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3 14世紀半ばから15世紀の、東アジア

参考:山川出版社「歴史総合 近代から現代へ」P26

目次

時代と地域

朝貢関係

  上から目線外交

  与える外交

明王朝

貿易

  

ーーーその1 時代と地域ーーー


時代は、1350年後頃から1500年までの、およそ150年間。


前々回・前回の時代が16世紀以降だったのに比べると、さかのぼっている。

これは、この前の時代の東アジアが、モンゴル帝国という非常に強大な遊牧民国家に席巻されていた事情によるのだ。

この1350年頃にはモンゴルがようやく衰えて、東アジアでは漢人の中国国家が復活する。


この次の16世紀になると、西アジア・南アジア・東南アジアと同じくヨーロッパ諸国の人が多数やってくる。

しかしそれまでの<中国>を中心とした東アジアの国際経済情勢が独特だったので、アジアの他の地域とは全く異なる様相になるんだ。


<東アジア>とは、現代でいうと、<中国>、朝鮮、日本、モンゴルに当たる地域。

あと、周辺の特に東南アジアや、西アジアとの境界である中央アジアも、関連して触れられることが多い。


ーーーその2<朝貢関係>ーーー


この東アジアには、独特の国際関係<朝貢>があった。

これは、<中国>に成立した王朝が、日本・朝鮮や東南アジア・中央アジアの<周辺諸国>に対し臣従を求めたものだ。


(1)上から目線外交


これは、明らかにおかしい。圧倒的な軍事力で攻めてきて征服してきたわけでもないのに、他国に服従を求めるというのだ。

いくら強大な帝国といっても、リアルの力なしに他国に対し上から目線とは何様だ?


中国に隋という王朝があったとき、日本から使者として派遣された小野妹子おののいもこは臣従の拝礼を拒んだという。

妹子を派遣した聖徳太子も、日出ずるところの天子、書を日昇る処の天子にいたす、という臣従でなく対等関係を求める国書を妹子に持たせている。

上から目線に憤慨したからに違いない。

明治時代の日本使節の副島種臣そえじまたねおみも、臣従の拝礼を拒否し、立礼で押し通した。


その臣従の拝礼のしかたが、三跪九叩頭さんききゅうこうとうの礼だ。

ひざまずけ!でひざまずき、頭を打て!で地面に頭を打ちつける。打ちつけるときは、音を鳴らすくらいに打ちつける。頭打ちは3回。これをワンセットとして、3回繰り返す。

拝礼する姿は、平伏を通り越して、おしりを持ち上げて頭を下に降ろすというもので、非常に屈辱的な姿だ。

清王朝に敗北した朝鮮王が裸足で長々と歩かされたあげくこれをやらされたという話は、韓流歴史ドラマで印象的に描かれ韓国国民を憤慨させている。


もちろん中国王朝側には、周辺諸国を圧倒するだけの国力と財力がある。もし臣従しなければ攻め滅ぼすぞ!という圧力がある。

だからこそ周辺諸国は恐れをなして、対等でない外交関係を結ぶのだ。


ただ中国王朝がリアルに軍事力を行使した時の、中国側の負担は実はかなり重い負担になるのだ。財政は一気に悪化し、政治腐敗が進む。

上に書いた隋王朝は、高句麗への遠征(しかも敗戦した)の負担が影響して王朝自体が滅んでしまった。

それゆえに、中国王朝はリアルに征服をしない。口だけで周辺諸国を臣従させるという外交になるのだ。

これは実は、かなり危うい外交といえる。ときおり、中国のそういう事情を見透かした周辺国が、脅しに屈さず拝礼にも来ない、それでいて国境付近の中国住民から略奪するということが起こる恐れがある。


(2)与える外交


この<朝貢>外交には、裏がある。

その書いた字のごとく、<周辺諸国>が貢物みつぎものを<中国>皇帝に献上するわけだが、中国はこれに対しお返しをする慣例になっていた。

そのお返しの量が、とんでもない。貢いだ物の量の、数十倍!?


バレンタインデーのお返しであるホワイトデーは、もらったチョコレートの価格の2倍から3倍といわれている。

これでもかなりの理不尽なのに、朝貢された中国は数十倍返しとか・・・

ちなみに、ふるさと納税の返礼率は30%。


つまり朝貢は、見た目は臣従、屈辱的で中国の上から目線だが、実態は中国が周辺国に対し一方的に<与える>状態、必死にひざまずいている状態といえる。

それでも、征服して統治する負担よりは、はるかにましだったのだ。

建前と本音が、あまりにもかけ離れているという。

大盤振る舞いをするのは、我が国はこれだけ懐が深いんだ?恐れ入ったか?という状況を作り出したいというのも、ある。日本でも、豊臣秀吉が諸大名に黄金をばらまいたのがそれだ。


日本からの遣唐使船は、行くときは荷物が少なくて、帰るときは4隻に満載の荷物だったわけだ。行くときはあまり遭難せず、帰路で遭難することが多かったのは、船が重すぎて操船が難しかったというのもあるだろう。

室町幕府も屈辱的だと言って朝貢(勘合貿易)を拒否った足利氏の将軍もいたが、結局そのあまりのうまみの大きさに再開せざるを得なかった。


ーーーその3<明>王朝ーーー


中国の歴代王朝の名前は、時系列順に次の通り。

夏・殷・周・秦・漢・三国(魏・呉・蜀)・晋・五胡十六国・南北朝・隋・唐・五代十国・宋・元・明・清

分裂した時代もある。


明王朝は、最後から2番目、14世紀半ばに成立し、17世紀まで存続した。

日本でいうと、室町時代・戦国時代・安土桃山時代・江戸時代初期である。豊臣秀吉が朝鮮半島で戦った中国軍は、明軍だ。


この頃の朝鮮は、いわゆる氏朝鮮、朝鮮王朝時代である。

朝鮮の歴代王朝名は、三国(高句麗・百済・新羅)・新羅・高麗・朝鮮。

最後の朝鮮王朝は、14世紀半ばに成立し、20世紀初めまで存続した。豊臣秀吉が遠征し、日本が植民地として併合したのは、この朝鮮王朝だ。


ーーーその4<貿易>ーーー


朝貢関係といういびつな状態ではあるが、ともかく東アジアのこの時期は各国間の貿易が盛んだった。


ただ明王朝は朝貢貿易以外の民間貿易を規制していたので、これに不満な民間人は海賊行為や密貿易をやっていた。

海賊はこのころ倭寇わこうと呼ばれていたわけだが、その実体は日本人は少なく、中国人がほとんどだったという。

自分の国の国民が海賊をやらかしてるのに他国人の名で呼ぶとは、いやはやさすがというべきか(笑)。認めたくない!というわけだ。


日本も江戸時代、鎖国をしていたわけだが、密貿易(抜荷ぬけに)がとても多くてしかもその黒幕が西日本の有力藩たちだった。

けっきょくその密貿易の利益で力を付けた西南雄藩が、江戸幕府を打倒することになった。

文中< >は、参考教科書の記述のうちキーワードと思われるものを引用した語。

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