第28話 2月26日(土)⑮
「あ、いたいた」
そう言って微笑んだのは、市川さんだった。
その姿を見て、自然に頬が緩む。
展望台のような場所で、海を眺めていた。
市川さんは僕の隣に立つと、同じように海を見ながら、静かに口を開く。
「あたし、香澄ちゃんにね、瀬川くんとちゃんと話した方がいいよって言ったんだけど、それって、あたし自身にも言えることなのかなって思ったの」
心苦しそうに、だけどはっきりと言った。それが何のことか、すぐに思い当たる。
「やっぱり、ちゃんと思ってることを話すべきなんだろうって。このまま、なんとなく過ぎていっちゃうのも、違うのかなって。そう思って、だから……」
まっすぐなまなざしをこちらへ向ける。目が合う。
その目を見ていられず、すぐに顔を逸らし、再び視線を海へ投げた。
「ねえ、聞いてもいい?」
市川さんはこちらを見たまま、何かを決意したような口調で尋ねてくる。
「……何?」
少し怖かったが、海を見たまま頷く。
市川さんは一つ呼吸を置くと、
「水穂くんはさ、あたしのこと、好きだった?」
――。
言いたいことも、言わなきゃいけないこともあるはずだった。だけど、何も言葉として出てこなかった。じっと、案山子のように立ち尽くしているだけだ。
その反応をどうとらえたのか、市川さんは言葉を遠くへ投げるように、
「最初のデートに誘ったのって、あたしからだったよね。覚えてる? 教室でさ」
覚えてる。
「それで、付き合おうって言ったのもあたしからだった。それから……」
覚えてる。思い出せる。
市のお祭りに行って花火を見たことも、誕生日に喫茶店へ行ってケーキを食べたことも、他にも色々あった。覚えている。全部思い出せる。はっきりとした映像が頭に浮かぶ。
「あたしは、水穂くんのこと好きだったよ。あたしの話、楽しそうに聞いてくれたし、回りくどいことをしてたとしても、やっぱり嬉しかった」
こっちを見ているのが分かる。だけど、目を合わせることができない。
「でも全部、あたしの空回りだったかな」
目に、涙がたまって行く。嬉しさと、申し訳なさと。何かを口にすれば、全ての感情が溢れて止まらなくなりそうだった。だから、何も返すことができなかった。
「ごめんね。そんなこと言ってもしょうがないよね。ただ、正直な気持ち」
市川さんの明るい声――のように聞こえたが、少し震えていたかもしれない。泣いているのかもしれない。でも、それを確かめようと顔を向けることもできない。自分の顔を見られたくなかったから。きっと市川さんも見られたくないだろう。自己完結した勝手な言い訳をつくる。
そして、そのままの静かな時間が流れた。実際にはほんの一瞬かもしれない。でも体感的にはもっと、数分くらいの感覚だった。
市川さんが、その時間を進める。今度はしっかりとした声だった。
「じゃあ、あたしはこれでね」
体を返し、離れていく。
それに気付いて、なんとか声を振り絞る。
言わなきゃいけない言葉がある。
「――ごめん」
なるべく平静を装って自然に、そう思ったが、耳に入ってきた自分の声は、震えていた。
少し間をおいて、市川さんの声が返ってくる。
「……水穂くんらしいね。ありがと。じゃあね」
市川さんがどんな表情だったのかは分からない。
辺りの景色がゆがむ。
どこか、足場が崩れたような感覚。嫌な浮遊感。体がその場から落下するように――。
そこで、目が覚めた。




