第49話 2月28日(月)⑦
部屋を出てアパートの外廊下から、階段の下で軽く手を上げた制服姿の朝井さんが目に入った。最初の電話では、瀬川くんの家に行ったと言っていたが、自分の家には帰らず、そのままこっちに来たのだろうか。
階段を下りて声をかける。
「どうしたの、急に」
「うん、ちょっとね……」
朝井さんは、遠慮するように、はにかみながら言葉を濁す。
「えっと……竜くんは……」
目線を泳がせて、しらじらしく言葉を出す。しかし朝井さんは、
「あ、別にね、探してるっていうわけでもないの……。本音を言えば探したいのはそうだけど、でも……」
詰まらせた言葉から、ふと、自分の言ったことを思い出した。「あまり言い過ぎると意地になってしまうのではないか」それを気にしているのかもしれない。その言葉が正しかたのかどうか、いまだに自信はない。
「でも、やっぱり竜から連絡とか、来てないよね?」
朝井さんは視線を戻して尋ねてきた。なんだか怯えているようにすら感じた。
「う、うん……」
そうとしか言えない。
「そう……でも、あたしもね、正直、竜と何を話せばいいのか分からなくなってる」
沈黙が広がる。
朝井さんの姿をみて、冷たい風になびく黒髪を見て、こんな寒いところで立ち話をさせてしまって申し訳ないと思う。コートもマフラーもつけているが、ひざ下が露出しているスカートは寒そうだった。でも、毎日着ているわけで、慣れているだろうし、そんなこともないか、いや、そういうことではなくて……こんな場所でうつむいた朝井さんと話をしていて、人が通ったらどんな目で見られるだろうか……。
だから、そういうことでもない。
現実逃避をしたいのか、会話の内容よりも違うことを考えてしまう。
それから、まだしばらく沈黙が続いたのだが、
「あたし、何も知らなかった」
不意に、朝井さんが俯いたまま言葉を落とした。消え入るような震えた声だった。
その言葉の意味が分からず、「何を?」と聞き返そうとしたのだが、朝井さんの本当に苦しそうな様子に、その言葉は喉もとでつっかかった。
進学も就職もしないことだろうか。あるはそれに対するに何か重大な理由を知ったのだろうか。一体――。
「泰樹くんも、知らないんだ?」
何も口にはしていないが、この時ばかりは、朝井さんにも僕の表情が揺れていることを認識したようだった。朝井さんは自らの携帯を取り出し、途中で指を止め、その画面をこちらに向け差し出した。
「これ」
なんだろうと混乱しながらもそれを受け取り、画面を見た。
そこに表示されていたのは、ネット上のニュースサイトだった。その記事を上から順に読んでいく。妙な緊張から、ほとんど文字が頭に入ってこなかったのだが、ある文字を目にすると、一瞬にして変わった。全ての感覚がその文字に集中した。
交通事故のニュース、車の事故で死亡、江川雄吾くん――。
「竜の――、なんだって」
朝井さんは、小さく、絞り出すような声を上げた。
「え?」
よく聞こえなかった。顔を上げて朝井さんを見た。
「これ、竜のお父さんなんだって」
また、消え入りそうな声で言った。
え?
「これ、このあたりの地域の小さな記事なんだけどね、お母さんに教えてもらったの。竜のお母さんから聞いたんだって。お母さんは、あたしに言うかどうかも迷ってたみたいだけど、あたし、そんなこと知らなくて、竜のことで何か言いたそうだったから、なんでもいいから教えてって、強く言ったら、そしたら……」
朝井さんは今にも泣きそうだった。いや、泣いていた。朝井さんの目には、涙が溜まっている。
「車の人が……?」
自分の声も震えていた。でも聞き返す。想像で決めてはいけないことだ。
朝井さんは言葉なく、静かに頷いた。
冗談なんかではない。その表情から、考えるまでもない。
息が止まった。心臓が高鳴る。その事態を把握し、携帯を持つ手がぬめり、震える。
江川雄吾くんの事故、車を運転していたのが、瀬川くんのお父さん。
今日、さっき、岸くんから聞いた、亡くなった同じ学校の生徒が江川雄吾くん。岸くんはそのことで落ち込んでいた。
瀬川くんはお母さんと二人暮らしだ。離婚したのは小学校に上がる前だった。お父さんとの関係が今どうなっているのかは知らないが、だからといって、今一緒に住んでいるわけではないからといって、今は違うなんて言えないんじゃないか。どういう表現が適切なのか分からないけど、血縁上では間違いなく、瀬川くんの父親だ。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。まとまらない。何一つ形にすることができない。
額に汗が噴きでる。背中が、冷や汗でぐっしょりと濡れている。冷たい風が一層体を冷やしていく。
「ごめんね、だから竜を探してるってよりも、泰樹くんが知ってるのか知りたかったの。このことを、誰が知ってて、誰が知らないのかを知りたくて……ううん、違う、ただ話したかっただけ。誰かに聞いてもらいたかっただけ。泰樹くんと話がしたかっただけ。そんなことしてよかったのか分からないけど、だから、ごめん」
朝井さんが俯いて、どうにか言葉をつないでいた。
「いや……」
僕は、まだ何も言葉が出てこない。
風が冷たい。汗が止まる気配はない。何を考えればいいのか、誰のことをどう思えばいいのか、何も分からない。
ほどなくして、朝井さんは無言のまま僕から携帯を受け取り鞄にしまった。そして、その動作の延長のように、誤魔化すように指を目の辺りに置いた。それから静かに顔を上げた。
「じゃ、あたしは行くね。急にごめんね」
明らかに分かるつくり笑顔。焦点のあっていないその目には、動揺がありありと満ちている。
「いや、別に……」
やっぱりまともな言葉を口にすることができず、曖昧な言葉を返す。
「じゃあ、明日」
「うん、また……」
朝井さんは、逃げるように去って行った。
大丈夫だろうか。ちゃんと家に帰れるだろうか。「気を付けて」それだけでも言うべきだったかもしれない。
ただ棒立ちで見送った。




