第62話 3月1日(月)⑨
すっきりした気分と少しのモヤモヤを感じながらも、今朝この校門をくぐったときよりも気分が晴れているのは言うまでもなかった。このまま帰ろう。これでもうここに来ることは無い。そうして踵を返し、フッと視線をずらすと、ある一転で視線が釘づけにされた。一人の女子生徒と目が合った。
少しウェーブのかかった黒髪のショートボブ。丸顔に一重の丸い目。小さな鼻。
市川さんだった。向こうもこちらを見ている。
話しをするには遠い距離、だけど気付かない振りをするには無理のある近い距離。朝井さんが急にこの場を離れたのは、市川さんが目に入ったからだったか。
そのまま突っ立っているわけにもいかず、少し歩み寄った。向こうもまったく全く同じことを感じたのか、同じように、少しだけ歩み寄ってきた。
「か、香澄ちゃん見なかった?」
市川さんがそう尋ねてきた。お互いに足を止める。しらじらしいなと感じながらも、
「あ、さっきまでいたんだけど、向こうの方に」
同じように白々しい口調で、朝井さんが向かった人だかりへ目をやった。
「あ、ほんとだ。ありがとう」
市川さんはそう言うものの、それだけでその場を去ることはしなかった。何か言いたいことがあるのだろうか。必死に頭を回転させる。そして出てきたのは、
「香澄ちゃんが、喧嘩のことは本当に気にしなくていいて言ってたよ」
さっき言われたことだ。伝えて欲しいと言っていた。
「ああ、うん……」
市川さんは曖昧に頷いた。知られたことが恥ずかしいのかもしれない。市川さん自身が後ろめたく思っていることを、それなりの仲であった人に知れられた。そういった感覚はよく分かる。であれば、やっぱり言わなかった方が良かっただろうか。でも、
「僕もあのとき、そこにいた」
同じ立場にいたと言えば、少しは楽になるかもしれない。そう思った。
「え?」
「あのとき、竜くんと目が合った。でも、誰にも言えなかった」
「……知ってる」
全く予想のできない言葉が返って来る。
「え?」
思わず大きく声を漏らしてしまった。
「あのとき、瀬川くんが香澄ちゃんの傍を離れていって、それを目で追ってたら……いたから」
ああ、そうだったのか。当然だ。あの場にいた誰かが、瀬川くんの行動を追っていたとしても何の不思議はない。
瀬川くんと目が合ったことばかり気にしていたけど、僕は、もっといろんな人に見られていたんだ。その事実に恥ずかしさが込みあげる。
「そっか、そうなんだ」
「なんか、恥ずかしいね」
「うん」
笑った。大きな声を出すことは無い。ただ、笑っていた。それ以上そのことで話が膨らむことは無かったけど、お互い言いたいことはこれ以上ないような気がした。
「水穂くんは、もう帰るの?」
「うん、そうだね」
「じゃあ、これでね」
そう言って、市川さんが右手を軽く上げた。
引っかかったのは「また」という言葉が無いこと。さっきの朝井さんは、「また」と言った。多分大きな意味はなく、何気なく言ったものだと思う。
でも市川さんの場合は確実に違う。
僕と市川さんの間で、その二文字は、とても意味を持つことだ。僕だけかもしれないけど、多分、違う。市川さんは、分かっていて言わない。
市川さんがそのまま背を向けようとしたとき、つばを飲み込み、
「じゃあ」
その一言だけを返した。
「また」という言葉を付けるかつけないか、ものすごく迷った。一秒にも満たない時間でも、異様に長い時間考えたかのような感覚。でも、言わなかった。言えなかった。勇気がなかった。
たった二文字で何かが変わるとは思えない。実際、変わらないだろう。それでも、ドクン、ドクンと、心臓が驚くほど高鳴っていた。たった二文字を口にするか迷っただけ、それを言えなかっただけなのに。
市川さんのいつかの言葉がフラッシュバックする。
『二人でどこか遊びに行かない?』
『あたし、水穂くんのこと好きだよ』
それが、どれだけの感情を振り絞って出した言葉だったのか。それを今知った。
たった二文字だけでもこんなにも感情が上ずるのに、あの言葉は、どれだけ思い切ったものだったのか。
そんな情けない思考の中でも、少しだけ次の言葉を待ってしまう。朝井さんが必要以上に市川さんのことを言うから――。
でも市川さんは、
「じゃあね」
少し笑って、それだけ言った。
背を向け、そのまま朝井さんのいる友人の輪の中へ、足を向けた。
少しの間、市川さんが紛れた集団に視線を漂わせ、眺めていた。
しかしすぐに体を返し、学校から離れる様に歩いた。
辺りには、一人でのんびり歩いている人もいる。話をしながら、笑って帰る人もいる。
何かの感情がこみあげてくる。気を抜けば、泣きそうだった。初めての感情。ただ、こんな周りにも人がいる場で、それを流すわけにもいかなかった。
ヒュウっと冷たい風が通り過ぎた。三月に入ったといっても、まだ寒く冷たい。嫌いでない、心地の良い風。だけど、この季節ももうすぐ終わる。




