2 16~18世紀のヨーロッパ諸国
参考:山川出版社「歴史総合 近代から現代へ」P30~P32
目次
中世から近世へ
世界
清王朝
オスマン帝国
ヨーロッパ
国家像
神聖ローマ帝国
権力のありか
イギリス
フランス
国々
近世ヨーロッパ諸王国
君主
国内
諸侯(貴族)
国際関係・戦争
主権国家体制
現代の先例
議会
革命
君主政と共和政
海を求めたロシア
ーーーその1 中世から近世へーーー
16~18世紀のヨーロッパ時代のことを、一般には近世ヨーロッパと呼んだりする。あるいは、かつての用語だと絶対主義とか絶対王政のヨーロッパとか呼んだりしていた。
これらの以前の用語は、ヨーロッパ諸国の政治組織に注目しているもの。
現在の主権国家体制という呼び方は、ヨーロッパ諸国間の国際関係に注目しているものだ。
これが発展して、現代の世界諸国の国際関係になっている。
以前は世界史といえば、世界各国それぞれの歴史だったのが、今は世界各国の互いの関係の歴史ということだ。いわゆるグローバルな視点というやつだ。
(1)<世界>
この時代のヨーロッパ諸国には、現代も世界の各国で存在する制度や現象の、最初のものが出てきた。
具体的には、現代日本の政治で採用されている議院内閣制の最初のものがイギリスで現れ、現代の各共和国の最初のものがアメリカやフランスで現れ、現代の世界平和を大きく脅かしている国であるロシアが現れた。
(2)<清>王朝
この時代の東アジアに存在した、大帝国である。
東ヨーロッパに登場したロシアが、17~18世紀に領土を東に広げていったときに接触し、外交関係を持った。
ただ当時の清王朝はあまりにも強大すぎて、さすがのロシアもうかつに手を出せなかった。
(3)<オスマン帝国>
この時代の西アジア・東ヨーロッパにまたがって存在した、イスラームの大帝国だ。
16~17世紀が最盛期で、ヨーロッパ諸国がまともに太刀打ちできないほどの強大な帝国だった。
しかし17~18世紀になると帝国に衰えが見え始め、これに真っ先に挑んだのがロシアだ。オスマン帝国と繰り返し戦争して、その領土(例えばクリミア半島)を徐々に徐々に少しずつ奪っていったのである。
(4)<ヨーロッパ>
では、この時代のヨーロッパ諸国の国際関係を見てみよう。
この前の時代、中世のヨーロッパには、神聖ローマ帝国という古代ローマ帝国とそっくりの名前の帝国が君臨していた。
この帝国について、ヨーロッパの政界人は実は、古代ローマ帝国とほぼ同じ価値のある存在だと認識していた。
話すと長くなるがぶっちゃけて簡単にいうと、ヨーロッパの政界人の脳内には「古代ローマ帝国のようにヨーロッパに君臨し諸国に対し上から目線で命令したい」という根強い願望がある。
この思考は、現代のヨーロッパ諸国の政界人の中にも変わらず、ある。
この後の時代、ナポレオンがヨーロッパ全土の征服を目指したこと、ヒトラーがヨーロッパ全土支配の野望を持ったこと、ムッソリーニが古代ローマ帝国の復興を目指したこと、フランスとドイツのEU覇権争いなどなど、いっぱい出てくる。
神聖ローマ帝国は、まさにこの古代ローマ帝国復活願望の体現なのだ。
古くは、フランク王のカール大帝が「ローマ皇帝になりたい」と教皇に言ったところ「よっしゃよっしゃ」と許可してくれて、神聖ローマ皇帝はその子孫というわけだ。もちろん交換条件としてキリスト教の保護というのがあった。
なお、中世の東ヨーロッパにはビザンツ帝国と現代では呼称されている帝国があったが、当時は「古代ローマ帝国の東半分の生き残り」つまり古代ローマ帝国そのものだと自他ともに認識されていた。
中世ヨーロッパには、東西2つのローマ帝国があったのだ。
16世紀になると、神聖ローマ皇帝の権力が揺らぎ弱まった。
これを見て、それまで抑圧されてきたヨーロッパ諸国(イギリス、フランス、オランダ、ドイツ国内の領邦など)が一斉に発言力を強めたのだ。
とくにフランスの発言力が強大化した。
イギリスは、国内で革命騒ぎがあったのだ。
17~18世紀になると、東から新興のロシアが登場しヨーロッパ諸国との関係ができた。
(5)<国家>像
現代では国家というと、国境があって、そのなかに領土・領空・領海があって国民が住んでいるというイメージだろう。
しかしこのイメージで、古代・中世・近世のいわゆる国家たちを捉えてはいけない。
近世以前の国家は、君主個人の持ち物。
土地は、君主の所有物。
政府高官は、君主の家臣。
住んでいる人は、君主が自由に使っていい人たち、つまり奴隷。身体を拘束せずある程度自由を許していても、くそ高い税金をむしり取り、生かさず殺さず搾り取る。
法律は、ない。「俺様の言うことが法律だ!」どこぞの審判みたいだ。
国家同士の戦争は、君主同士の喧嘩。戦争に駆り出される民衆は、たまったものではない。
(6)<神聖ローマ帝国>
中世の西ヨーロッパ諸国(諸王)の上に君臨した、古代ローマ帝国の残りかす。
いちおう代々東フランク(カール大帝の子孫、現在のドイツが支配領域)王が継承したが、その血統が絶えた後は、ドイツの有力諸侯たちが自分たちの中から選出して決めていた。
中世末以降は、ドイツ東部オーストリアの辺境領主であるハプスブルク家の当主が事実上相続することに。
ドイツを支配したことから、ドイツ第1帝国とも呼ばれる。
ちなみに第2帝国は、近代のプロイセンがドイツを統一して作った国家。
第3帝国は、ナチスのヒトラー総統が作ったファシズム国家。
皇帝がドイツ東部の辺境領主だったので、ドイツ中心部の領主たちがいつも不満を持っていて皇帝と対立を続けていた。
16世紀に宗教改革の本場となって皇帝の力が弱まり、ドイツは300人超の領主たちが分割統治している状態になった。
イギリスやフランス、オランダ、ロシアなど16~18世紀に国家としてまとまった国々に後れを取ったことが、ドイツの後の悲劇につながったのだ。
(日本とイタリアもこの時代に分裂状態だったので、ドイツとほぼ同じ運命をたどってしまう)
(7)<権力>の在処
中世の西ヨーロッパで最高権力者といえば、神聖ローマ<皇帝>とローマ教皇だ。
つまり各民族の最高者である王様たちは、その下に置かれ抑圧されていた。
皇帝と教皇の権力が弱まると、代わって各王の権力が強まった。
ドイツは、残念ながら300人超の小さな領主たちによって分割されてしまった。
しかし諸国の国内には、王様と対立する勢力があった。貴族だ。
貴族が強い国では、貴族たちが一致団結して国王に反抗した。その反抗の手段として使われたのが、議会だ。
反抗が成功(つまり革命)した国では、議会が国王に代わって権力を握る。
ただ長年の国王統治の伝統も無視できず、「一緒にやっていこうや」と国王と議会貴族が妥協する国も現れた。国王が一部の議会貴族を味方に取り込み、その貴族に国政を任せるというもの。これが、議院内閣制の始まりだ。
(8)<イギリス>
正確には、イングランド王国だ。
18世紀末に北のスコットランド王国、西のアイルランド王国(現在の北アイルランド)と合同し、これが日本でいうイギリスになる。
ここは、中世から貴族の力が非常に強く、たびたび王に反抗してきた。
貴族たちは議会を組織し、近世になると王を処刑する革命を一時行ったりした。のち貴族と国王が妥協し、議院内閣制となった。
(9)<フランス>
中世、イギリスとの百年戦争(フランスの英雄ジャンヌ=ダルク)を経て国王の力が増大し、近世にはルイ14世という強大な王が現れた。
しかし国王の力が強すぎた結果、18世紀末には貴族や民衆の反抗が激化し、国王を処刑して王権力を完全に打倒してしまうことにつながった。
(10)<国々>
中世のヨーロッパには、「国は一つ、ローマだけ」という意識が強かった。
ゲルマン人の目には、古代ローマ帝国があまりにも強大すぎたのだ。
もちろん古代だから土地全般の支配でなく、都市だけの支配だったわけだが、それにしても広大である。
北は現在のフランス、ドイツ、イギリスまで及び、西はスペイン、南は北アフリカ、エジプト、西はギリシア、トルコ、シリア、パレスチナ、イラクにまで及んでいた。現代の目からしても、広大すぎる。
しかもローマ帝国は、法律が整備され、水道橋や舗装道路などインフラ設備がものすごい。
ゲルマン諸族の国家建設の巨大なモデルになった。
しかしあまりにも影響を受けすぎて、どっぷりと浸かってしまった。名前が同じとはいえまったく別の国である神聖ローマ帝国にやすやすと屈し、その風下に置かれてしまったのだ。
神聖ローマ帝国に陰りが見えたこの16世紀以降に、ようやく西ヨーロッパ諸国は自立していく。
ーーーその2 近世ヨーロッパの諸王国ーーー
(1)<君主>
この16~18世紀の各国を率いたのは、君主たちである。
君主といっても、名称はいろいろある。
普通は、王だが、他には公とか侯とか伯とか。
皇帝も2人いる。ローマ教皇も、教皇領の君主だ。
このうち王は、中世初期のゲルマン諸国を建設し政治を主導した者の子孫(養子や別家継承も含む)で、伝統的な権威を持っている。国を率いたときもあれば、貴族に突き上げられて弱かった時もある。
日本史でいうと、天皇に当たる立ち位置だ。
公・侯・伯は、王と封建関係・主従関係がある貴族領主のことだ。
本来は王の家来だが、力をつけて王をしのぐようになるとその支配する領土は独立国のような様相を呈した。
神聖ローマ皇帝はドイツ王でもあったが、ドイツ国内は300超の小さな独立国(それぞれに君主がいる)が存在して、皇帝の力が弱まると完全に分裂状態になった。
16~18世紀の各国の君主たちには、共通の特色がある。
国内の貴族領主の<力をおさえ>、他国と外交し、国家の主権者として振舞う。
その典型的なのが、フランス国王だ。
イギリス(イングランド)国王は、残念ながら貴族に反抗されて首チョンパされたり、貴族に実権を奪われたりした。
(2)<国内>
国内各地を直に支配しているのは、中世には封建領主だった貴族領主たちだ。
しかし国王の力が強まり、地域同士の交易や国同士の貿易が盛んになると、貴族領主たちの領民に対する圧迫力が弱まる。
これは、国王自ら国民を直接支配(課税)するという状態だ。
貴族領主は、いちおう各地を支配していたが、その分け前を国王から与えられるだけの存在と化した。宮廷貴族(つまり官僚)化した。
ただ領民である一般国民が、自由になったわけではない。
中世以来の身分制度が厳然と存在し続けていて、領民は中世の農奴時代とそれほど変わらない状態だった。むしろ税額が増えていた。
つまりは貴族領主からの今までの課税分にプラス国王の取り分が加わり、依然としてキリスト教会からの課税もある。
身分制度は、フランスが特に厳しかった。
(3)<諸侯>・<貴族>の<力をおさえて>
「侯」の字から分かる通り、国王の家来たちである。国王と主従関係を持ち、国王から領地を与えられ領民を支配する。
16~18世紀のヨーロッパ諸国では、宮廷貴族化したがその力はまだまだ侮れない状況だった。
ドイツでは、300人超の諸侯がそれぞれ独立国状態になった。<領邦>と呼ばれる。
フランスでは、諸侯貴族たちが団結する組織として議会が作られたが、国王によって<力をおさえ>られた。
イギリスでも、宮廷貴族と農民出身の地主たちが協力して議会を作った。
こちらは、国王を圧迫して憲法を認めさせたり、首チョンパして抵抗できるだけの実力をつけていた。
オランダでは、貴族領主たちがそれぞれに国家を作っていたが、それらが連邦という形(ネーデルラント連邦共和国)で一つにまとまった。
支配地は、現在のオランダとベルギーに当たる。
連邦内の統治は各国君主たちが協議して決めていた。それはまるで古代ギリシアや古代ローマの共和政にそっくりだった。
(4)<国際><関係>は<戦争>
国際という言葉は、国同士が国境を接し合ってせめぎ合っている状態である。
つまり、それは互いに平和を保とうとしている状態ではなくて、互いにしのぎを削っているという状態なのだ。
この16~18世紀のヨーロッパ諸国同士の関係が、まさにそれなのだ。
この状態はその後も続き、現代に至っている。
そこでは各国の君主は、互いに対等である。
ドイツの小さな領邦君主でさえ、イングランド国王やフランス国王と対等に物を言える立ち位置だった。(もちろん対抗できる程度の実力が必要なので、オーストリア領主、プロイセン領主、バイエルン領主、ザクセン領主くらいか)
互いに平和を保つ関係ではないので、むしろ戦争が非常に多かった。
フランス国王ルイ14世が各国に長年しかけた戦争とか、ドイツの三十年戦争とか、だ。
イギリスは、世界各地でヨーロッパ諸国と植民地を奪い合う戦争を起こしている。
ロシアは、ヨーロッパ諸国とは戦争せず、イスラームのオスマン帝国にしきりに戦争を仕掛けていた。
(5)<主権国家体制>
16~17世紀のヨーロッパの政治状態を指す。
教科書ではタイトル名になっているが、それほど重要な言葉というわけではない。こんな言葉を知っていても、中身を知らなければ意味がない。
それで、その中身は上に書いた全てだ。
ーーーその3 現代制度の<先例>ーーー
(1)<議会>
議会の役目は、国王が放っておくと勝手にあれやこれやとやり出し国民に大迷惑をかけることをやらかすので、それを抑制することにある。
これを難しい言葉で、「立憲主義」と呼ぶ。
立憲というと、現代日本のとある政党名を連想する人もいるかもしれないが、本来は上のような意味なのだ。
そして誤解のないように言っておくが、議会と民主政治とは必ずしもイコールではないということ。
議会政治と民主政治は、まったく別のものだ。民主政治が、議会制度を採用しているというだけのこと。
ちなみに、民主政治には議会制度の他に選択肢が存在する。
全国民が集う集会、それを使う手もある。いわゆる直接民主制である。
(議会による民主政治のことを、間接民主制と呼ぶ)
これは、古代ギリシアの小規模な都市国家が採用していて、現代では無理だと言われ続けてきたが。
実は、現代にはインターネットというものがあり、つまり全国民が参集する組織を作ることが可能なのだ。(政府はそれを作ると権力を失うので、作ろうとしない)
16~18世紀の西ヨーロッパ諸国に存在した議会のメンバーは、貴族・領主・地主である。
(貴族は、宮廷専任の官僚的なもの。領主は、国王から封建領地を与えられた家来。地主は、農民の富裕層。貴族と領主は兼ねることが多い)
貴族と議会が結びつかないという人が多いだろうが、ここはしっかりと認識したほうがいいね。
議会の本来の役目は国王を制御することにあるのだが、国や時代によっては国王のイエスマンになることが少なくない。
イングランド王国は議会が強かったが、フランス王国の議会は弱かった。
(2)<革命>して民主政治へ
現代では民主政治は当然のように思っているかもしれないけれど、民主政治はただ黙っていれば自然にそうなるというものでない。
君主政治なり貴族政治なりを力づくで打倒して、初めてそうなる。
日本では革命が起きなかったが現代のような民主政治になったのは、明治時代の欧米列強からの圧力によるものだ。
「民主政治にしないと列強として認めないぞ?侵略して植民地にするぞ?」と再三脅されて、当時の旧武士中心の非民主政府は民主政治を導入したのだ。第二次世界大戦後の徹底した民主化も、敗戦して占領してきた米国軍によって強制的に導入されたものだ。
脅迫とか強制とか酷いが、そうでもしないと民主政治が実現しないことの証明だ。非民主政府が民主政治を極端に嫌っていることがよく分かる。
18世紀末のアメリカ・フランスでは、民主政治の実現が革命的に起こってしまった。
アメリカは、イギリスからの植民地支配に対し戦争を起こし、イギリス人を多数殺害して民主政治を奪い取った。
フランスは、国王や王妃や貴族を多数首チョンパする流血まみれの民主政治実現となった。
当時は悲惨だったろうが、現代にとっては感謝としか言いようがない。
その犠牲の上に、現代の民主政治があるのだ。
(3)<君主政>対<共和政>
ここでも注意することは、共和政イコール民主政治ではないということだ。
共和政というのは、君主ひとりが全てを決めて国家を統治するのではなく、多数の人が協議して決めて国家を統治するしくみだ。
その多数の人は、王族でもいいし貴族でもいいし、民衆でもいい。
古代ギリシアや古代ローマの共和政は、多数の貴族の協議による政治だ。
18世紀末のフランス革命で実現した共和政は、貴族や大商人が主要メンバーの共和政だ。建国時のアメリカも似たようなものだった。
その後、いろいろとあって現代のような民主政治の共和政、つまり<共和国>になった。
このことから、たとえ君主制であっても民主政治になることもあると分かる。
17世紀のイギリスで成立した立憲君主制が、それだ。
立憲つまり議会と、君主が手を組んで一緒に国家を統治しようという政治体制だ。
これは、妥協の産物といわれる。既得権益を失いたくない君主と、権力を手に入れたい貴族の利害が一致し、国家権力を山分けした。
その後、議会が民主化していったが、今もなお国王が居る。現代イギリスの正式国名は、グレートブリテン=北アイルランド連合王国。
現代日本の政治体制も、この立憲君主制の発展型だ。
明治時代に、天皇を頂点とする朝廷公家と、旧武士勢力(藩閥)メインの議会が互いに妥協して政権を作った。
その後、議会は民主化されるが、天皇を象徴として存置して旧時代の保守勢力と妥協しているのが、現代の日本皇国だ。
(日本の正式国名は日本国だが、君主が居る政治体制に注目するとこうなる)
(4)<海>を求めた<ロシア>
この17~18世紀には、ヨーロッパの東で新たな事態が発生する。
新興国ロシアの登場だ。
海に面していない内陸の君主国だったのが、ヨーロッパ諸国の海外貿易の情報を知り、自らも世界への憧れを抱いた。
しかし世界に進出するには、海港が必要だ。
北のバルト海北部に領土を広げたが、冬は凍ってしまう。
そこで冬も凍らない港の獲得が、国家的な急務の課題となった。
これがロシアの、現代に至る他国侵略政策の始まりである。
ロシアにとって最も近い、冬に凍らない海は黒海だ。
オスマン帝国と戦争して、クリミア半島を手中に収め黒海を我が物にしようとした。
その次は、バルト海南部の港を求めた。バルト海の南半部は、冬も凍らない。ここは、現代でいうとエストニア・ラトビア・リトアニアのバルト3国の地域だ。
さらに東の海、太平洋(その付属海であるオホーツク海・日本海)を求めることになる。国力はまだ小さかったので、清王朝との国境に至っただけだ。




