表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

2 16世紀以降の、東南アジア

参考:山川出版社「歴史総合 近代から現代へ」P25

目次

時代と地域

やってきたヨーロッパ諸国

  ポルトガル

  スペイン

  オランダ

  イギリス

ヨーロッパ諸国の来航目的は

  真の目的

  貿易利益

  憧れ

域内貿易

貿易拠点

  マニラ

  マラッカ

  アンボイナ

  アチェ

船の建造

ーーーその1 時代と地域ーーー


時代は、<16世紀以降>。つまり前回と、ほぼ同じ時代。

この時代についての、前回の話の続きということだ。

なお以降という語には、その時期と次の時期という意味が込められているので、16世紀以降というのは16世紀と17世紀の200年間という意味だったりする。


地域は、<東南アジア>。前回は、西アジアと南アジア。

前回と同じ時代の、異なる地域の話だ。

ムガル帝国の、さらに東の地域の話。

現代の国名でいうと、フィリピン、ベトナム、ラオス、タイ、カンボジア、ミャンマー(ビルマ)、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ブルネイに当たる。


ーーーその2 やってきたヨーロッパ諸国ーーー


4か国の人たちが、やってきた。

時系列順でいうと、まずポルトガルがやってきて、次いでスペインがやってきた。その後、オランダがやってきて、イギリスもやってきた。


(1)ポルトガル


16世紀にやってきた。

さらに足を延ばして中国にたどり着き、マカオに拠点を置いた。

そしてさらに北を探っていたら、たまたま1543年に日本の種子島たねがしまに流れ着いた。その船には、鉄砲(火縄銃)があった。これが鉄砲伝来だね。

東南アジアでは、インドネシアに拠点を置いていた。


(2)<スペイン>


16世紀、ポルトガルに対抗する形で、やってきた。

ポルトガルは、この国の西に隣接する国。かつてはイスラームを追い出す国土回復運動レコンキスタで共に戦ったわけだが、達成するとライバル関係となってアジア進出を競い合ったわけだ。

ポルトガルが東行きインド経由でやってきたのに対し、スペインは西行きアメリカ大陸経由でやってきた。西からこの地域に到達する最初の地点が、フィリピンだった。フィリピンに拠点を置くこととなった。


(3)<オランダ>


元はスペイン領(正確にはハプスブルク家領)だったのが、16世紀後半に独立戦争のあげく独立した。

その勢いで、一気に世界に羽ばたいたのだ。

17世紀のインドネシアにやってきて、ポルトガルを追い出して拠点を置いた。


さらにオランダ人船長ヤン=ヨーステン(日本名はヤヨウス。八重洲やえすの由来)の商船が1600年日本に漂着し、徳川家康と親しくなった。その後も、鎖国政策を取った江戸幕府とただ一つ外交・貿易関係を持ったヨーロッパ国家となった。

ん?鎖国しているのにオランダと外交?貿易?

まあこれは日本史でやっていると思うが、鎖国は閉国じゃないということだ。


スペインとは、うまくみ分けできた。


(4)イギリス


正確には、イングランド。

当時のイギリスは、南のイングランド王国、北のスコットランド王国の2国に分かれていた。


16世紀後半にスペインと大海戦を戦いスペインの無敵艦隊を打ち破った勢いで、17世紀にアジアにやってきた。

中国の香港を拠点にした。


ヤン=ヨーステンの船の航海長を務めていたのが、イギリス人のウィリアム=アダムズ(日本名、三浦按針)だった。

ウィリアムも徳川家康と親しくなり、その後イギリスは江戸幕府と外交・貿易関係にあったのだが、本国で革命騒ぎがあったこともあり手を引いた。


ーーーその3 ヨーロッパ諸国の目的はーーー


(1)真の目的


ヨーロッパは、東南アジアのちょうど地球の裏側に当たる。そんな遠いところから、航海技術も発達していないのに命がけで苦労してやってきた。

それには、命をかけるほどに大事な目的があったはずだ。

その目的とは?

欲望を満たすため。

身もふたもないね。オブラートに包めと叱られそうだ。でもこれが真実。

残酷な内容があるとR15にしているのは、こういうことだ。歴史学習は、きれいごとでは済まされないのだ。


何の欲望?

物(資源)が欲しい、人が欲しい、土地が欲しい。

行き過ぎると、強盗・殺人・拉致らちをやらかすことになる。

スペイン人が中南米のインカ帝国などでやった大虐殺は有名だが、オランダ人もイギリス人もこの東南アジアで上記犯罪のオンパレードだ。先住民を追い出したり皆殺しにして島を占領するというのは、普通にやっていた。


(2)<貿易利益>目的


貿易をやったというのは、先住民が多数住んでいるところにやってきたヨーロッパ人が少数という状態、多勢に無勢だったからやむをえずだったのだ。

江戸幕府が極端に警戒して鎖国政策を取ったのも、今思えば正しい判断だったと思うね。


キリスト教を布教する目的というのも、多勢に無勢だからリアル侵略できないので、せめて心を侵略しようということだったのだ。それで精神支配して、ゆくゆくはリアル侵略を達成しようという企てだった。

豊臣秀吉が真っ先にこれに気がついて突然禁教令を出したわけだ。さすが人たらしの天才だ、人の心をよく分かっている。


(3)<東>への憧れ


マルコ=ポーロが東の端に黄金の国ジパングがあると紹介してから、東の方角はヨーロッパ人の憧れの的となった。

15世紀に東方への道をオスマン帝国が塞いでから、その憧れはさらに激しくなり新たな航路を開発しようとする大航海時代を引き起こした。


アフリカの南を回ってたどり着いた<インド>には、巨大建築のムガル帝国が存在した。それに腰を抜かしながらさらに進んだ先に、東南<アジア>があった。熱帯の豊かな産物に、ヨーロッパ人は狂乱した。

そしてその先には、目指す日本と中国があった。

日本史では誤魔化されているが、世界中の冒険野郎の最終目標は日本だった。それは現在も変わっていない。世界の大国たちは、日本を常に狙っている。


地動説に基づけば地球は丸いから、西へ行けば東に行けるのではないか?

コロンブスが目指したのはあくまで東であり、だから到着した島をインドと呼んだのだ。西インド諸島。先住民の呼称インディアン。


日本は最終目標で、とりあえずその途中にあるインドを狙おう。ムガル帝国はまだ健在だが、欧州諸国は虎視眈々(こしたんたん)とその衰えを狙う。

本来のインドは、東インドと呼ばれた。

そしてインドネシアの呼称も、インド地方の一地域の島々という意味だ。


ーーーその4<域内>貿易ーーー


東南アジアとその周辺海域だけで貿易を完結したというもの。

現代でいうと、ヨーロッパのEUの加盟国同士の貿易が、互いに関税をかけないでやっているというのが代表例だ。


現代の例えば日本の貿易だと、自動車を米国に輸出し、米国から小麦やトウモロコシを輸入するというそういうのを連想できるだろう。

これは域内貿易ではなくて、域外貿易だ。

これは、互いに輸出できる物を持っているから、輸送費をかけてでもその交換をしようというものだ。


ところが片方が輸出できる物がない、ただ買う一辺倒という場合は、損をするだけである。輸送費がかさんで持ち帰って売るにしても、高価格になって売れないということもある。

この当時の東南アジアに進出したヨーロッパ諸国が、まさにそれ。

当時のヨーロッパは非常に貧しく、豊かな文化で目の肥えたアジア人に売れるような特産品は何も持っていなかった。


そこでヨーロッパ諸国が採った方法が、東南アジア域内の各地を互いに中継して貿易するというやり方だ。

東南アジア各地には、オスマンやサファヴィー朝、ムガルのような巨大国家が存在せず、諸島部にはマラッカなどの都市国家が点在する状態だった。

そういう各都市国家の特産物同士を交換する中継に、ヨーロッパ諸国の機動性のある小型船が一役買ったというわけだ。


中継貿易の基本は、A国で品物を安く仕入れて、B国で高く売る。

B国人にしてみれば高いじゃないか?と文句を言いたくなるだろうが、船で運ぶ労力をオランダやスペインが肩代わりしてくれるのだからあまり文句は言えない。

ただ東南アジアでは他に、中国人や日本人も域内中継貿易で活躍していたので、ヨーロッパ人はこれに参入したというわけだ。


主な貿易品は、インドの綿花、中国の生糸、日本の銀、東南アジアの香料など。


ーーーその5 主な貿易拠点ーーー


(1)<マニラ>


現代も、フィリピンを代表する都市だ。当時は、港町だ。

前から日本・中国から東南アジアにやってくる船の、最初の立ち寄り先として交通の要衝だった地点で、スペイン人がやってきて都市化した。

ここを拠点に、太平洋を東にわたる遠洋航路も作られていく。


(2)マラッカ


マレー半島のインド洋側つまり西岸にある。

インド方面から東南アジアにくる船が立ち寄る先、という地理的位置だ。

ここには西のスマトラ島にあったシュリーヴィジャヤ王国の王族が新たに建国した港市国家が、あった。主に中国(明王朝)の協力を得て(中華思想を持つ中国に朝貢臣従する形だったけどね!)中継貿易で繫栄していた。


(3)アンボイナ(現代名アンボン)


現代のインドネシアの東端、ニューギニアのすぐ西にある小さな島。

この島は、いわゆるモルッカ諸島・香料諸島のひとつだ。

この地域の島々は、ニクズク・チョウジの一大産地だった。


ニクズクはナツメグともいい、料理のスパイスや油に用いられる。

チョウジはクローブともいい、料理のスパイスやタバコの原料に使われた。

どちらも、薬としても有用だ。

このスパイスがヨーロッパ人を熱狂させた。

皆さんも、カレー好きでしょ?スパイスを入れると、料理が格段に美味しくなるからね。食欲増進、身体の活性化といいことずくめ。(ただし人によってはアレルギー症状が出ることもある)


この島は、16世紀はポルトガル、17世紀はオランダの拠点となった。

オランダ東インド会社の本拠地も置かれた。


(4)アチェ


スマトラ島の北端にあった小王国。ここも、インド方面から東南アジアにやってくる船が最初に立ち寄る先という地理的位置だ。

この王国は、イスラーム国家でもあった。

スマトラの特産品は、コショウ。スパイスの代表的なものだ。


ーーーその6<船>ーーー


この東南アジア海域で当時最もすぐれた航海技術を持っていたのは、中国だ。

ジャンク船という、竜骨(背骨のようなもの)のない梁構造の底の浅い軽い帆船で、狭い海を航行しやすく速度も出た。


これに対しスペインが当地で開発したのが、ガレオン船。

大航海時代に冒険野郎たちが使った3本マストの小型帆船にマストを追加して改良した、縦長の高速大型船だ。

日本でも江戸時代初期に、日本人によって建造され支倉常長がその船でアメリカ大陸に渡っている。

後で出てくる話(ヨーロッパ諸国が中国や日本に足を延ばした話)をここでやっているのだが、歴史学習というのはこういうものだ。むしろ後で後でという態度をとると理解が浅くなってしまう。出てきたら関連話でそこでやるのが歴史学習のコツだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ