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モラトリアムの檻  作者: ナナイ
3月1日(火)
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第59話 3月1日(月)⑥

 そんなことを思っていると、


「あ、泰樹くん」


 振り返ると、髪を後ろで結っている女子生徒が、朝井さんがいた。隣には坊主頭の瀬川くんもいる。二人は人の輪から外れた場所にいて、他の誰かと話している様子もなかった。


「早く帰っちゃんじゃないかと思って待ってたんだよ」


 朝井さんが笑う。

 穏やかな雰囲気。二人が一緒にいる。ほっとする光景でもあるが、卒業式での出来事は頭から離れない。そんな緊張とともに、手招きをする朝井さんの傍へ足を向けた。


「泰樹くん。俺のあれ、どうだった?」


 開口一番、どこか卑屈気味に口元を歪め、瀬川くんが言った。


「どうって……」


 表情を緩めることもできないまま言葉を返す。江川くんの家族と何か深刻な事態になっていないのだろうかと不安もあったが、その表情を見る限り、なさそうな気がした。


「あれ、びっくりしたよね。ほんと心配した」


 朝井さんは眉をハの字にして笑う。冗談めかして言ってはいるけど、やっぱり不安だったと思う。


「本当は今日も休むつもりだったんだけどな。退学届も出したし」


 瀬川くんは、やはりからっとした口調で言う。


「は? 何それ初耳」


 朝井さんは驚いて見返した。


「お前には言ってないからな。よく考えれば自分でも何やってんだって感じだし。何の意味ねぇなって」

「じゃあ、卒業式であれをしようとして……?」

「そんなわけない。ただ、江川がどういう扱いになるんだろうって、興味があったんだよ。あんなことをしたのは、正直、分かんね。なんか頭の中が真っ白で、あの時の言葉をもう一回言えって言われてももう無理だしな。ただ、何か勢いで動いてた。昨日、泰樹くんとちょっと話したせいかな」


 瀬川くんは視線をこちらにやる。


「僕?」

「なんかよく分かんないこと言ってたじゃん」

「そうなの? 泰樹くん、何て言ったの?」


 朝井さんがこちらを向く。


「いや……」


 二人に見られて口ごもる。僕も、もう一度言えと言われてもできないだろう。


「でも、あれ、ありがとうな。泰樹くん」


 不意に、瀬川くんが優しい口調で言った。一人で立ち上がったときのことだと理解する。


「あのとき、なんか滑ってるっていうか、そんな感じで、だから泰樹くん見てちょっと、なんつーか、なんか良かった。助かった」

「そっか」


 動いたのは本当にとっさのもので、自分でも大胆なことをしたものだと思う。でも、そう言ってもらえるなら良かった。本当に。


「泰樹くん、何かしたの?」


 朝井さんはきょとんとする。

 あの場はとても静かだった。瀬川くんをじっと見ていれば、位置によっては気付かないこともあるだろう。


「知らんかったらいいんじゃない? 内緒の話だよ」


 瀬川くんと目を見合わせる。まぁ、それでいいか。


「ふぅん、ま、その話も後で聞くとして、退学届けはどうなったの?」

「昨日、担任がうちに来て置いてった」


 瀬川くんがマンションへ戻った後、訪ねてきたということだろう。そのおかげで、こうして瀬川くんが学校に来て、朝井さんと話している。


「ていうか竜、昨日家にいたんだ? 何時ごろ? あたし、何回か行ったんだけど」

 怒っているような、心配しているような、複雑な表情の朝井さん。

「さぁ。時間はいちいち見てなかったけど、居留守してただけだ。どうせ俺しかいなかったし」


 少々ひやひやした。瀬川くんのそれは、僕をかばってくれての言葉かもしれない。朝井さんがアパートに来たとき、瀬川くんはうちにいた。


「あたし、すっごい心配だったんだよ」


 昨日の涙、心からの感情だった。しかし、瀬川くんは軽く言う。


「夜、メールだけはやったろ」

「はぁ」と朝井さんは、わざとらしく大きなため息をついて、

「そうだね。『明日学校に行く』ってメールだけね、あれだけ。それ以上は何もくれなかったでしょ。あの後、あたしが何回メールしたと思ってんの?」

「二回くらいだっけ?」

「五回よ、五回」

「別にいいだろ。どのみちこうやって今日話してんだし」


 瀬川くんは軽く朝井さんの言葉を受け流す。

 朝井さんは、少し考え込むようにしていたが、フッと息を吐いて、


「そっか。まぁ全部が消えたわけじゃないけど、でも、さっきの竜を見てたら、悩んでたんだなって、本当にそれが分かったから、それはそれでよかったよ、本当に」


 そんなやりとりを見ていると、二人に間にあった棘は、少なからずなくなっているようだった。少し、気が軽くなる。

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