4 16世紀から17世紀半ばの、東アジア
参考:山川出版社「歴史総合 近代から現代へ」P26~27
目次
時代と地域
中国と周辺諸国
各国
東北部
商人・貿易・利益
軍事政権
日本
満洲人
ーーーその1 時代と地域ーーー
今回は、1501年頃から1650年頃までの150年間の、東アジア情勢についての話だ。
つまり、第1回・第2回と同じ時代の話。
ヨーロッパ人が、大航海時代でアジアにやってきた時代だ。
前回も同じ東アジアの話だが、ヨーロッパ人がまだやってきていない(ちょろちょろとは来ている)時代だ。
くどくどとしつこく書いているが、時代と地域をしっかり把握するのが歴史話のそもそもの大前提だから、辛抱してくれたまえ。
ーーーその2<中国>と周辺諸国ーーー
(1)各国
中国は、いつの時代も東アジア地域の要。面積・人口が最も大きい国だ。
この中国の周辺に、諸国がある。
東の海上には、<日本>。
東の陸続きの半島には、<朝鮮>。
現代だと南東の沖合に、台湾(中華民国)。
中国本土の中華人民共和国政府は、この国を独立国として認めていないけどね。
南には陸続きで、東南アジア諸国がある。
侵略されたりして中国の影響を最も受けたのは、現代のベトナムだ。
西には砂漠やオアシスが広がる地域がある。
中央アジアと呼ばれる地域で、現代は中国領になっているところと、ロシアなどの諸国があるところがある。
北には、モンゴル高原がある。13世紀にここからモンゴル帝国が出現した。
(2)<東北部>
中国の東北地方である<満洲>は、現代は中国領だが、この時代は領土ではなかった。
女真という名の民族が、古来居住している。
中国の北の諸民族といえば遊牧民という印象が強いが、女真は農耕民(正確には、農耕・牧畜・遊牧民)だ。
これは、けっこう重要な認識だ。
女真が過去に作った国家として、唐の時代の渤海、宋の時代の金があるが、どちらも比較的安定して長く存続した国家だ。中国文化も完全に受容して発展した文化を作れたのは、中国の漢人と同じ農耕民だったからだと思う。
ーーーその3<商人><貿易><利益>ーーー
ヨーロッパ人がやってきたことで、この時代のアジアは全般に商業・貿易が活性化した。
中国の明王朝は閉じこもって民間貿易を禁じて朝貢貿易だけにしてしまったが、東アジア海域は商人の船が多数行き交っていた。
確かに海賊が横行したわけだが、その海賊の実態はほとんどが商人出身だったという。
これは中世の西ヨーロッパをたびたび襲った北欧のヴァイキングと、事情が似ている。ヴァイキングは、実は商人でもあった。
相手が弱いとみれば襲いかかって略奪し、手ごわいと見ると対等の取引をするという、そういうことだ。
これは、当時やってきたヨーロッパ人たちも同じなのだ。
商業の基本は、自分の持っている物よりも良い物が欲しい!もっと欲しい!できれば安く手に入れたい!タダで手に入れたい!だ。
これが高じると、力づくで奪い取る方向に行く。
商業は、人の飽くなき欲望の表れといえる。
資本主義は、人類の欲望の帰結である。この意味で、社会主義・共産主義は理想論にすぎないことが分かる。
中国は閉じこもってしまったが、明王朝の国内では歴史上最高の商業活性化時代を迎える。
商人たちは、日本や朝鮮と堂々と密(?)貿易をやっていた。
朝鮮も閉じこもり傾向だったが、日本の商業・貿易は活性化していた。
ーーーその4<軍事政権>ーーー
(1)<日本>
ヨーロッパ人がもたらした新兵器・鉄砲(火縄銃)により、日本に強力な軍事政権が誕生した。
<豊臣秀吉>の政権だ。
全国統一時のその軍事力は、実戦経験豊富な兵数50万人と、鉄砲50万丁といわれる。
当時の中国王朝・明の軍事力と、ほぼ同じ規模だ。火力的には、日本軍が上回っていたといえる。
よく歴史ドラマで、秀吉が朝鮮遠征や中国征服計画を発表した時にみんな無謀だと大反対したというシーンがあるが、それが大嘘だとはっきり分かる。
秀吉が頭がとち狂って途方もない夢を見たと後世の人たちは言うが、上記のリアルの軍事力を見ればそれは夢ではなく現実味を帯びていることが分かる。
この軍事力なら、当時火力を持たず総兵力20万だった朝鮮王国に対しては圧倒的な強さ(現に半島全域を瞬く間に占領した)だ。
明王朝とはほぼ対等だが、戦法・戦術しだいでは勝利の確率が高かった。日本軍は実戦経験豊富なため、かなり有利な情勢だったのだ。
もちろん秀吉の全国統一過程は、純粋に軍事的な勝利というわけでなく、戦う前から政治的経済的に圧倒的だったり、政治策謀的に一枚も二枚も上だった(徳川家康との戦い)結果だ。
また互いに同じ言語、同じ宗教、同じ文化を持つ同一民族同士の争いだった。
海外の、言語も宗教も文化も違う他民族の国家をたとえ軍事的に征服しても、その後の統治は困難を極めただろう。準備不足だった点が、次に話す満洲との違いだ。
さらに対等の軍事力の場合は、地の利が物を言うということもある。(水上の戦いで日本側に不利になった)
なお、明治時代以降の日本が植民地化した台湾や朝鮮を比較的安定的に統治できた理由は、現地の言語や宗教・社会・文化に対する相当に深い準備研究と理解があってこそだった。
一概に日本語や日本文化を強制する政策をとったというわけではない。
(2)<満洲人>
女真が作った金(宋代の金と区別するため後金と呼ばれる)という名前の国家が、成立していた。
これが、後の<清>王朝の母体になる。
清は、中国歴代王朝の最後と位置づけられるが、それは漢人国家ではなく満洲人が支配層の頂点に立つ国家だ。
そして清の皇帝は、中国皇帝というよりも、国内5民族を代表とする多民族を包括支配する東アジア統一帝国の帝王だった。
この清、その前身である満洲人国家・後金の基本的な政治・社会体制は、軍事組織にあった。
近年の研究によると、その軍事組織は日本の江戸幕府に激似していると分かっている。
日本では、戦国時代に各地で地方統一戦争が繰り広げられ、その過程で主従関係に基づく軍事組織ができた。
それは、軍事だけにとどまらず、従来の守護大名が作り上げた官僚組織をそっくりそのまま巧みに継承した。
さらに、中央の天皇や貴族の伝統的な権威を味方にすることで、安定した政治体制を作った。
そこでは、戦国大名が非常に強力な独裁的な地位を持っていた。織田信長の、自らの神格化ともいえる行動や、反抗した家臣に対する容赦ない態度がその例だ。
それでいて下部組織では、官僚によるしっかりとした事務組織ができていた。
この帰結が、江戸幕府の幕藩体制だった。
そして前述したとおり、満洲人は遊牧民ではなく農耕社会であり、さらに中国文化と長年接して100%受け入れ取り入れていた。(それが高じて、後には満洲文化自体が失われてしまうけど)
後金の軍事力の規模は中国軍に比べるととても少なく、中国本土を征服したのは偶然の結果だが、その後の統治が非常に巧みで300年近く存続する安定した王朝を築くことができたのだ。
まさに、江戸幕府の成立過程とよく似ている。