第52話 2月28日(月)⑩
「じゃあ」と、瀬川くんがそのままドアノブに手をかけようとしたところで、言葉を投げる。
「竜くん、僕にはもう親がいなから、分からないんだけど」
瀬川くんが少し驚いたように目を開いて振り向いた。
自分でもよく分からない行動だ。今思いついた言葉を言おうとしている。止まらなかった。
「僕は、もし親がいたらって思うことはあるんだ。別に、いたからどうだとか、何をしてもらいたいとか、そういうことは全くないんだけど、でも、もしいたらって考えることはある。特別仲が良かったわけでもないし、反抗期があって、謝りたいとかそういうわけでもない」
こんな感情を口に出すのは初めてだ。自分がこんなことを思っていたという事実にも、こんな話を口に出せていることに驚く。だけど、今日の瀬川くんを前にして、ここまでの瀬川くんを考えて、何も言わないということができなかった。
「親って、親なんだよ」
「何それ」
瀬川くんが困ったように笑う。
「よく分からない」
だけど、何とか言葉にしてみる。
「僕にとって、親と人って、別だった。もちろん否定的な意味じゃなくて。そう感じていたのがおかしいのか分からないし、いなくなったせいでそう思ってしまうのかも分からない。だけど、そう思うんだ」
何を言っているのか分からない。だけど、頭で整理する前に言葉に出す。
「僕の交友関係は狭いけど、それでも僕の周りにはいろんな人がいて、いろんな考え方を持ってて、それを聞くと、ちょっとしたことでも、なにか大きな発見をしたような気になることがある。でも、親にそんな感覚を持ったことは無かった。単純に、親がいたときの僕は幼くて、今の僕とは考え方が違っていただけかもしれないけど、でも、また変な言い方になるけど、親に他人としての感情を見ようとしたことが無いんだと思う。親は子供の心配ばかりしてるとかよく聞くけど、確かにそうだと思えるんだけど、でも、目の前の話をしてる親からはそれを感じないっていうか、それが親だって思い込んでたからかもしれない」
つまり、
「親と話をするときって、独善的になるのかもしれない。人と話すときにはさ、相手の立場に立って物事を考えるっていう一般的なこととか、相手の感情を想像することとかは、できてるかどうかは別にして、必要なことだと思ってる。でも、親相手にそんな思いやりを持ったことが無かった。親の立場から自分を見ることなんて想像もしなかった。気を遣うことなんてなくて、本音を言うわけでもないけど、わがままになってた。親は、特別だった」
中学のとき、病院で「何も心配しなくていい」「大丈夫だから」と明らかに強がって言う母親の顔を見るまでは、そうだった。
瀬川くんはやはり困ったように笑う。こんなことを聞かされて、そうするしかない
だろう。
「やっぱりよく分からない」
「そうだよね」
同じように笑う。
「よく分からないことが分かったよ。でも泰樹くん、そんなこと考えてたんだな」
「いや、考えてたんじゃなくて、今、思いついただけだよ」
「それでもすげぇと思うよ」
その言葉で、救われた気がした。
ただ、一つだけ嘘をついていた。もし親がいたら、もう少し違う生き方だったんじゃないかと思うことは、正直あった。もう少し、自分の性格は外を向いていたんじゃないか、と。だけど、そんなことは言うべきではない。僕の中だけの話だ。
きっと瀬川くんにも、誰にも言えない感情がある。瀬川くんだけじゃない、誰にでもあるはずだ。相手によって言えることは変わるし、どんな誰にだって言えないこともある。多分。
瀬川くんを見送って、一人で部屋に残されると、何だか手持ち無沙汰の感覚に陥った。どこかやり遂げたような昂ぶった感情はありつつも、恥ずかしもそれ以上にあって、さらにそれ以上に、瀬川くんの思いが気になる。
思考の渦は収まりそうもない。衝動に駆られてパソコンを開きネットを見た。怖いけど、これ以上知ってはいけないような気もしたけれど、止めることができなかった。さっき朝井さんに見せてもらった事故のニュースのページを捜した。その記事は本当に小さいもので、地名など、より詳しく検索しなければ出てこなかった。内容もあっさりしたもので、事故の日付と場所、その名前だけだった。
当人を知っているか知っていないかで、その大きさは全く異なった。
明日は卒業式。予定通り行われるだろうか。江川くんのことで何かあるのだろうか。瀬川くんが学校へ行くことが、卒業式に出ることが、大事なのかは分からない。でも、来て欲しいと思っていた。朝井さんは、どう思ってるだろうか。
一日が過ぎ、夜になり、就寝の準備をして布団にもぐっても、今日の出来事は、頭に突き刺さったまま抜けない。
二人に対した僕の言動は、二人の嫌な感情を膨らませていなかっただろうか。そんなことも考えてしまう。考えても考えても、思考が止まることはない。何度も同じことが繰り返される。
でも、あれ以上の言葉は見当たらない。でも、気付かないだけでもっと言えることがあったのではないかとも考えてしまう。
朝井さんに優しくできなかったか。瀬川くんを元気づけてあげられなかった。
あるいは、何せずただ頷いているだけの方が、二人にとっては良かっただろうか。
二人とも、これ以上ないくらい悩んでいるはずなんだ。僕が関わったところで、何か意味があるかは分からない。本当に、どうしたらいいのだろうか。




