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翌朝は、どうしてかいつもよりは頭がすっきりとした状態で目覚めた。今回目覚めてから、無気力が続いているようで体も心も思うようには動いてはくれない。だから、正直食事も以前の自分が食べていたよりも食べられてはいなかった。その為あっという間に痩せただけでなく筋力も落ちたし、少し体を動かすだけで疲れてしまうようになっていた。
ただ、以前は…目が覚めるたびにすぐに自死を繰り返していたから、食欲がないとか、筋力が落ちたとか、そういったことを感じる間もなかっただけ。
それでも、湖までなら子供でも歩いて行ける距離だから、と行くことを決めていた。
朝食を食べた後、厨房に行きお昼の食事の仕込みをしていた料理人に湖に出かけるから持ち運べるランチを用意してほしいと頼んだ。それから部屋に戻って、子供が背負うための可愛らしい猫のぬいぐるみを鞄にしたような背嚢に、ランチと飲み物を入れた小瓶、それから軽く摘まめるような焼き菓子も少し入れた。
母と祖父母に、散歩に出かけると言うと、ずっと家の中に引篭もっていたからか、とても喜ばれた。気を付けて行ってくるんだよ、とも言われ…少しだけ、心がザワザワしてしまったけれど、頷いてから出かけた。
§
久しぶりに歩く湖へと続く森の小道は、とても明るかった。整備されていて、危険な動物が出てくることのない道だ。のんびりと、目的地へと歩いていった。途中で体の疲れを感じて、立ち止まったり、焼き菓子を一つ摘まむことはあったけど、でも随分昔に歩いた記憶通りの森がそこにあって、それが今の私には癒しだったのかもしれない。
無事湖に着いた。途中、ウサギやリスといった小動物を見かけはしたが、小動物はすぐに逃げ去ってしまうから私が見るのはいつも残像に近い背中だった。
辿り着いた湖は、対岸も近くに見えるくらいには大きくなく、一周するのも難しくないほど小さい。実は小さい。…池?
私は休憩をしてから、湖畔ものんびり歩いてみようと思っていた。大きな木の木陰に座り込む。疲れた体には日陰になる場所がありがたかった。森の中にいれば吹き渡る風も適度に湿度が飛ぶのか爽やかで涼やかだった。
しばらくは一人で過ごせる。何も考えずに、このまま朽ちていけたらいいのに、そう思ってしまう。
背嚢を下ろし、湖に近寄ってみると湖底は澄んだ水で満たされているのがよく分かる。
海のように砂浜はなく、一歩踏み出せばそこは水の中というたったそれだけで湖と陸地とを分けている。だから湖の中をよく見ることが出来た。
それに、小魚たちが群れを作っているのも見えた。
「…私も魚だったら、良かったのに」
そうだったなら、一人でこんな思いを抱え込むこともなかったのに。孤独に慣れることもなかったのに。何より死ぬことばかり考えなくても良かったはず…だ。
いつもより、生きることを考えるような思考が混じったようだった。だけど、もう繰り返したくない。死ぬのも疲れた。最期にしてほしい。
母のことも、祖父母のことも大好きだ。それはこんな自分になってしまっても、絶対に変わらない。だけど私自身はもうボロボロだった。
「神様、もし本当に…あなたがいるという、のなら、私をもう二度と人間に……しないで、くださいませ。もし、次また目覚めるのなら…殺されないように…お願い、します」
誰に伝えたい言葉なのか、神と呼び掛けていながら決して神に届けたい言葉ではなかった、と思う。ただの愚痴でしかないのだから。でも、その呼び掛けを聞いてしまった人間がいるだなんて思いもしなかった。
「…マーガレット。殺されないようにって、どういうことかな?」
私はすぐ近くにトレイシー兄様が来ているだなんて気付きもしなかった。だって、私の背後でその声が聞こえたのだから、ただただ驚くしかなかった。未だ湖の中を覗き込んでいる私には、自身の背後に立っている兄様が水面に映っていることにやっと気付いた。そして、言葉を聞かれたことに、どう誤魔化せばいいか、懸命に考え始めたところだった。
「そ、れは…」
言葉に詰まる。兄様のほうへ顔を向けられない。
言えるはずのない何度も何度も繰り返されてきた婚約者から与えられる死、そしてそれを避け続けた自死。
言えるわけがない。そんなこと、誰も信じるはずがない。
地面についていた手に少し力を入れれば体が傾いていく。咄嗟に体が湖へと落ちようとしたような気がした。
もしかしたら、信じてもらえない自分の経験に、気味悪いものを見たような視線を向けられるのが容易に想像出来たからだろうか。
それとも、昨日も…教会での事で失望させたばかりなのに、また同じように失望させてしまうかもしれない、と思ったからだろうか。
いや、それ以上に嫌悪されてしまうのではないか、と考えてしまったからだろうか。
死んでしまおうと思っているのだから、そんなこと関係ないのに。
「ちゃんと教えてほしいんだ。マーガレットが何かとんでもないことを抱え込んでるのは、ミモザ様達もずっと感じてる。
僕だって、昨日の君を見て…正直、嫌われてなければいいやって思い直すだけでなんとか気持ちを切り替えてきた。
だけど、二度と人間でいたくない、なんておかしいよ。次に目が覚めたらって…どういうこと?」
湖に映る兄様は、酷く戸惑ったような顔をさせてはいたけど、バランスを崩しかけた私の体を支えて、湖へ落ちることがないようにしていた。もう、黙っていることなんて出来ないんだろうか。どう言えば誤魔化せる?
そんなふうに、必死に考えているとトレイシー兄様は、湖を覗き込んだままでいる私を抱き上げて、背嚢のある場所へと連れて行った。そして、木陰に入り私を下ろし、兄様はその隣に座り込む。私の手を取った兄様は、強く引いて私を自身の膝の上に乗せた。そのまま私は兄様の膝の上で彼に掴まったまま過ごすことになった。小さな私では…でも、きっと大人になったとしても、トレイシー兄様には力では勝てないのは変わらないのかと、ため息をぐっと堪える。
「…信じてもらえない、と思うから…信じて、って言わない。だから、きっと……気が狂ってるんだって、考えると…思う。別の意味でなら、そう…かもしれな、い。
だから、私が言うことで…私を拒絶するのは、別にいい、よ。ただ…お母様達には……伝えな、いで。それだけは、お願い…」
「うん、分かった」
「あり、が…とう」
私は逃げるための言葉を繕うだけの気力もなかった。僅かな時間だったけど、考えることすら疲れてしまった。だから、今まで自分が幾度となく繰り返し婚約者に殺され続けていて、死んだらまたアイビー伯爵家で与えられた自室で目覚めていたことを話した。そして、婚約者に殺されることが耐えられなくなって、絶望して、自ら死ぬことも繰り返したことも。婚約者に殺されるというだけで、トレイシー兄様は酷く狼狽えていた。でも、私が自死を繰り返したと告げた時には、おおきく目を見開いて、まるで自身のことのように涙を落とすのを見た。私の方が驚いてしまっていた。
そして兄様は、壊れ物を大事に扱うように、私をそっと優しく抱きしめた。
「辛かった、ね。一人で耐えるのは、怖かったよね」
私は兄様が伝えた事を信じてくれたのか、分からなかった。でも、ただ寄り添ってくれていることだけは理解出来たから、ただ力なくではあったけど、頷いていた。
「マーガレットのお母様…ミモザ様がね言ってたんだ。マーガレットが壊れてるって。心がどこかに行ってしまってるって。いつも笑って元気にしていたのに、突然壊れたって。
だから、何かあったんだってそこは判ってた。あの小川に落ちた日までは変わりなかったのに、あの日から後は全く違ってしまったって」
トレイシー兄様は母達から真っ先に疑われていたらしい。私に何かしたのではないか、と。
兄様は男の子で私は女の子だから。私に何かを強要して、その為に私の心が壊れたんじゃないか、と。その強要したことが何だったのか、母達が何を想像したのかは…ぼんやりと理解出来た。
繰り返した記憶の断片でも婚約者ではない人に絡まれたことがあった。でも、酷いことをされる前に誰かに助けられている。未遂で終わっている。実際に何もなかったけど、知らない男に押さえつけられる恐怖は消えることがないまま、今でも残っている。…助けてくれた人が誰だったのか、お礼も言えないままだった。
トレイシーという少年は、自身の欲の為に動く人間じゃなかった。今でも私のことを気遣ってくれている。
「マーガレット、それならもう僕と婚約しよ? そうしてしまえば、アイビー伯爵よりもカラーのほうが侯爵家だから家格も上だし、マーガレットがアイビー伯爵家に引き取られることも、不誠実な婚約者と婚約させられることも避けられる。何より、今住んでる場所から離れなくて済むはずだよ」
「どういう、こと?」
「まだマーガレットは幼いし、男爵家の孫だからアイビー伯爵家よりも立場が弱い。でも、侯爵家の僕の婚約者になればアイビー伯爵も無理矢理引き取ることが出来なくなるはずだ。
お父様に婚約をお願いして、それが叶うようであれば、カラー侯爵家としてマーガレットを守れるから。ずっとコキア男爵領にいられるはずだよ」
私は、アイビー伯爵家に引き取られるところから全て自身の死に繋がっているのを、トレイシー兄様が理解してくれて、それを避けるために婚約することで回避しないか? と言ってくれていることに気が付いた。
正直な気持ちとしては、戸惑いの方が大きくてすぐに頷けないことだった。でも、望まない死を避けることが出来るかもしれない、と考えたら…頷いていた。
「もし、どうしても僕との婚約が嫌で無理だって言うなら、その時は一緒に考えよう? だから、相談してほしい。マーガレットのことを大事にしたいのは本当だし、何よりも守りたいんだ。
マーガレットの死を避けることが出来るんだったら、何でもするよ。だから、僕を利用していいよ。マーガレットのいない世界なんて僕にとっては、意味がないから」
少し困ったような、でも照れ臭そうに笑う兄様は、年相応の少年らしい笑顔を向けていた。私は、兄様を見上げながら小さく頷いて、言葉を返す。
「ありがと…」
この後、どうして湖に来たのかを問われ、入水自殺でもしようかと考えていたと何も考えずに答えたせいか、酷く叱られた。それと同時に、私がどれほど追い詰められていたのかと、苦しそうな顔をしていた。
私は、自分のせいで兄様が苦しそうにしているのが、なんだかとても嫌で、申し訳なくなって、兄様にギュッと抱き着いた。
驚いた様子だったけど、私の小さな手を優しく撫でてくれた。その後すぐに今度は兄様の方が私をギュッと抱き締めた。
「あったかい、ね」
「そうだね。マーガレットを絶対に守るからね」
「うん」
料理人に頼んだランチを二人で分け合って食べてから、二人で仲良く手を繋いで歩いて帰ったのだった。
 




