺は鬱憤を晴らすための人形として生かされていたよ。気まぐれに目を切りつけ、顔を焼き、毒を飲ませ…。それで最後まで全部俺に押し付けて勝手に死んだ。俺の人生を蹂躙する事で大嫌いな父親に復讐を果たした気になったんだろうよ」
あの、憎しみが濃く煮詰まったワインレッドの瞳が閉じた目蓋の裏に浮かぶ。その闇から逃れようと目を開いて、そうして女の痩せた手が見える。
一度は生まれた俺を腕に抱いたのだろう母親は、俺が物心つく前から廃人と化していた。もうずっと正気などない顔で父親に使われ、壊され、最後は血を吐いて死んだのだ。
「…俺に子が出来たとて、そいつを地面に叩き付けない保証がどこにある?そいつの無防備に開いた口に鉛を注がないという保証は?男ならばその目をくり抜かない、女ならば胎を破らないと言えるか?誰が?」
最期の母のように。血を吐くようにして、言い切った。
ここまで語ったのは初めてだ……、とリナルドがそう内心で息をつく頃、隣からも乱れた息を感じた。
「…泣くな。慰め方は知らん」
いつの間に泣いていたのか、あまりに下手くそな泣き方をするアエラスになんとも言えず、リナルドはただ犬のように彼女の唇を舐めた。
息も絶え絶えで、薄いからだを震わせながら、アエラスは意味もなく首を振る。
「どうした、そんなに恐ろしかったか」
「いいえ、いいえ…。恐ろしくはありましたけれど、それ以上に私…。私、貴方と生きたいと思ってしまったのです……」
「…なぜ?」
だって、とまた首を振る。未だ震える手が、リナルドの着るシャツの胸元に縋った。
――死ぬつもりで深い森に入ったはずのアエラスが出逢ったのは、傷だらけのはぐれ狼だったのだ。
思わず駆け寄り、ボロボロのワンピースを引きちぎってその傷付いた脚に巻いてやりたいと……そう、願ってしまうほど放っておけないと感じてしまった。妹への憐れみ、辛いのは自分だけではないというある種の安心感に生かされてきたアエラスの心が、今度はそのはぐれ狼に傾いてしまったのだ。
「…俺のために涙を流すヤツなんざいないと思っていたが」
勿論美しいばかりの同情ではなかったが、それでも彼の傷に包帯を巻こうとしたのは彼女だけだったのだ。
まるでアエラス自身の心の傷口から溢れているような涙に、リナルドも黙して自身の服が濡れていくのをしばし眺めるのだった。
♦︎♦︎♦︎
――傷だらけのはぐれ狼と、娘は結局傷の舐め合いにも似た不格好な愛を誓う事となった。
「…俺はお前に愛を乞うと決めた。お前も、俺に愛を乞え。ともに苦しんでくれるな」
リナルドがそんな誓いを口にしたのは、侯爵家の領地にある村の、その丘での事だった。
誓うその少し前。彼らはその村でミルクティー色の髪をした女性を遠くから見かけた。
髪よりも濃い茶色の瞳を嬉しそうに潤ませて微笑む彼女の傍には、小さな子どもを抱いた男性がいた。女性と同じミルクティー色の髪、男性と同じ鼻筋の小さな子どもはきゃらきゃらと無邪気に笑ってその手に摘んだ花を振って両親に見せていた。
「…そうなのね」
小さく呟いたアエラスの肩を、抱く手があった。
「…勝手だが、こちらのことは手紙に認めて送っていた」
そもそも姉妹による入れ替わりが発覚した段階で、行方を追わせていた。
縁戚の伯爵家を頼って下働きに出てもよかったが、やはり広く顔が知られてしまっているのと、貴族社会には二度と関わりたくないという思いとで困っていた彼女を村に来れるよう手配したのもリナルドだ。
「ティアナ……」
様々な感情が胸に去来し、アエラスはただ祈るように妹の名を呟く事しか出来なかった。
あの薄汚いあばら家とはまるで違う、陽の当たる場所で幸せそうに笑む彼女を見届けたこの時、アエラスはやっとあの家から解放されたように思えたのだ。
(…これから先、私が生きていくのはリナルド様との閉ざした世界。けれど、あのひなたを忘れないでいられたら…)
かつて父親から受けた暴力の記憶に魘されて真夜中に叫ぶリナルドを支え、彼を愛する心とは裏腹にいつまでも男を受け入れられなくて時折吐いてしまう自分の介助をしてもらい、そうしてふたり生きてゆくのだ、と。アエラスは噛み締めた。
アエラスがこう思えるまで待っていてくれた彼をきっと死ぬまで愛するのだ、と。
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ふたりが背を向けた社交界では、アエラスの生家が存続の危機に陥っていた。
“子捨て閣下”のもとに向かったはずのティエナが忽然と消えたので、彼女は嫁ぐ事を恐れて神の御許へ逃げたのだと囁かれることとなり。
令嬢がひとり消えた事の責任はやはり、その親に押し付けられた。
そもそも今回の縁談に関しては上位貴族が“悪い噂”を楽しんでいただけだったとされ、それ以前に、夫人が産んだのは娘一人だけだったのだからその夫が家を継ぐものとして婿を選定しておかなければいけなかったのに、それを放棄していた事こそが問題とされた。
子爵はその事と、噂を真に受けて一人娘を放逐した事の責任を取って爵位を落とされ、領地も一部王家へ返還する事となった。辛うじて存続を赦された家は縁戚の男爵家の三男が引き継ぐものとして落ち着いた。
子爵の、立場の弱い娘を狙った欲の発散は裁かれる事はない。だが、離婚した元夫人が自ら戒律の厳しい修道院の扉を叩く際にアエラスへの虐待や、娘達の不当な解雇等の罪を告白したためそれなりに知られることにはなった。
元子爵夫妻に向けられる厳しい視線のほとんどは元夫人へ向かったが、一部では愛人を上手く管理するのが貴族の男であり、必要もないのに下働きを孕ませたり、況して正妻より先に子を産ませてしまうのは下等な行いであるとして白い目で見られているらしい。
貴族の家に生まれる赤ん坊には家を継ぐ者としての価値も付随するから、むやみに扱うのは歓迎されない話だ……そんなこの国の常識を説きつつ、既に社交界から消えた“子捨て閣下”への非難がまた口に上ったが、既にリナルドは縁戚の三男を養子に迎え、爵位を継がせた上で職務も引退してしまっていたのでやはりふたりの元へは届かないのであった。
「俺なんかに着いてきてよかったのか?」
「…ご冗談を。貴方以外の誰も愛せそうにありませんから」
そんなふうに分かりきった事を訊ねられ、アエラスは薄く微笑みを浮かべながらそう答えた。
その時、不意に吹いた風がアエラスの髪をさらっていくのだった。