9
夏の終わり、秋の始まりという時期だった。まだまだ熱い空気を孕んだ昼間は、木陰にいても汗が引かなくて辛いけれど、太陽が傾く頃になるとさすがに雪の多く降る地域だけあって、風も涼しいものに変わっていく。そんな穏やかな空気の時間帯だった。
久しぶりに湖へトレイシー兄様と私の二人でやって来ていた。二人で隣り合って湖の畔に佇んでいる。
「マーガレット、貴学院に入学する前に約束してほしいことがあるんだ」
「トレイシー兄様、何?」
「僕の事は、兄様って呼ばないで欲しい」
「え? だってずっと…ん」
兄様が私の唇に人差し指を当てた。
「嫌なんだ。僕は君の兄じゃない。君の婚約者だ。だから、ちゃんと名前だけを呼んで」
「え…あ、……はい。トレイシーさ、ま」
「様もいらない」
「えー…それは、ちょっと…むずか…んん」
また唇に指を当てられてしまう。
「ダメだよ、僕が君にとっての特別だっていうのを示すためでもあるんだから」
「…う、がんばります。……トレ…イシー」
「うん、よく出来ました」
私は真っ赤になってしまっているであろう自分の顔を隠すように両手で押さえながらトレイシーの言葉を拾う。
「それから…これを、受け取ってほしい」
そう言われ、手を顔から離す。トレイシーが差し出しているのは、小さな布張りの箱だった。
これは…なんだろう? そう思って見つめていると、その箱の蓋を開けて中を見せてくれた。
箱の中は布張りで綺麗に整えられていて、指輪が二つ並んで収まっていた。一つはトレイシーの瞳と同じ色の小さな石がはめ込まれたプラチナの指輪、もう一つは私の瞳の色の。
「指輪なんだ。二つある。一つはマーガレットの分。もう一つは僕の。石の色違いの同じデザインで、指輪の内側には互いの名前を彫ってある。婚約している証として持っていて欲しい。出来るなら毎日身に着けていてほしい。もちろん僕もするから」
「…可愛い。でも…いいの? 私…何も用意して、ないけど…」
彼が結婚をちゃんと考えてくれていて、こんな風に準備をしてくれていたことをとても嬉しいと思う自分がいた。でも、同時に私は何もしてないことに、とても焦ってしまった。だから、声が小さくなる。
すると、トレイシーは笑っていた。それと同時に私の左手の薬指に勝手に指輪をはめていた。もちろん彼自身の指にも。
「はい、これで良しっと。ハッキリ言えば、これは君を他の男達から守る為のものだから、気にしなくていいんだよ。五歳も年齢が違うと貴学院で一緒にいられない。ということは、僕が君を学内で守れないってことになるんだ。だから、せめて…余計な男達を寄せ付けないようにするくらいはしてもいいよね」
とてもいい笑顔を向けられ、少し驚いたけど…少なくとも彼が私の為だと言うのだから、気にしなくていいのかな、と思えた。小さく頷くと、いきなり抱き締められた。
「良かった…。もし僕のこんな気持ちが重たいって思われたらどうしようって、ビクビクしてたんだ…」
「え? トレイシーにい…じゃなくて、トレイシーでも、そんなことがある、の?」
「当たり前だよ。マーガレットの事だったらいつもそうだよ。君を傷付けないように必死だもの」
「あ……あり、ありが…と…」
私はなぜだかとてもドキドキしてしまって、そんな自分に戸惑っていた。そうだ。婚約をしてからトレイシーとの婚約者としてのやり取りは基本的に手紙中心だった。でも彼が貴学院の長期の休みに入れば、出来る限り私を優先した予定を組んでくれていた。そんな状態で、貴学院でも上位の成績を残して王宮文官として迎えたいと言われるくらいの優秀な人材とも言われたらしい。でも、私との婚約が一番大事だから、と文官ではなく小さな領地を持つ領主として生きるというのは彼にとって決定事項だったらしく、他の王宮に仕官する予定の人達から惜しまれ続けたらしい。そして、彼が貴学院を卒業してからはほぼ領地運営のため勉強を祖父や母から学んでいる。その勉強も現在ほぼ問題ないと言われるくらいに大丈夫な状況らしい。
そうそう。母のことだ。以前の記憶であれば私が十歳で流行り風邪で他界したけれど、今回はカラー家のおかげで母が流行り風邪にはなったものの、死に至ることなく無事回復したのだ。おかげで、私達家族は一人も欠けることなく今を過ごしている。
「それから…これが一番大事なことなんだけど。貴学院を卒業したらすぐに結婚してほしい。正直今すぐ結婚したいけど、マーガレットはまだ成人してないから、僕が待つしかないのもちゃんと分かってる。だから…卒業と同時に結婚してほしいんだ」
「え? あ……えっと、はい」
「あー…良かった。ダメって言われたらもう我慢出来る自信がなかった…。今も本当必死だし…」
「えっと…、お母様からはちゃんと考えてね、って言われて…る」
「うん、分かってるよ。マーガレットがお腹にやって来た時とても考えたって、教えてくれたからね。女性としての気持ちを教えてもらったから、マーガレットを困らせることは絶対にしないよ」
「はい…。トレイシー…のことは、信じてる」
「うん。その信頼を絶対に失わないように頑張るから」
トレイシーがそっと私を放してくれた。それから、茜色になっている空に慌てたように私の手を指を絡めて繋いだ。
「急いで戻ろう! さすがに長居し過ぎた。森の中だし、危険じゃない森と言っても夜はまた別だからね」
「うん!」
二人して全力疾走した。久しぶりに心臓が痛くなるくらい走った気がする。
すぐに屋敷が見えてきた。すると庭の方に祖父が出て来ていて、二人揃って帰りが遅いと叱られた。
それから、何もなくて良かったと二人まとめて抱き締めてくれた。
「二人共、私にとっては大事な孫だから」
そう祖父が言えば、トレイシーは照れ臭そうに笑っていた。
お読みいただきありがとうございます。




