一.親子水入らず
「茶々、元気そうで何よりじゃ」
聚楽第内、母上の部屋として用意されていた場所に腰を落ち着かせたあと。母上はそう微笑んだ。約一年ぶりの再会だが、相変わらず美しく気高い様を保っている。
「母上こそお元気そうで何よりです。安土からの移動、お疲れだったでしょう。押しかけてしまって申し訳ございませぬ」
「謝ることではない。私も江もそなたに早う会いたかったゆえな」
そう会話をかわし、私は江に目を向けた。
「江、久しぶりじゃな。息災であったか?」
「はい、姉上」
問いかけに頷く江。十五歳になって、その顔からは幼さがすっかり抜けた。だけど、その笑顔は昔と何ら変わらない朗らかで明るいもので。一年離れていても変わらない妹の姿が嬉しかった。
「それにしても、思うていたよりずいぶん産み月が近いようじゃな。もうそろそろではないのか?」
母上が訊いてくる。私はお腹をさすり、「はい」と頷いた。産み月は来月になるとのことだが、いつ産まれてもおかしくないという。
「初めての懐妊で不安であろう。こうして近くにいることができるのだし、不安なことがあらばすぐに呼ぶがよい」
「ありがとうございます、母上」
前世があるとはいえ、妊娠出産は初めての経験だ。身ごもったと分かったときから正直かなり不安だったし、、母上が聚楽第にいてくれるのは本当に心強かった。
「ともあれ、秀次様とも仲睦まじいようで何よりじゃ。……こたびの懐妊、秀吉はなんと申しておる?」
「非常に喜んでおられました。男子でも女子でもよいから、健やかな子を産んでくれと仰せになられ……正直、意外にございました」
「それはそうじゃな。男子を望んでおるであろうに」
秀吉とおね様の間に子はない。だからこそ後継ぎとして甥である秀次様を据えているわけだが、豊臣家の天下を保つためにはその次の後継者がいることが必要不可欠だ。だからこそ、懐妊を伝えたときに私も秀次様も秀吉からは男子を産むよう言われると思っていた。だが、実際に言われたのは「元気な子を産め」とだけ。婚姻直後も、子を産むようには言われたが男子を産めとは言われなかったのだ。
「……まあおそらく、おね様のことがあるからであろうな」
「おね様の、ですか?」
「ああ。子を成せなかったことで、おね様への風当たりが強かったはずじゃ。子を成せぬのは女子のせいにされるゆえな。秀吉は多くの側室を持ってはおるが、心から大切にしているのはおね様のみじゃ。おね様がさせられたような思いを、人にさせるような男にはなりたくなかろう」
母上はそう言って小さく息を吐いた。確かにそれはそうだと私は納得したが、どうやら江は違ったらしい。忌々しげに顔を歪め、吐き捨てるように反論を口にする。
「猿がそのような気づかいをするはずがございませぬ。あれには人の心などないのですから」
「よさぬか、江。以前から何度も申しているであろう、今の私たちがこうして穏やかに暮らせているのは秀吉のおかげなのじゃ。長政様や勝家様のことで秀吉を憎む気持ちは分かるが、それとこれは別じゃ。そなたももう十五になったのだから、言ってもよいことと言ってはならぬことくらい弁えよ」
「……」
母上に叱られても、江は不満げな表情を隠さなかった。末っ子だからと私も母上も無意識に甘やかしてしまったのだろう、どうにもこの子はまだ精神が幼い。
「……とにかく」
意固地になっている江にこれ以上何を言っても響かないと思ったのか、母上は咳払いをして話を変えた。
「私も秀吉と同意見じゃ。とにかく元気な子を産んで、そなたも元気でいなければならぬぞ」
「はい、母上」
この時代、出産は平成・令和以上に命がけだ。母親も赤ちゃんも揃って命を落とすことも現代以上に多い。今お腹にいる子供を無事に産んでも、私が命を落とす可能性だってある。
「秀次様にも同じことを言われました。――いえ、何よりも私が無事でいてほしいと」
「まあ」
江が目を輝かせた。
「秀次様は、本当に姉上を大切に思ってくださっているのですね。やや子よりも姉上を優先してくださるということでしょう?」
「まさか、そなたの口から惚気を聞くことになろうとはな」
母上までもがそう言いだして、私は慌てた。
「惚気ではありませぬ!」
「惚気でなくて何だと申すのじゃ?」
母上の声音にはからかいの色が混じっている。江が便乗して「姉君にも文でお伝えしますね」なんて言い出して、私は恥ずかしいやら照れくさいやらで真っ赤になってしまったのだった。
翌月。私は秀次様との第一子を出産した。初めての出産は本当に痛くて痛くて、三人産んだ母上や、計八人産んだ史実の『江』のすごさを私は思い知ったのだ。
「茶々、よく頑張ってくれた。礼を申すぞ」
駆けつけてくれた秀次様は、布団に寝ている私の手を握って涙を流してそう言ってくれた。反対側に敷かれた赤ちゃん用の小さな布団には可愛い赤ちゃんが寝ていて、本当に自分がこの子を産んだのかと少し不思議な心持ちになる。
「なんと愛らしい姫君だ。きっとそなたに似て気立てのよい美しい姫に育つ」
「……気が早うございますよ」
これを親馬鹿と言うのだろう。控えていたよねがさっと立ち上がり、赤ちゃんを抱き上げて秀次様の腕に移した。初めて抱く我が子に秀次様は本当に嬉しそうな表情を浮かべていて、それを見ているだけで嬉しくなる。
「茶々よ。この子の名を考えたのだが」
「もう考えてくださったのですか?」
「ああ。男子だったら鶴松と名付けようと思っていたのだ。鶴も松も長寿の象徴、健やかに育ってほしいと思うてな」
その名前にドキリとした。鶴松、それは史実で夭折した秀吉と『茶々』の長男だ。おそらく秀吉も今の秀次様も同じ願いを込めて初めての子供にそう名付けたのだろう。
「それは姫であっても同じだ。ゆえに、『鶴』と名付けたいのだ」
「鶴……」
その名前は不思議としっくりきた。
鶴。鶴姫。それが、私と秀次様の娘の名前。
「よき名前かと存じます」
「そうか。ではこの子の名は鶴じゃ。叔父上にもお伝えせねばな。ああ、もちろんお市の方様やお江にもすぐにでも会いに来ていただこう」
嬉しそうにそう言ってそわそわしだす秀次様。
「まだお生まれになったばかりにございますよ、秀次様。お方様にはゆっくりしていただかねばなりませぬ。鶴姫様も、あまりにもたくさんの方に見られては気疲れしてしまいまする」
控えていた産婆にそう言われ、秀次様は「すまぬ」と肩を縮める。鶴の誕生に浮ついているのがよく分かって、けれどそれはこの子の誕生を心から喜んでくれているからということも分かって、私は今までにないくらいの幸福を感じていた。




