8 (3)琉球と蝦夷地
参考:山川出版社「歴史総合 近代から現代へ」P29
目次
琉球王国
琉球
中国に朝貢
薩摩藩の支配
商人・貿易・交易
蝦夷地
蝦夷
アイヌ
松前藩の支配
和人
鮭・昆布
商人
ーーーその1<琉球王国>ーーー
江戸時代の沖縄地方には、<独>立し<独自の文化>を持つ国家である、琉球王国があった。
(1)<琉球>(沖縄読み)
古代は、台湾・沖縄を含む呼称だったのが、13世紀には沖縄を指すようになった。
王国の成立は、15世紀。
なお伝説として、日本本土の12世紀の武士・源為朝が平氏との戦いに敗れた後、沖縄に逃れて最初の国家を作ったというのがある。これをもとにして江戸時代、曲亭馬琴の『椿説弓張月』が創作された。
(2)<中国>の明・清王朝に<朝貢>
中国との外交関係は、対等でなく服従という形を取った。中国から使者が来ると、国王自ら守礼門におもむいて三跪九叩頭の礼をした。
ただその結果としての<貿易>は、琉球からの輸出は少なく、中国からの輸入が大量という実態だったというのは、前に書いた。
(3)<徳川家康>の許可を得て<薩摩藩>が軍事攻撃し占領し<支配>
薩摩藩といえば、関ケ原の合戦で西軍につき徳川氏と敵対したこと、薩摩藩の国境を封鎖して隠密が入ってくるのを防いだこと、幕末に江戸幕府を打倒したこと、など幕府と対立関係にあるはずなのだが・・・
政治は、不可解かつ複雑なのだ。対立していても、仲良くする場合もある。敵を使って、もう一人の敵を抑えるという政治テクニックも有名だ。(諸葛孔明の天下三分の計とか)
この薩摩藩の大名の娘(養女)が2人、将軍に嫁いで、うちひとりは大奥の総取締的な立場になっている。
徳川氏は、薩摩藩を使って西日本各地の諸大名を統制し、琉球を使うことにより貿易のうまみの分け前をもらい、中国王朝との外交を安定させていた。
これにより琉球王国は日本領になったのか?というと違う。
薩摩藩が支配していることを内緒にして、琉球王国の独立国家の形を作らせて今まで通り中国と朝貢貿易をさせた。
ただ中国王朝もこれを知っていたと思われ、ただ黙っていたらしい。中国は中国で、東アジアの国際情勢の安定を重視して見て見ぬふりをしていた模様だ。
もちろん<支配>は事実なので、琉球王国は毎年、薩摩藩に大量の貢ぎ物を納めていた。
琉球の特産物は、<砂糖>・織物・硫黄・海産物。
そして中国からもたらされた中国の産物。
東南アジアなど海外の珍品(香辛料・象牙など)。
(4)<商人><貿易><交易>
江戸時代は、水運が発達した商人の時代だ。海でつながっているなら、どこにでも行く。
この南端の琉球と、北の端の蝦夷地(北海道の旧名)が、商業でつながっていた。直接交易した事実はないが、日本の商人が仲介してこの南北両端の産品が盛んに取引されていた。
そして琉球王国は中国を通じて、海外諸国と貿易をしていた。
つまり日本の民間商人は、琉球を通じて事実上海外と貿易をしていたといえる。
鎖国?もちろん一般人の行き来はできなかったが、その意味で鎖国は実はしていなかったともいえる。
ーーーその2<蝦夷地>ーーー
現在の北海道の旧名。
(1)<蝦夷>
日本の古代政権が、北海道や東北地方の住民を指して呼んだもの。日本人ではない、外国人だという意味が込められている。
また、政権の支配に反抗する人たちという意味でも使われる。現代のネット用語”反日”と共通しているね?
元は、日本全土に住んでいた先住民のこと。弥生文化を持つ人が海外から来たのに対する、縄文文化を持っていた人たちのことを指す。
北に追い詰められた縄文人ということかな?
(2)<アイヌ>
日本民族とは異なる遺伝的要素と独自の文化を持つことから、別の民族だとされる。
かつてはコーカソイド(白人種)とされたこともあったが、現在の研究では、縄文人と日本人(縄文人と弥生人の混血)とオホーツク人の混血及び混合した文化を持つ民族とされる。
民族人口は、江戸時代以降現代も2万人。
蝦夷とアイヌは、イコールではない。
蝦夷といわれた住民の一部が、アイヌ。
アイヌの文化の例として、服に刺しゅうを施して文様を作るというのがある。
熊を神聖視するイオマンテという祭りは、熊の魂(カムイ)を神々の世界に送るというもの。
なおイヨマンテの夜という楽曲があるが、その内容はこれとは別物の創作。
これにヒントを得たゴールデンカムイという漫画・アニメ作品も、ある。
(3)<徳川家康>に保証され<松前藩>が<交易>を<支配>
琉球王国と同じような事情だ。
ただよく見ると、両者は支配のしかたが違う。
琉球支配は徳川家康の許可を得てだったが、蝦夷地支配は徳川家康の保証を受けて、だ。
この差は、琉球王国は薩摩藩の従来支配地とは別の離れた地域なのに対し、蝦夷地には既にその南西部に松前氏が城を構えて支配していてその地続きである地域の支配という差だ。
もう1つの違いは、支配の内容。
琉球王国に対し、薩摩藩は貢納を要求した。これはつまり税を課したのと同じ。
これに対し蝦夷地に対する支配は、課税ではなく、蝦夷地住民との交易の独占権という意味だ。
江戸時代の国境付近への政策が、現地の大名に一任するという形になっていたのは興味深い。
徳川氏の全国支配が、実はあまりスムーズではなかった、困難だったことの表れかもしれない。
ただ長崎の出島限定は、もとは平戸にあったオランダ商館を移転させたもので、これは平戸藩の松浦水軍の強力さを警戒してのことだった。
(4)<和人>
これは、蝦夷地の現地での用語。
2種類の人、つまり先住民族と日本民族が隣り合わせで居住しているので、互いに「和人」「蝦夷人」と呼び合ったというわけだ。
和人の支配地は、北海道の南西部(渡島半島)に限定されていたが、交易の必要もあってしだいに蝦夷地(東半部・西半部・北部の3地域)に移住するものが多くなった。
*北部というのは、樺太(サハリン)のこと。現在はロシア領になっているが、元はアイヌの居住地で、和人の移住が進み松前藩の支配が及んでいた。つまり、江戸時代は日本領だった。
*いわゆる北方領土もアイヌの居住地で、和人が移住していた。松前藩の支配が及び、江戸時代は日本領だった。
択捉島の北にある得撫島にも、蝦夷人と和人が居住していた。
それより北は、微妙。(松前藩は、千島全体を領していると幕府に報告しているが)
*この話を突き詰めると、現代では次の結論に至る。
千島列島のうちのいわゆる北方4島と得撫島は、北海道の付属諸島であり日本領である。そして樺太も、日本領である。
こうして蝦夷地全体が、和人と蝦夷人の混在地となった。
江戸時代後期になると、ロシアを警戒して一時期、松前藩を廃止して幕府の直轄地になったりしたが、そのときは蝦夷地全体(樺太も含めて)を直轄化している。
ロシアは、江戸時代後期に千島の北半部を軍事占領していた。江戸幕府はこれに対抗し、千島の南半部を直接支配下に置いたのだ。
現在の北方領土問題は、こういうリアルの軍事対決で日本が敗北した結果だ。国際法違反とか平和理念とかいってもそれはただの理想であり、現実は軍事力の強弱によって決まる。
(5)<鮭>・<昆布>
蝦夷地の特産物だ。
現在も、北海道の名産品である。松前昆布という名は、江戸時代に松前藩や商人が蝦夷地の昆布を全国に売り出したことに由来する。
鮭は、回遊魚で、気温が高い時期は海にいるが、冬が始まる頃に陸地の河川に遡上して越冬し、春には海に帰る。
熊が鮭を捕まえて食べるのは、この遡上の時だ。
昆布は、日本では北海道・青森・岩手の太平洋岸に分布する。親潮の栄養をたっぷりと吸収している。
江戸時代、商人の船により日本海・瀬戸内海を通じて大坂に運ばれ、関西で昆布による独自の食文化が誕生したりした。
さらに昆布は琉球にも運ばれ、特産品として中国に輸出された。
(6)<商人>
当初は、松前藩と蝦夷地との交易がメインで、蝦夷地住民への直接支配はされていなかった。
和人が蝦夷地に移住し、しだいに蝦夷地を実質的に和人が支配する方向にもっていき、そして幕府が直轄化することにより政治的にも支配下に置くことになった。
この過程で、商人が松前藩に代わって交易の主体を担った。松前藩はわずか1万石の非常に小さな藩で、武士の数が非常に少なかったからだ。
商人がときには海賊行為を働いたと前に書いたが、この蝦夷地でも当初は交易をやっていたが、次第に現地から搾取・支配する方向へ傾いた。多数のアイヌを雇って低賃金で奴隷的に働かせたり(その見返りとして生活を保護してはいる)して、蝦夷地の実質的な支配者として振舞った。
19世紀初めには、蝦夷地には19名のそういう商人がいた。