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歴史総合よもやま話  作者: よほら・うがや
16~18世紀のアジア
6/12

6 17世紀から18世紀の江戸時代の日本(1)政治

参考:山川出版社「歴史総合 近代から現代へ」P27~P28

目次

幕藩体制

  豊臣秀吉

  徳川家康

  将軍

  江戸

  幕府

  城

  大名・藩

  幕藩体制支配

禁止政策(勝手にやるな)

  朝鮮には対馬

  キリスト教禁止

  参勤交代

  外国船来航禁止

今回から3回にわたり、日本史の話。


歴史総合での日本史の立ち位置は、微妙。

世界史はまだ広く浅くなのでいいが、日本史は自国の歴史というだけにめちゃくちゃ詳しくなるからだ。

教科書のレベルにとどめてしまうと、歴史的思考なんかまったくできない。

かといって幼稚な討論ばかりしていると、基本知識は身につかない。


ほんと、歴史総合での日本史学習は意味がない。日本史の部分はすっ飛ばして、さっさと日本史探究をやったほうがいい。

世界史は最初からあまり詳しくやるとグローバル視点を欠いてしまうので、歴史総合レベルでちょうどいい。


ここでは、中学レベルの日本史から一段階上の高校日本史の導入レベルで、話そう。


ーーーその1<幕藩体制>の成立ーーー


(1)<豊臣秀吉>


江戸時代の話なのに、なぜ前の時代の政権指導者の名前が出てくるか?

そう、この前の時代はどんな時代かを思い出してもらうためだ。


歴史学習の基本の基本は、今やっている単元の前の時代はどんな時代だったかの認識だ。

学習に慣れてくるとついついこの視点がうやむやになり、いったい今どの時代をやっているのかが分からなくなってしまう。


江戸時代の前の豊臣秀吉の政権は、軍事政権だ。

官僚がいるにはいたが、文治官僚組織がまだ確立されていない軍事優先の政権体制だ。

官僚(石田三成ら)を整えようとしたのに、いわゆる武断派(加藤清正や福島正則ら)が猛反発しついに関ケ原の合戦に至ってしまったのだ。


これが江戸時代になると、軍事色が薄れ、学問に秀でた官僚が政権の中枢を担うようになっていく。


(2)<徳川家康>


江戸幕府を作った人の名前。あだ名は、たぬきおやじ。

前の時代の織田信長や豊臣秀吉と並び称される、戦国統一3人トリオだ。日本史好きな人にはお馴染みだが、日本史が苦手な人はこの3人をワンセットで覚えておくとよい。

特に、信長・秀吉と、家康との共通点・相違点に注目するのだ。


信長はあと少しで全国統一するところだったが、家臣に反逆され倒された。

秀吉は全国統一を成し遂げたが、その死後、子の代になって政権を維持できず崩壊した。

家康は秀吉の死後に全国を統一し、その死後も子孫が政権を268年間維持した。

織田がこね、羽柴(秀吉の名字)がつきし天下餅、ただ食らうは徳川、などといわれるゆえんだ。徳川家康は、ほんと人気がない。主人公の大河ドラマも不評だった。


秀吉の姓と名字について、少し解説しよう。

豊臣とよとみは、姓。天皇から直接下賜されるもの。代表的なのは、源・平・藤原・菅原・豊臣など。現代は、使われない。多くは、名字化している。

羽柴はしばは、名字。現代の氏に当たる。明治時代より前は、武士や貴族は個人的に自由に称することができた。明治時代以降、一般国民にも使用が許可されたが、いったん決めるとその後、結婚したり養子になったりして氏を変えるとき以外は絶対に変えられなくなった。


ちなみに、徳川家康は、姓は源で、名字は徳川。

織田信長は、姓は平で、名字は織田。もっとも姓は、室町時代以降はそのときの都合で自由に変更できた。


(3)<将軍>


正式名称は、征夷大将軍だ。東北地方の反乱軍を征伐する臨時の日本軍総司令官、という意味。

本来は臨時の官職だが、初代武家の棟梁とうりょうである源頼朝が就任し、その子孫が次々に就任し、さらに室町幕府の長である足利氏も子孫代々就任したので、この時代には武家の棟梁が就任する官職という認識が人々に定着していた。

徳川家康とその子孫である幕府の長たちも、代々この官職を継承した。


さて、信長と秀吉も朝廷から認められた全国政権を作ったのに、なぜ将軍にならなかったのだろうか?

諸説ある。

かつては、どちらも氏素性が怪しい(源氏の元祖的な存在である八幡太郎義家の子孫でない)ので将軍になれなかったのだという説が有力だったが、徳川家康も氏素性が怪しい(源氏と称しているが家康自身による先祖物語創作)のは同じなので、この説は違うだろう。

個人的な意見だが、将軍は天皇から任命されるから藤原氏ら朝廷の下に置かれがちというのを、信長や秀吉が嫌ったという説が納得できる。(江戸幕府の最後は朝廷に政権を返すという形になった)

家康は将軍になったがわずか3年で子に譲ってしまうのだが、これも信長や秀吉と同じようなことを考えたのではないかな?


なお征夷大将軍は、朝廷の官職でいうと右大臣右大将クラス。つまり、関白や太政大臣や左大臣の下だ。(信長は右大臣になっているから、事実上将軍になったといえる。そしてさっさと辞めている)(家康は太政大臣になったがそれは死ぬ直前だ。なお家康が長く務めた内大臣は右大臣の下だ)

関白は天皇の家来ではあるが、朝廷の最高官職なので朝廷を下に置くことが可能な地位だ。(秀吉が関白になった理由だろう)


(4)<江戸>


徳川家康が自らの居城地を、全国政権所在地と定めた。現在の東京だ。


歴史上、首都あるいは政権所在地となったのは、他に京都・奈良・飛鳥・藤原京・長岡京・大坂・鎌倉といったところか。

古代の首都は内陸にあることが多く、近世以降の首都は港のある町が多い。

古代は、海外の強国(中国やモンゴル)からの侵入に備える意味があったのだろう。

近世以降は、海外諸国や国内各地との貿易や、軍事物資の補給の目的だろう。


あとは、地理的位置の問題だ。大坂は、西日本へのにらみを利かす意味がある。江戸は、北日本や東日本へのにらみを利かす意味があっただろう。

豊臣秀吉は、朝鮮や中国の征服を視野に入れていたから大坂に本拠を定めた。


徳川家康は、アメリカ大陸(当時はスペインの植民地)との貿易を考えていたのかもしれない。

ただ房総半島の東方沖は嵐が酷く、海難のメッカといえる場所だ。鎖国後は、江戸は天然の要害に守られた堅固な地として評価されていたと思う。

(ペリーも東からでなく、アフリカ周りで南からやってきた)


(5)<幕府>


江戸政権が、軍事政権に由来しているという特色を表す名前だ。

ただ江戸時代を通じて政権側がこの名前を使ったことは一度もなく、時代劇でよく出てくる公儀こうぎという言い方をしていた。幕府の隠密おんみつではなく、公儀隠密。


これは、武官が出兵して現地で臨時に幕を張り屯所とんしょにした場所、という意味だ。

つまり、この言葉には臨時という意味が込められている。

江戸後期の幕府に対抗する尊王そんのう派が好んでこういう呼び方をしていて、尊王派が倒幕して明治維新を成し遂げたことからこの呼び方が一般化したのだ。


現在は、日本史上の武家の棟梁政権のうち、長が征夷大将軍であるものという意味で使っている。

うん、征夷大将軍も本来は臨時の官職なのだ。


(6)<城>


歴史ファンが大好きな歴史的建造物だね。姫路城とか、松本城とか、犬山城とか、熊本城とか。大坂城や名古屋城は再建されたが、江戸城の天守閣はいつになったら再建するのやら。(天皇陛下が居住しているので無理)


戦国時代以来全国各地に大名権力の象徴、かつ軍事基地として、城が築かれた。城のおひざ元には町が作られ、武士や商人が集められた。

つまり城のある所に、政府ないし各地方の役所、商業の拠点がある。


(7)<大名>・<藩>


ただ徳川氏の江戸幕府は、全国を直接統治したわけでなかった。

戦国時代以来各地方で成長した地方勢力のうち、比較的広大な土地を支配する武士たちに自治を認め、その武士たちを将軍との主従関係により結集するという形を取った。


大名の名というのは、自分の名前のもとに支配するという意味。

小さいものは、所有という意味になる。

大きいものは、農民の土地所有を暗黙に認め農民から税を徴収する<領国>という意味になるのだ。

この結果、大名が統治する領国から納められた税は、幕府には届かず、各大名のふところに入る。

ちなみに徳川氏自体が広大な領地(全国の25%)を支配しているので、つまりは徳川将軍家は数ある大名のうちで最も巨大な大名ということになる。また徳川氏の家臣である譜代大名や旗本も全国各地に広大な領地(全国の30%)を支配しており、これを合わせると全国の過半数を幕府が支配していることになる。

大名の中で最大の前田氏は加賀かが百万石だが、全国総石高の2~5%くらいである。


この諸大名の領地は、明治時代以降、藩と呼ばれる。

江戸時代当時は、各大名を例えば松平まつだいら越中守えっちゅうのかみと呼び、大名の家臣を松平越中守の家中かちゅうと呼び、大名の領地領民を松平越中守支配と呼んだ。

大名個人に付属しているもの、という扱いだったのだ。


(8)<幕藩体制>による全国<支配>


上記(5)(6)(7)で全国を支配する体制を、こう呼ぶ。

要するに、日本の中に300の国が分裂して存在している状態だ。

これをどうやって統一していたかというと、徳川氏の強大な軍事力(旗本八万騎)による威嚇・脅迫による。命令を聞け、さもなくば攻め滅ぼすぞというやつだ。


江戸幕府を倒せという討幕運動のスローガンが、統一して一致団結して海外列強に対抗しようということから、江戸時代の政治体制が分裂状態だったことが分かる。


ーーーその2 支配方針は<禁止>ーーー


(1)<朝鮮>王国は<対馬つしま>藩に一任させる


江戸時代の日本は外国と一切外交をしなかったという印象が強いが、実は外交をぽんぽんやっていた。

その代表例が、朝鮮王国との外交・貿易。

九州の北にある対馬藩が幕府から一任されて外交・貿易をやっていて、対馬藩士や商人・農民が多数(500人から一千人)朝鮮半島に渡り現地に拠点(そこから現在の釜山プサン市ができた)を置いて活動していた。


そして新しい将軍が就任すると、朝鮮王国から500人規模の使節団が渡来し、警護役と併せ二千人の行列が、朝鮮から京都までは船で、京都から江戸までは陸路で練り歩いてやってきた。

江戸時代を通じて、12回派遣されてきた。


九州には他にも有力な藩がいくつかあったのに、なぜ対馬藩に外交が一任されたのか。

これは、先の豊臣秀吉の朝鮮遠征の際に藩主の先祖(宗氏)が交渉役を担っていた経緯から、だろう。

ただ完全な一任ではなく、幕府から派遣された寺僧(仏教寺院が中国語・朝鮮語に通じていた)が通訳と外交文書作成を担当しながら対馬藩を監視していた。


(2)<キリスト教><禁止>


江戸幕府は、この宗教の信仰を禁止しただけでなく、他の宗教に対しても徹底的な統制と管理をした。


キリスト教を禁止した理由は、平等思想なので身分制度を脅かすということ。

ただ仏教も、鎌倉時代には日蓮が幕府から弾圧を受け、戦国時代には一向宗(浄土真宗)が弾圧や虐殺を戦国大名から受けている。


宗教と政治の関係は、古今東西、問題になっている。

政治をうまくいかせるには、人をいかに納得させるかにある。人心をつかめといわれるのは、それだ。

ところが宗教は、人の心からの帰依きえと信仰なので、洗脳されたり信じ込んでしまった人に対しては政治が何を言っても言うことを聞かなくなる恐れがある。政治側は、それを恐れるのだ。


また宗教の中には、独自の軍事力を有して政治権力を奪い取ろうとするものもいる。政治的にもつぶしておきたい勢力なのだ。

戦国時代のキリスト教の布教活動は、スペインやポルトガルの侵略と背中合わせの心理攻略作戦だった。

江戸初期にも、伊達政宗(領内に多数のキリスト教徒を抱えていた)がスペインに使者を送り、幕府からスペインと同盟して謀反するのではと疑われたというのもあった。


仏教に対しては、人を各<宗>派に登録し村にある<寺>を盛り立てる<だん>家集団に組織する、という戸籍制度兼宗教管理に使っていて保護しているように見えるが、巨大勢力だった本願寺を東西に分割し互いの対立を陰から煽って仲間割れさせるという姑息なこともやっていた。


(3)<参>勤<交代>


江戸幕府は全国を直接統治せず、諸大名に分割支配させる体制を取っていたので、この諸大名に反抗されてはひとたまりもなかった。軍事力で勝っていたとしても、勝負は時の運だからね。

現に幕末、薩摩と長州のたった2つの藩に反抗されて、鳥羽伏見の戦いでなぜか敗れ(薩長が錦の御旗を掲げたため徳川慶喜が朝敵の汚名に驚いて戦意をなくした)、江戸の戦いで大村益次郎の巧みな作戦で完敗し、その後短期間で倒されてしまった。


大名同士の結婚や養子は特に厳しく管理し、幕府の許可なくやった場合は容赦なく大名自体を取りつぶす(改易)挙に出た。

初期には、城の修理を勝手にやったといちゃもんを付け関ケ原の合戦の最大功労者である福島正則50万石を取りつぶし、ご乱行が目に余る(乱行はしていないという説がある)といちゃもんを付け将軍の弟(徳川忠長)までも取りつぶして自害させるとかやったため、諸大名が恐怖に震えあがった。


参勤交代(諸大名は1年間江戸に参じ次の1年間は国元に帰りその次の1年間はまた江戸に参じを繰り返す)も、そういった大名監視策の一つだ。

諸大名は、その行き来の旅費や江戸(物価が高い)滞在費用のため財力を消耗させられた。

ただ江戸で流行ったことが次の年には全国各地に伝わり各地で流行したという、情報のすばやい伝播には貢献した。ペリー来航の情報がこれによりあっという間に全国津々浦々に伝わり、全国的な攘夷運動が巻き起こったのだ。


(4)外国<船>の<来航>を<禁止>


江戸幕府の政策の極めつけが、これだ。いわゆる鎖国さこく

特に侵略意図を持っていたスペイン・ポルトガルを警戒した。そのキリスト教布教も同時に、禁止している。


ただこれはみんな誤解しがちなのだが、あくまで鎖国であって、閉国ではない。国を閉じたのではなく、諸大名や商人・農民が勝手に外国と外交・貿易をしないように鎖で縛ったのだ。

だから江戸幕府自身は、鎖国をしていない。諸外国と外交・貿易をぽんぽんやっていた。外交貿易相手を侵略意図を持たない国に限定し、交渉・取引場所を<長崎>に限定して。

朝鮮王国・清・オランダ・イギリスだ。イギリスは、本国の事情により来なくなった。


ただ<オランダ>は、東南アジアの各地で侵略や略奪・虐殺をやっている。

日本に対してはそれをしなかったというだけ。

なぜか。日本を侵略し占領するだけの軍事力を持っていなかったから。

清も、日本に遠征し占領するとなったら莫大な戦費が必要で国家経営が傾く恐れがあったから、やらなかったというだけだ。

徳川氏政権も、海外からは強力な軍事政権として認識されていたからね。

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