異世界転生させてもらえない
会社のスーツのままひざまずいた女は、怯えながら周囲を見回した。おかしくなりそうなほど、まっしろで無機質な空間だった。
小さなオフィスくらいの広さである。置かれているものといえば瀟洒な椅子くらいで、ゴミを見るような眼差しの少女がそこに座っていた。
金髪のロングに青くて冷たい瞳。面倒くさそうに開いた口には八重歯が生えていた。白い衣をまとい、頭には月桂冠のようなものを乗せている。左手で肘掛けに頬杖をつき、右手には謎の杖を持っていた。
女の耳には未だ急ブレーキの音がこびりついていた。死んでもなお恐怖は癒えなかった。
「あなたはいったい誰ですか」
女はそう尋ねた。少女は頭にかかった月桂冠を正しながらこう吐き捨てる。
「おまえらでいうところの神さまだ」
「というとやはり私は死んでしまったのですか」
「ああ、死んだぞ、だからどうした」
女は茫然と自分の手相を眺めると「あの、すいません、ひとつだけお願いしたいことがあります。後生ですので」と震えながら口にした。
「なんだ気持ち悪い」
「異世界に……転生させてもらうことはできないでしょうか……」
「は? なめるなよ、このぼけなすが」
神さまは舌打ちをして、女の頭を杖で殴った。激痛でうずくまる女、目には涙。そしてもう一発、今度はわき腹を突いた。
「おまえを轢いたトラックの運転手さんの顔を覚えているか」
「すみません覚えてないです。あのときはとても気が動転していて」
「一生分の罪を背負わされた顔をしていたぞ。信号無視したどこかのゴミカスのせいで」
「ごめんなさい、急いでたのでつい。いつもはちゃんと……」
「噓をつけ。今月だけで何回クラクション鳴らされたんだ。このメス虫」
「ほんとにすみません」
女はひどく怯えながら、パトカーに連行される犯罪者のように、両手ですっぽり顔を覆った。
「しかも、轢かれそうになるとき、毎回舌打ちしてただろう。私にはお見通しだ。かみさまアイをあなどるなよ」
「ごめんなさい。近頃はストレスが溜まっていて」
「言い訳するな。ぼたすぞ」
神さまは怒りで少しずつ赤くなっていき、女はだんだん青くなっていく。この説教はいつまでも続くように思われたが、女がいきなり、
「うぅ、ぐすっ、うわぁあぁぁん」
どこのどんなスイッチが入ったのか号泣しはじめた。あまりにも急すぎる出来事に神さまは杖を投げ捨て、たまらなくなって耳を塞さいだ。
「やめろ、わめくな、いったいなんのつもりだ、おまえはでっかい小学生か」
「……たくないです。……たくないです。死にたくないです」
「あ?」
「異世界転生がダメなら、どうか生き返らせてください。死にたくはないのです。ほんとのお願いです」
「ダメだ、ルール違反だ。勝手なことをすると私が上から怒られる」
「お願いです。これからどうなるかわからなくて怖いんです。私の記憶はどうなるんですか。私はどこに連れていかれるんですか。私はまだ二十代。未知の恐怖に耐えるにはまだ若いのです。それに、やり残したこともたくさんあります。事故死なんてあんまりです。たすけて、たすけて」そして最後にぼそりと呟いた。「いくら罪人といえど、少しの慈悲くらいはあってもいいと思います……」
「おい、ほんとにいい加減にしろよ。もう一回どついてやろうか、まじで」
「どうか生き返らせてください。信号無視もしません。これから業を背負って行きていく覚悟はあります……」
そう言い放つと、女は止んだ吹雪のように黙り込んだ。気まずい空気がただよう。神さまは目を逸そらしながら落とした杖を拾いなおした。休憩の直前に、こんな狂人の相手を任された神さまは、じっと困り眉を浮かべるしかなかった。
弱々しく杖をつく。湿気った砂時計のような体感時間は、それからしばらくたって、やっと円滑に流れだした。神さまが口を開いたのだ。なにかひらめいた様子だった。
「異世界転生がしたいといっていたな。おまえ」
「えっ? あ、はい」
「よく考えたら、おまえにぴったりの転生先があった」
女は一瞬とまどったが、
「ほんとうですか。ほんとうだったら、嬉しいです」
すぐさま舞い上がった。
「あぁほんとうだ。新たな世界でやりなおせるのだぞ。喜ぶがよい」
それから神さまは続けた。「手配は一瞬だ。私が合図したら、おまえはたった数秒目をつぶるだけでよい。それだけで異世界に飛べる。いやならやめてもいいのだぞ」
「大丈夫です、いきます! いきます!」
「そうか、話がはやいな。じゃあ目をつぶれ、ざこ」
「はい!」
女は目をつぶった。すると意識が薄らいだ。手に持った杖でぐるりと円を描く神さまを見たのを最後に、女は深い眠りについてしまった。
──それから意識が戻るまで、どれほどの時間が流れたのだろう。りんごが木から落ちるくらいの、ほんの一瞬だろうか。もしくは一つの星の文明が崩壊するくらいの長い時間だろうか。真実は神のみぞしる。いや、神すら知らないのかもしれない。
視界がひらけた先には、本当の異世界が広がっていた。フィクションでしか見たことなかった眺めに女は息を吞んだ。
道ゆく人は古風な装いをしている。オーガのようなモンスターがうろついている。そして何より目を惹いたのが、遠くにはだかる針の山だった。