15章 無念無想
15章 無念無想
「大勢の人間が行方不明になった事件に、ましてやその家族に、こんな事を言うのは駄目だと思うの。だけどね」
哀矢が戦闘態勢に入る。
月影はそれを黙って見る。
「でも、あの死に方は羨ましいのよ。美しいまま死んだ、その事実に、憎悪すら覚える程にな」
●
互いに振りかぶり、初撃を打ち込んだのは月影だ。
月影の拳が哀矢の顔面を撃ち抜く。
呻き声を上げながら哀矢が体勢を立て直す。
口の端から血を流しながら、哀矢が美術館の奥へと走る。
「叔父貴!」
泥染の声を背に月影は哀矢を追う。
真っ暗な廃墟の中に足音が反響する。
割れた窓から差し込む月明かりが頼りだ。
長い廊下の向こうに、漏れた光が見えた。
月明かりでは無い、人工的な光。
辺りを警戒しながら扉を開く。
広い展示室だ。
足元だけだが、ここだけ何故か明かりがついている。
目が慣れると、割れたショーウィンドウの中に並べられたマネキンが目に入る。
「!」
むせ返るような香水の匂い。
床に割れた香水の瓶が落ちている。
哀矢が身に付けている物だ。
匂いで追うことを諦め、月影は目を凝らす。
マネキンには服を着せられたものと、剥いだ人の皮を着せられているものがある。
よく見れば皮を剥がれた死体を立たせ、服を着せているものもある。
瓦礫に足を取られないように歩を進める。
死体に合わせて服は仕立てられている。
それでいて、ここは哀矢の世界を突き詰めた空間だ。
ここに立つ彼らは作品となる事を自ら望んだ。
身の内に抱えた空虚が埋まったのか、それを確認する術は無い。
部屋の中程まで来て足を止める。
振り返り、哀矢に向かって攻撃する。
「っ!?」
哀矢が驚きの表情を浮かべる。
マネキンに紛れて攻撃を仕掛けてきた哀矢に月影は蹴りを放つ。
それを避け、哀矢がガラス片を拾った。
「勘、じゃあないな……?」
身構えながら哀矢が月影を睨む。
月影は懐からナイフを出し一礼する。
「この場で最も違和感が無いのは貴方だ」
展示室の電灯が切れた。
崩れた天井から満月の光が差し込んだ。
互いに語る事はもう何も無く、同時に踏み込む。
指輪に覆われた拳が月影の顔面を掠めた。
避けた勢いを活かし、月影は哀矢の胴に回し蹴りを放つ。
蹴りを防ぎながら哀矢が闇に飛び込む。
月影はそれを追う。
闇に慣れた目が、哀矢が床の小さなガラス片を蹴り上げるのが捉えた。
月影は頭から哀矢に向かって突っ込む。
強引にガラス片のヴェールがこじ開けられる。
ナイフとガラス片がぶつかり、割れる。
鋭利さを増したガラスの切っ先が月影を狙う。
ひゅ、と空気を切る音が何度もする。
闇の中で哀矢と目が合った。
哀矢が更に暗い場所に踏み込んだ。
月影は匂いでそれを追う。
香水の匂いの変化は時間経過と、汗で変わる。
ならば床に撒き散らされた香水と、哀矢が身に着けている香水の匂いは違う。
月影は稲妻のように動く。
香りを含んだ空気がかき混ぜられる。
生者は動き、死者は動かない。
これだけ匂いが充満していれば、誰かが動けば匂いが動き、それで居場所は察知出来る。
哀矢がガラス片でナイフを受ける。
何度も、何度も。
ガラス片が使い物にならなくなると、拳で月影の攻撃を受け流す。
金属音が響く。
指輪が千切れ、吹き飛んだ。
「……」
哀矢が新しいガラス片を手に取った。
月影はナイフを構える。
ガラス片とナイフに月光が反射する。
今までよりも大きく、どちらも輝いた。
哀矢の手から小さくなったガラス片が落ち、粉々に砕ける。
何処からか紅葉が風に乗ってやって来た。
●
華風一家本部。
華風を自室に寝かせ、菊野は茶を煎れる。
庭を見ている泥染の所に持っていく。
いつものように、肩にコートを羽織り縁側に座っている。
盆を持つ菊野の姿を見て、泥染が何とも言えない笑みを浮かべる。
「若頭がわざわざ」
「そりゃあ、お相手は組長さんですからぁ」
引き戸の向こうに気を払いつつ菊野は茶を置く。
華風はまだ眠っているようだ。
月影は自宅に戻った。
泊まっていくように勧めたが用事があるらしく、断られてしまった。
ならばせめて、と白いコートは預かった。
クリーニングに出すくらいはさせて欲しかった。
「ヤクザに血筋なんか関係ねぇ。実の息子だろうと実力がなきゃ組長にはなれねぇ」
満月を見上げながら泥染が言う。
「それを曲げて、わざわざ遺言で御指名とはな」
「それこそ親心でしょうよ」
「……」
泥染が菊野を見る。
「ただのガキと跡取りじゃ、そりゃあ警備の質が違う。
あの時はおかしかった。カタギだって殺しちまうような奴まで出て……」
20年程前の抗争。
ただのヤクザ同士の抗争だった筈だ。
誰かが一線を踏み越え、抗争は激化した。
だから赤子だった華風は跡取りに指名された。
「……」
泥染がちら、と引き戸を見た。
「遺言なら向いてねぇ奴でも親父か?」
「……後で指でも何でも詰めますよ」
「え? ……いっ!?」
バッチィィン、と良い音がした。
菊野が泥染にデコピンを見舞った音だ。
泥染が床に突っ伏して悶絶する。
「アンタも若も! 向いてなきゃどんな手使ってでも足洗わせてらぁ!
親っさんより立派になってこの親不孝モンがぁ!」
茶器を片付けると足音荒く菊野はその場を立ち去る。
だってよ、と泥染が誰かに話しかける声は聞かなかった事にした。
●
『先日、ボリビアのウユニ湖に突如現れた旅客機ですが、その後の調査で、
この旅客機は29年前に行方が判らなくなっていた――』
蛇塚組の事務所はいつになく静かだ。
悲痛と、困惑。
ニュースが流れている。
映し出された映像は美しい塩湖だ。
行方不明になった月影の両親が乗っていた旅客機。
中に死体は無く、荷物だけが残されているらしい。
テーブルの上に何本かの鞘に収められたナイフが置かれた。
月影が使っている物と対になる物だ。
月影は来訪者に呼び掛ける。
40代後半程の、喪服の男。
「従兄弟叔父さん……」
八瀬 澄。
悟道会直系、獄釜組、舎弟。