トレイシーの献身 1
トレイシー視点になります。
カラー侯爵家の三男として生まれた僕は、家族に恵まれて育ったと思う。仲の良い両親と二人の兄は二人揃って優秀で、自慢の兄でもある。
そんな家族からは大事にされているという自覚がある。そんな僕ではあるけれど、末っ子で、自分よりも小さな子供というのは接したことがなかったから、コキア男爵家に生まれたマーガレットと初めて会った時は、とても衝撃を受けた。
マーガレットが生まれて四ケ月経った頃、いつも夏になると領地に戻る兄達と一緒にカラー侯爵領に戻るのだけど、この年は家族全員で一緒に戻っていた。
父と母の幼馴染みで、コキア男爵家当主の長女のミモザ様が女の子を出産されたのはお母様から聞いていた。
ミモザ様はお父様達二人の少し年下の幼馴染みで、二人にとっては大切な妹のような存在なんだそうだ。
そんなミモザ様が赤ちゃんを生んだということもあって、両親も今回揃って領地に戻ってきている。
家族全員でコキア家に訪問すると、赤ちゃんに良くないから、というので本当は両親だけが赤ちゃんに会いに行くことになっていた。でも、僕は自分よりも小さな子供に会ったことがないから、小さな子に興味があって、我儘を言ってしまった。
「おとう様、おかあ様、ぼくも赤ちゃんに会いたいです」
「小さな赤ちゃんに会うから、静かにしていなくてはいけないのよ? ずっとよ? 我慢できるかしら?」
「できます」
「本当に? 約束出来る?」
「できましゅ!」
思わず力んでしまって噛んでしまったけど、両親は仕方ないというように笑って僕も一緒に連れていってくれた。そして、僕は忘れもしない僕の天使と出会うことになった。
§
「よくいらっしゃいました。どうぞこちらへ」
コキア男爵邸には前にも来たことがあった。カラー侯爵領の領館から近くて、馬に乗れれば今の僕なら一人でも来ることが出来そうだと感じるくらいには近かった。
出迎えてくれたのはコキア男爵だった。とても穏やかで優しそうな人で、両親ともにこやかに話をしている。
案内してくれたのは、応接間。少しそこでミモザ様の様子や赤ちゃんのことを教えてくれた。二人はとても元気にしていることと、ミモザ様は赤ちゃんのお世話で今の時間は少しお休みしているということだった。
その赤ちゃんのことだけど、名前はマーガレットで、ミモザ様そっくりな可愛い女の子だという。
首もすわって、よく笑うようになったとかで、男爵はとても嬉しそうに教えてくれた。僕達が訪ねたのが午後の早い時間だったこともあり、まだマーガレットはお昼寝しているとのことだった。
そんな話をしていた時に、応接間を訪ねてきて人がいて、誰何する男爵に聞き覚えのある声が廊下から響いた。
「お父様、ミモザです」
「もう起きたのか? 丁度いい。早く入りなさい」
「失礼します」
扉の向こう側には以前会った時よりも少しふっくらとした印象のミモザ様がいた。
「お久しぶりです、ロナウド様、ローズ様、トレイシー様」
「ミモザ、お元気? 以前のようにお姉様と呼んでほしいわ」
「はい、ローズお姉様」
「私のこともお兄様と呼んでおくれ。私達にとってミモザは大事な妹だからね」
「はい、ロナウドお兄様。いつもお心遣いに感謝してますわ」
両親とミモザ様は本当に仲の良いお友達なんだな、と思いながら見ていた。そして僕はふと思い出した。
小さな赤ちゃんが貰って嬉しいものが何か分からなかったから、自分が小さな頃から持っているものを考えてみた。そう考えてみれば、小さな頃から身近に置いているぬいぐるみを思い出した。
そこでミモザ様達に会う前に僕の持っているクマのぬいぐるみの友達というネコとウサギのぬいぐるみを店で見かけて、迷った挙句ネコを買って赤ちゃんのプレゼントにすることにした。
僕はミモザ様のところへ近付いて、小さく礼をした。
「ミモザ様、ご出産おめでとうございます。これ…赤ちゃんに用意しました」
「まぁ、トレイシー様。ありがとうございます。…マーガレットの為に用意してくださったのですね! ありがとうございます」
僕と目を合わせるように屈んで話をしてくれるミモザ様は、とても綺麗な人だ。嬉しそうに笑ってお礼を伝えてくれた。
「この子ったら、自分で選んでたのよ。トレイシーが持っているぬいぐるみと同じシリーズのぬいぐるみなの」
「まぁ、素敵だわ。ぬいぐるみ同士もお友達ってことでしょう? トレイシー様もマーガレットもお友達になれると素敵です」
そう言って僕の頭を優しく撫でてくれた。
「そろそろマーガレットが起きる頃じゃないかい?」
「そうですね。一度見てきます。トレイシー様も一緒に行きますか?」
「いいんですか?」
「様子を見るだけですから、まだ寝ていたらすぐに戻ることになりますけど」
「…それじゃぁ、ご一緒させてください」
「ええ。お兄様、お姉様、トレイシー様をお借りしますね」
「トレイシーをよろしくね」
すっかり寛ぎモードに入ってしまった両親は、男爵と夫人の四人で何か話を始めていた。きっと領地のことを話してるのかな。赤ちゃんに会わなくてもいいのかな? と思ったけど、後で顔を見るつもりなのかも、と気付いてしまえば気に留めることでもないか、と思い直した。
「トレイシー様は何歳になられましたか?」
「えっと五才です」
「それじゃ、マーガレットとは五歳差ですね」
他愛ない話をしながらマーガレットの部屋に辿り着くと、ミモザ様は静かにノックをした。中からは侍女が静かに扉を開けて、こちらを中へと招き入れてくれた。
「マーガレットはまだ寝てるかしら?」
「まだよくお眠りです。でも、身動ぎもしておりますから、そろそろ目覚められるのでは、と」
「分かったわ、ありがとう」
そんな会話の直後だった。いきなり赤ちゃんの泣き声が室内に響いた。
「まぁ、ちょうど起きたのね。おむつかしら、それともお腹が空いたのかしら?」
そう言ってミモザ様が赤ちゃんのいるベビーベッドへと近付いていく。僕も遅れて近付いていくと、ちょっと臭う。
「ふふ、おむつを変えなくちゃね。きれいきれいしましょうね」
「お嬢様、私が致しますからお待ちください」
「母親は私ですもの、私にもお世話をさせてちょうだいな」
「ダメですよ! お嬢様はマーガレットお嬢様の乳の準備でもしていてくださいませ」
「…もう。分かりました。それじゃ授乳の準備をするから、そちらはよろしく頼むわ」
「はい。お任せくださいませ」
そんな会話があったものだから、僕はぽかーんとするしかなかったけど、赤ちゃんは今からオムツを変えられて、綺麗になるんだというのは理解出来た。
だから、僕はいくら赤ちゃんとは言っても、女の子の肌が見えるのはよくないな、と思ってマーガレットのいるベビーベッドから離れることにした。
それからミモザ様をふと見ると、ミモザ様の着ている部屋着にも見える普段着の前開きワンピースのボタンを外していることに気付いた。
なんだか恥ずかしくなってミモザ様を見ないように気を付けながら、マーガレットの部屋をながめていると、侍女が「終わりました」と言って、おむつの後片付けをしていることに気付いた。
もう一人いた侍女がミモザ様のほうへ赤ちゃんを抱き上げて連れて行くのが見えた。
赤ちゃんを受け取ったミモザ様は、おむつを変えてもらって機嫌の良くなったマーガレットに母乳を与え始めたようだった。僕はちょっと恥ずかしくて見られなかった。
すっかりお腹がいっぱいになったのかマーガレットが気付けば、縦に抱っこされて背中を軽くぽんぽんと叩かれていた。マーガレットが小さくけふっとゲップをしたところで、ベビーベッドへと戻されていた。
その間にミモザ様はワンピースをすっかり整え終わっていて、僕も安心して顔を上げられるようになった。
それからやっとマーガレットの顔を見ることができた。
「まだ一人ではすわれないんですか?」
「そうね、もう少しかかると思うわ。でも、こうやって寝かせていると寝返りをよく打ってるし、本当によく動いているの。見ていると面白いのよ」
「…何もできないところから、できるようになっていくのを見るのって、きっとうれしいですね」
幸せそうに笑ってマーガレットをあやすミモザ様は、とても綺麗だった。そしてミモザ様に笑みを向けられて、安心しきって無邪気に笑うマーガレットはもっと綺麗に見えた。
多分、マーガレットの瞳の色が虹色に見えたせいだろう。僕はこの小さな女の子が大好きになっていた。この時はまだ小さくて守らなくちゃいけないって思わせる、小さな存在だけでしかなかったけど。