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※血が流れるシーンがあります。苦手な方はご注意ください。
「っ! っはぁ、はぁ、はぁ…っ」
目の前に広がる景色に私は眩暈がした。どうして? 私はさっきまで、大木を背に立っていたはずじゃないの? 訳の分からない混乱状況に陥るのと同時に、自身の胸…心臓のある辺りに手を置いた。
酷く早く鼓動が打つ。
「痛い…。でも、痛くな…い?」
ベッドの上に横になっているのはすぐに分かった。天蓋なんてないただの簡素なベッドだ。でも、質のいい決して安いものでもない。何より私が今見上げている天井は、私が十二歳になった年から毎朝毎晩見上げてきたそれだ。
天井を眺めれば窓のある方向からは、カーテンの隙間をついて入り込む光が薄暗い部屋に朝日が昇ってきているのだと教えてくれていた。
しばらくは早く打つ心臓のせいか、混乱しているからか、とにかくじっとしているしか出来なかった。ようやく心臓が落ち着いてくると、やっと動こうと思えるようになった。
そうして体を起こして、改めて心臓の辺りに手を置いて、目覚めた時よりも落ち着いていることを確認して、そして私は呟いた。
「……生き返った? …それとも夢?」
改めて自分の手を見てみる。少し違和感がある。どこが? 分からない。でも、何かが違う気がする。気にしても仕方ないかと思い、気にするのもやめた。ただ、窓の外が気になってベッドから下りる。下り…る。やっぱり違和感が。
「あれ? 床に足をつけるのって、こんな遠かった?」
そんなことを感じながら室内履きを履いて床に立った。立ってからやはり違和感しかない。こんな視線が…低かっただろうか?
窓へと近付く手前、ベッド脇に置かれた古惚けたドレッサーを通り過ぎる時に見えた自身に一瞬体が強張る。
「髪…こんな短い? どうして? 私髪なんて切ってな…」
ドレッサーの鏡のほうではなく隣に立て掛けてある姿見のほうへと移動し、自身の全身を映すそれを確認して愕然とするしかなかった。
姿見に映る私は、記憶にある腰に届くほど伸ばしていたはずの髪が肩に届くほどしかなく、更に言えば明らかに自分が知っている私よりも幼かった。
そうだ。瞳は光の加減で様々な色に変化するアイビー家の瞳と言われる虹彩を私は持っている。それは変わらない。髪の色もオリーブベージュでお母様と同じ色。幼い頃の丸い印象を与える目やふっくらとした頬も以前の子供らしさそのままだと思った。
そうだ、ちょうど私がコキア男爵家からアイビー伯爵家に引き取られた頃の、まだ幼さを残した顔。最後に見た姿見の中の私は身長が高くなったことで少し屈まなくては頭までは映り込むことがなかったのだと思い出した。
でも、今の私は姿見の中で全身をすっぽり映しながらも、頭の上に余裕があった。
「……夢、じゃないなら。私、この時間に戻ってきたってこと、なの?」
私は絶望しか感じられず、でも、もしやり直す機会を神が与えてくれたのだとすれば、もう一度生き直せるという希望も微かに持つことが出来た。
「夢…なのか、そうじゃないのかは分からないけど、夢みたいな、あの現実味しかないものを避けなくちゃ…」
自分を鼓舞するために呟いた言葉でしかない。でも、言葉にする事でそれを本当にするための力も持つことがあると聞いたことがある。だったら、私はまた死にたくないと思っているのだから、言葉を口にしてもいいと思えた。
窓に辿り着いた後、カーテンを開ける。窓の外は起きた時よりも明るくなっていた。鳥の囀りもたくさん聞こえてきていた。
「今日はよく晴れそう」
私は快晴の空に、僅かな白い雲の浮かぶ早朝の時間に、少しの勇気を必死にかき集めて、自分のこれからをただただ生き抜くことに費やそうと思うのだった。
§
それからの私は夢なのか未来なのか、どちらとも言えないあの嫌な記憶を思い起こしながら、どうすれば婚約者に殺されないで済むのか考えるようになった。そして、アイビー伯爵邸の中で息を潜めるように過ごしていた。
私を殺したのは、婚約者となったクラーク・オキシペタラム。伯爵家の嫡男で私と同い年。私を常に見下していた。そして私を自分の物のように扱う。私はそんな彼が苦手で、あまり親しくは出来なかった。
他にも多くの令嬢達と色々な噂話を囁かれてもいた。そんな婚約者との婚約は十三歳の時に結ばれた。現在の私の年齢がもう十二歳だ。
髪の長さを見れば、私の年齢はまだ婚約が決まる前のはず。だったら、婚約に至らないように何か手段があるだろうか? いや無理な話だ。
婚約者となったクラークはたった一人の子息だったが故に二人の姉妹達からも当然伯爵夫妻からも溺愛され育った。その為に我儘であり、自分の思い通りになるのが当たり前で、そんなクラークが満足するような相手…つまり、従順で大人しく、常にクラークを立てるような、そんな淑女たる令嬢を望んでいて、家格が合って、地味ではあっても淑女として大丈夫だろうというだけの理由で選ばれたのだと聞いた。
要するにクラークの言いなりになりそうな、我慢強そうな娘であれば、誰でも良かった婚約だ。そんな相手に選ばれたのが私だった。
アイビー伯爵家には、当主夫妻、嫡男の従兄、一つ年上の長女と同い年の次女の従姉妹が二人の五人家族で、そんな中に私が引き取られた。どうして二人も女の子がいるのに、伯爵の弟の子供である私が引き取られたのか分からないままだ。以前も、今回も。
本来なら私ではなく、従姉妹のどちらかに婚約の話が来ていたそうだ。でも、我儘なクラークに実の娘と結婚させたくないと伯爵夫妻が考えてもおかしくはないと思う。
だから、私が選ばれた…と私は思っているし、実際そうなんだろうと思う。
「たられば」ではあるけれど、もしクラークが私に対して一度でも愛情の欠片でも見せてくれていたら、本当に違っていたのだけれど。彼が私に見せた態度はただただ私を自分の都合のいい玩具のようにしたいだけなんだと感じるものだった。一度も気遣われたことがなかった。誕生日には確かに贈り物はあったけど、花束や誰が受け取っても無難だろうな、と思えるような物ばかりだった。
婚約者としての交流も月に多くて三度くらいで、いつもクラークが一方的に話をするばかりだった。
早々にそんな婚約者とは話し合おう、理解し合おうという努力をするのをやめていた。それが正解だとか不正解だとか考えるのは無駄だと思っていた。何より私には今となってはもう望むことのない特別な人がずっと心にいるから。
私はただ逃げることしか考えられなかった。私が大人しくしているだけで、クラークの婚約者に宛がわれてしまうのが判っていたから。だったら、逃げようと思った。生きる為に逃げなくちゃ、と思った。
私がかつて住んでいた祖父母のいるあの土地に。でも、結局は連れ戻されてしまう気がするから、逃げるのも多分解決策にはならないだろうと思う。そう思いながら、けれど逃げ出さずにはいられなかった。
どうすればいいのか、今の私では考えられなくて、とにかく生きたい、死にたくないと思い続けた。
ただ…またクラークに殺される未来が待つというのなら、私は一人でも逃げて逃げて生きのびたいと思う。
生きるために必死になる前に、生きることを諦めなくちゃいけないような生き方を強いられるくらいなら。
私がこんな決意をして、祖父母のいる小さな町へ行こうとする度、アイビー家からは出られなくなっていく。まるで誰かが見張っていて、私が外へ出ることすら許さないというようだ。
最初は伯爵邸から出て、街へ行ったところで連れ戻された。買物に行きたかったから、という理由を言えば納得はしてもらえた。次は街よりももっと先、王都から外へ通じる門の近くで捕まり、連れ戻された。祖父母に会いたくなったから、と言えばこれも納得はしてもらえたが、二度と勝手に屋敷から出てはいけないと言われた。
その次はとうとう屋敷を出ようとしたところで部屋へと連れ戻された。庭園に行こうとしていただけだと言えば、花が好きでよく庭園を散歩していたため納得はしてくれたが、何かしら訝っているようだった。
その次には屋敷内しか自由にはさせてもらえなくなっていた。それでも私が屋敷の敷地から逃げ出して、今まで通ったことのない裏通りを目指していると、すぐに伯爵家の騎士達に捕まった。理由はもう聞かれなかった。一方的に部屋から出てはいけないと言われた。監禁状態だった。
監禁状態になる前から従姉妹二人から、嫌味を言われるのは常で、些細な嫌がらせも当たり前の事だった。彼女達の母親…伯母が私のことを嫌がっていたのだから、当然だった。アイビー伯爵当主である伯父や夫人である伯母が率先して何かすることはない。でも、代わりに従姉妹達が嫌がらせをするという形だった。
だから、監禁状態になったのは別段気にも留めることではなかった。ただ、誰が指示したことなのかは、分からない。でも、伯父のそれだと思えば、当たり前にも思えた。
婚約を避ける方法は無理だった。もう明日には婚約者となるクラークと顔合わせだ。つまり婚約に関わる詳細はもうほぼ決められており、双方の家の当主同士のサインで決まるだけだ。
「逃げることも出来ないなんて…。もうあの男と並び立つことしか許されない道にまた投げ込まれたも同然なのね」
私はあの朝は、夢を見ていたと思った。
でも…今は時間が巻き戻って、改めて自分の人生を繰り返しているんだと理解している。最初は混乱もしたし、長い夢を見ていたんだと思いたかったけど。夢を見ていたにしてはあまりに現実的で、やっぱり夢ではないのだと思うしかなかった。
全ての出来事が、全ての夢の中のそれと重なるのをただ確かめるだけの日々を送っていれば、ただただ「生きたい、死にたくない」と願うことすら無駄なことだと思うしかなくて、徐々に諦める気持ちが大きくなっていった。
「また…?」
けれど私は唐突に理解した。
私は気付いてしまった。
この人生を繰り返したのがただの一度だけではないということに。あの日目覚めてから感じてきた既視感、それから同じことを何度も何度も繰り返している感覚、そういうことに。
「…前にも、クラーク様に、刺されて…る」
そう自覚して、自分の胸、心臓の辺り、短剣で刺された辺りを触れる。
異様に汗が出る。喉も乾く。血の気が引く自分に気付く。
鼓動が更に激しくなるのが分かる。止まらない激しく打つ心音が直接耳でも音が拾えるんじゃないだろうかと思えた。
そして、私はどうやって意識を保てているのかも分からない状況に陥っていたと思う。
どれくらい時間が経っていたのだろう。ただ茫然としていた時間は僅かだったのか、それとも長かったのか。
…私は何も考えていなかったと思う。衝動的だと言えば、衝動的だったと思う。
「ああ…私、もう何度もクラーク様に殺されてる。そして、どうやって逃げようとしても、逃げられなくて……。
あの日、長い夢を見ていたのか、それとも時間が巻き戻ったのか、混乱してしまったけれど…もう混乱のしようもないわ」
机の上に置いたままの届いたばかりの手紙は、唯一許された祖父母からのもの。中には、幼馴染みからの手紙も入っていた。その手紙の封を開けるために使ったナイフを自分の首筋に当て、思い切り引いた。
思う以上に強く引いたらしい。私はあっという間に血の海に沈んだ。
その後、どうなったかなんて私が知るはずもない。
キリの付く部分で区切ったため、文章長めになってます。
短い時は短いですが、今回は長いです…(いきなりか…orz)