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湖から二人で一緒に帰ってきたのを母には見られたのだけど、なぜか納得という顔をさせていた。トレイシー兄様は、母と祖父に用があるからと私とは別れた。
私は久しぶりに庭のベンチに座ってのんびりと咲き誇る花々を眺めていた。
「遠い昔の私は、この景色が大好きだったんだ」
そう呟いてしまっていた。花を一頻り眺めて満足すると、自室へと戻るために屋敷に入った。部屋へ戻る途中、祖父に呼び止められた。
「マーガレット、トレイシー様とのことで確認がある。トレイシー様もいらっしゃるから、応接間においで」
「はい、おじい様」
祖父は私の様子に心底驚いているようだった。昨日まで、ほぼ返事もしないでいたのだから、当然かもしれない。
きっとまだ心はちゃんと生きていこうとはしてないと思う。だけど、兄様のせいで、その場に留まってはいられなくなった。もう走るしかない状況を作り上げられてしまった気がする。
だから、まだ心はちゃんと動けなくて、空回っている気はするけど、動くために、走るために、縺れそうな足を一歩一歩がんばって動かそう。
応接間に行くと、二人掛けソファに兄様が座っていた。その対面に母が座っていて、祖母も後からきたようで、一人掛けのソファに座っていた。
私は兄様の隣に座る様に言われて、隣へと行けば、祖父は母の隣に腰を下ろした。
「それじゃ、改めて確認しよう。トレイシー様、マーガレットとの婚約を望まれるということですが、間違いないですね?」
「はい」
祖父が兄様に問い掛け、それに兄様が頷き答えた。
「マーガレット、トレイシー様との婚約を受けてもいいかい?」
「はい」
私が小さな声ではあっても、はっきりと答えたから三人は目元を手で隠したり、ハンカチで押さえたりしていた。
「良かった…。トレイシー様、どうかマーガレットをよろしくお願いします。トレイシー様のこと疑ってしまったのに、本当に…ありがとうございます」
「いいえ。僕にとっても、こんな上手くいくとも思ってなかったので、ホッとしているんです」
母とトレイシー兄様が安堵した様子で、笑い合っている。うん、こんなにも心配させていたのかと…改めて考えてしまった。
「ただ、カラー侯爵様がどうお考えになるかは別の話ですから、婚約のことはまた後日侯爵様とお話しさせていただきますよ」
「はい、その時は是非御助力お願いいたします」
祖父が侯爵様と兄様と私の婚約のことで話をするのか、とまるで他人事のように話を聞いている。でも、兄様が私の方へ時々視線を投げて来るし、母達みんなが嬉しそうに笑っているから、なんだか心がほわほわとしている気がする。こんな気持ちは…どれだけぶりだろう。
「マーガレット、幸せになりなさいね」
私に声を掛けてくれた祖母に顔を向けると、小さく頷いた。祖母はたったそれだけなのに、涙ぐんでいた。今の私は未だ心の揺れが小さくて、感じることも僅かで、少なくて、期待には添えてないのだろうなと思う。だけど、祖母の顔を見ていれば分かるのは、私の婚約を喜んでくれていて、同時に私の幸せも望んでくれていること。だから、祖母にもう一度小さく頷いた。
ふと頭を撫でられて、隣のトレイシー兄様を見上げた。予想通り兄様が私の頭を撫でていた。
「二人で一緒に幸せになろう。その為にがんばるから、マーガレットも…がんばってくれると、嬉しい」
「…うん」
皆を満足させられるだけの答えはきっと用意できない。だけど、私は望まない死を与えられ続けたから、自分から死を望むようになったけど、本当はそうではなかったのを兄様と話していて思い出した。
だったら、生きるためにがんばろうとしてもいいんじゃないかって、少しだけ思えるようになった。
まだ、死にたいと思ってしまうところがあって、もうほぼ習慣みたいになってしまっているから、そこは迷いがないところもあるから、気を付けないといけないのかもしれない。
でも、体は生きたいっていつも訴えていた気がする。空腹を感じなくてもちゃんとご飯は食べていたし、いくらでも頸動脈を切ることの出来るものは手近にあったのに、今この年齢で目覚めてからは手に取ってもいない。
さすがに、貴学院の時みたいに屋上から飛び降りることは出来ないから、そういうのは…関係ないけど。
トレイシー兄様と私の婚約は、今日二人の間で、また私の家族の間でも確認した。
「それでは、僕は帰ります。帰ってから父に婚約のことや、他の事も伝えて改めて正式に婚約のお話を父とさせていただくことになると思います。その時はよろしくお願いします」
「わかりました。それでは、御当主様にどうぞよろしくお伝えください」
「はい」
「マーガレット、トレイシー様のお見送りをしなさい」
「おじい様…分かり、ました」
「失礼します。マーガレット行こうか」
トレイシー兄様はソファから立ち上がり、彼の差し出した左手に自分の右手を重ねた。そして一緒に応接間を出た。
見送ってくれた三人に優しい笑みがあったことに、改めて今日のことは良いことだったのだと思っていた。
玄関まで兄様と一緒に行き、彼が「またね」と言った直後に、唇のすぐ横にキスを落とした瞬間私は何も考えられなくなってしまった。顔だけじゃなくきっと全身赤くなってしまっている自身があるほど、体温が急上昇したことが判ってしまったから。
「マーガレットは本当可愛いな。誰にもそんな顔見せちゃダメだよ? じゃあね」
私はただただこくこくと何度も小さく早く頷くだけの人形になっていた。
クスクスと笑いながら私の頭を撫でてから、兄様は帰っていった。私はその場で崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えることに成功したけれど、部屋に戻るのがとても大変になってしまったのだった。




