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モラトリアムの檻  作者: ナナイ
3月1日(火)
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第61話 3月1日(月)⑧

 そんなとき、


「香澄」


 誰か朝井さんを呼んだ。

 見ると、黒の服で正装をした、三人の四十代くらいの女性がこちらに歩いてきた。


 朝井さんのお母さんと、瀬川くんのお母さんと――叔母さんだった。三人とも知り合い同士だとは分かるが、その姿を見て目を丸める。


「偶然そこで会ってね。あ、泰樹くん、久しぶりね~。ずいぶん男前になったわね」


 朝井さんのお母さんがそんなことを言う。朝井さんに似た明るい口調だ。会うのは久しぶりで、中学の終わりに引っ越しの挨拶をして以来になる。「こんにちは」と頭を下げた。


「でも三人そろってるのも久しぶりなんじゃない? 昔はよく一緒にいたわよね」

「そうだね」


 朝井さんが返す。確かにそうだった。同じマンションで、同じ年で、家族同士で中もよかった。


「香澄ちゃんも泰樹くんも、うちのことで、本当にごめんね」


 瀬川くんのお母さんが、申し訳なさそうに頭を下げた。少し、目が赤かった。前はすごく背の高い人という印象だったけれど、今では、僕と同じくらいの背丈なのに少し驚いた。


「おばさんこそ、大丈夫ですか」


 朝井さんが気遣うように声をかける。


「ありがとう。香澄ちゃんはしっかりしてるわね」


 そんな中で、瀬川くんはお母さんを前にして居心地が悪いのか、どこかブスっとしている。

 それを横目に、叔母さんが僕の前に立って言った。


「ごめんね。来なくていいって言われてたけど」


 確かにそう言っていたし、それに対して「それでも行く」という言葉を聞いていたわけでもない。でも、結局来てくれたわけだ。


「いえ。わざわざありがとうございます」

「そう言ってもらえるならね、来てよかった。香澄ちゃんのお母さんが誘ってくれてね。卒業おめでとう」

「いえ、ありがとうございます」


 少し固くなってしまう。申し訳なさもあるし、嬉しさもある。


「でもごめんね。すぐ帰らなきゃいけないの。上の子も学校から帰ってきちゃうし、下の子の保育園も迎えに行かなきゃいけないから。遅くなるとは言ってあるんだけど。お父さんも今日くらい融通きかせて会社休んでくれたらよかったのに」


 そんなことを愚痴っぽく言って笑う。少しだけ小声になって周りに聞こえないようにしたのは、瀬川くんの事情を聴いたためだろうか。


「じゃ、わたしたちはこれでね。みんな帰るの遅くなるんでしょ?」

「多分、そうだと思う」


 朝井さんのお母さんの言葉に、朝井さんが返すと、


「じゃあ、またね。竜くんも泰樹くんも」


 そう言って、その場を離れて行った。保護者は保護者で話すことがあるのだろう。叔母さんは帰らなければならないようだけれど。


「竜、あなたはちょっと来て」


 瀬川くんのお母さんだけは、二人には付いて行かずに、


「挨拶に行きましょう」

「……分かった」


 何を言うでもなく、瀬川くんは肯定の言葉を返した。そして、


「じゃあな」


 と、瀬川くんは、少しだけ気まずそうに言い、足早に離れて行った。

 挨拶とは、江川くんのところか、退学届けを返してくれた担任のところか。瀬川くんは、何か覚悟のようなものを持っていた気がした。


 そして、この場には朝井さんと二人きりになる。だけど、数日前のような、変な緊張を感じることは無かった。


「それで、竜とはどんな話をしたの?」 


 急に意地悪く、冗談っぽく、上目遣いでこちらを見た。あのとき、うちに瀬川くんがいたことを感づいているのかもしれない。でも、認めるわけにはいかない気がした。


「特に、何も」

「ふぅん、そっかそっか」


 なぜか楽しそうに笑う。


「でもまじめな話さ、泰樹くん、本当にありがとうね。何度も話、聞いてくれて」


 朝井さんが、改まって向き直る。


「泰樹くんのおかげで、あたしも竜も、やれることはやれたんだと思うから」

「僕は、ただ話を聞いただけたから」


 本当にそれだけだ。何もしていない。


「だから、それをありがとうって言ってるの」


 朝井さんがむきになるように言った。どこか照れる。もちろん嬉しいことに変わりはない。だから、何か返さなければならないと思う。


「でも、香澄ちゃんはいい先生になれそうだね」


 一度思いついたけど、口にはできなかった言葉。でも本当にそう思う。


「え」


 朝井さんは大げさなくらい目を開いて瞬きをした。直接聞いたことでもないし、言わない方が良かっただろうか。


「あ~、ああ、そっか、いっちゃんに聞いたんだね。まぁ、どうなんだろう、そうなればいいけど」


 とても恥ずかしそうに視線を外したものの、


「ありがとう。嬉しい」


 こちらに向き直り、大きな笑みを返してくれる。

 なんというか、今まで見たことのないような表情だった。いつも笑顔の印象ではあるけど、でも、いつも以上に感情が乗っている気がして、こちらの心に触れてくる。


 二人の間にあった距離感とか、壁とか、そんなものが今のこの瞬間、全て無くなったような感覚。言ってよかった、本当にそう思えた。


 それから朝井さんはふっと顔を近づけると、


「ちょっと聞きたいんだけど、泰樹くん、好きな人いるの?」


 小声で、そんなことを聞いてきた。

 市川さんのことだろう。まだ市川さんが好きなのか、そうでないなら他に誰かいるのか、そのせいで市川さんと話さなくなってしまったのか。それを聞きたいのだ。


 朝井さんはさっき市川さんと話をしたと言っていた。その中で、僕の話もあったのかもしれない。だからこその言葉だろう。市川さんからどんな言葉がでてきたのか……。


 そう考えこんでしまい何も言えずにいると、


「本当だ。打っても響かない」


 朝井さんは顔を遠ざけて苦笑した。意味が分からず、「え?」返すと、


「いっちゃんが言ってた。じゃあ、またね」


 答えのないまま、朝井さんは含み笑いを見せ、足早に友人らしき人が集まっている輪の中へかけて行った。

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