君の、最悪な名前を
世の中、不幸な境遇の人間などいくらでもいる。
貧しい者、酷い虐めを受けている者、不治の病……。
自分の力で彼らを救えるなんて思ってはいない。
今この瞬間にも誰かは涙を流し、血を流し、苦しんでいるだろう。
全てを救うことは出来ないし、見て見ぬ振りをするしかないのが現実だ。
だが――。
目の前で殴られて血を流している少女を、見殺しに出来なかった。
本当にあの場から救い出すことが救済となるのか、ディーユにはわからない。
しかし、そうするより他になかったのだ。
「あの、戻らないと……怒られます」
消え入るような声で少女は言うと、不安げな表情で後ろを振り向いた。
「いいんだ、もう戻らなくても」
「……いい?」
ディーユを見上げ、小首をかしげる。
瞳の色はペリドットのようだった。若草のようなグリーン。
髪の色は煤けたような茶色で、埃まみれ。身体も服も汚らしく、洗っていない犬のような臭いがした。
何よりも顔や、腕、脚、見える所は痣や擦り傷だらけだ。
見ているこっちが辛くなるような痛々しさ。
「大丈夫、私といこう」
「……どこへ?」
「うーん。そう言われると困るな」
手は冷たくて、小さく震えていた。ディーユは少女の手首を掴んでいたことに気がつき、手をそっと包むように握り直した。
「別のおうちへ?」
「家は無いんだ。追い出されたから」
「……あたしとおなじ?」
「そうだな、同じかも」
「……おなじ」
同じ、という言葉に安心したのか、きゅっと手を握り返してきた。
――同じ、か。
確かに虐められ、酷い目にあっていたという意味では。
追放されたか、連れ出されたか。それの違いはあれど、屋根のある寝床を失ったのは事実だし、この犬耳少女と同じなのだ。
犬耳の薄汚い少女の手を引いて、急ぎ路地裏を抜ける。
郊外へと自然に足は向いていた。目立たない場所へ。雑多な人々が行き交う広場へと紛れ込む。
しばらく進むともう貴族や豊かな身なりの人間は見かけなかった。
金メッキの悪趣味な建物も、ギラついた馬車も走っていない。
しおれた野菜を積んだ荷馬車、行商人、日雇いの労働者たちの飯場が立ち並ぶ下町だ。みんな家路を急ぎ、家々には明かりが灯り始めている。
空は夕焼け色に染まっていた。
「困ったな」
「……こまった?」
「宿なしだ」
「……やどなし」
「そんな嬉しそうな顔をするな」
少女は少しだけ表情を崩した。
強張っていた緊張が、すこしだけ解けたのだろうか。
家々は古臭く、人々の身なりもどことなくみすぼらしい。貧しい下町の、しかし普通の暮らしが営まれている区画だ。
もうひとブロック進めば、王都を囲む壁があり、その外は域外だ。流入しつつある難民によるスラム、荒廃しやせ細った大地が延々と続いている。
水場の横のベンチに腰を下ろし、二人で並んで座った。
夕飯の支度をする主婦たちが水場で野菜を洗い、家に戻ってゆく。
水を飲む少女の姿は、やはり犬のようだった。
手ですくって、ぺちぺちと小さな舌で水をのむ。
その横顔は幼いが、痩せ細った十歳かそこらにみえた。
「……そういえば名前を聞いていなかったな。名前は?」
「コロ」
「コロ……か、変わった名前だな」
こくこくと頷いて、手の傷をペロペロと舐めはじめた。
犬耳族だけあって、仕草はどこか子犬じみている。
「みんな、あたしをそう呼ぶよ? お前をコロ……ス、コロスって」
「な……!」
愕然とした。
誰がそんな、と口を開きかけて拳を握る。
ひどすぎる。幼い頃から邪魔者扱いにされ、売られ、しくじれば「ころす」と言われ続けたのか。
他の名前をつけてやりたいが、コロと呼ばれていた以上、自分はそういう名前だと思っている。
腰のポーチを探ると、手ぬぐいタオルがあった。
水を絞り、顔の血をぬぐい、ごしごしと手足を拭いてやる。
「……きゃっ」
「痛いか、がまんしろ」
「……うー」
あまり気が付かなかったが、薄汚れたワンピースの尻の部分から茶色い尻尾が生えていた。
本当は全身をお湯で洗ってやりたいが、それでもだいぶ綺麗になった。
「うん、少しはマシになったな」
「……まし?」
「一緒にいてもいいって意味だよ」
「おー?」
コロは瞳を輝かせた。
嬉しいのだろうか。尻尾をはじめてパタリと動かした。
と、盛大にお腹が鳴った。
「腹が減ったよな」
「……いつも」
聞くまでもなく、いつもろくなものを食べさせてもらっていないのだろう。
残り物か、残飯か。想像したくもなかったが。
「とりあえず……」
見回すと小枝が落ちていた。リンゴを運んでいた荷馬車の後ろから落ちた小枝だ。
それを拾い上げ、魔法力を注ぎ込む。
――『枯死再想』(ウィードリコレクション)
「……すごい!」
コロの目の前で、小枝に小花が咲いた。白いりんごの花だ。
そして一呼吸、さらに魔法力を注ぐ。
花の代わりに小さな青い林檎の実がつき、むくむくと膨らんだ。
赤く色づくところまでおよそ一分。熟したあたりで魔法をとめる。
「ほら、これでも食べて」
「……魔法!?」
「そうだよ。おたべ……コロ」
嫌な名前だが、考えないことにした。
呼んでやると耳をぴくりと動かして、小さく微笑んだ。
「りんご、おいしい」
「よかった」
「甘い、おいしい!」
しゃくしゃくと、夢中でリンゴを食べるコロ。
「でも……おかげで私も空腹になった」
ディーユもひどく空腹であることに気がついた。
腰のポーチを探ると、聖銀貨が三枚、銀貨がニ枚あった。
金貨一枚で、聖銀貨二十枚。聖銀貨一枚で、普通の銀貨十枚。銀貨一枚は銅貨十枚。
定食なら一人銀貨一枚で食える。
銅貨二枚でパンがひとつ。
「……定食でも食べに行くか」
<つづく>
【作者より】
次回は、視点が変わります。
幼馴染の女騎士、アイナさんの登場です★
おたのしみに!