戻る日
目を覚ますと、枕元に置いた時計の短針は六時を指していた。まずい、と思ったが、すぐに今日は休日だと気づいて安堵した。
横では愛する人が、規則正しく胸を上下させている。起こさないように、そっと額を撫でてからベッドを出る。
美優と結婚してから、四年が経過していた。彼女の不安を杞憂と言いきれるほどに、結婚生活は順調だった。
確かに、結婚してすぐの頃は、彼女が度々悪夢にうなされたり、弱さを見せたりすることがあった。しかし、徐々にそれらの兆候は見られなくなってきた。
僕も彼女も、やっと人並みの幸せを手にすることが出来たのだろう。最近の彼女の悩みは両親から孫の顔が見たいと催促されることだ。
別にどちらかに問題があるという訳ではない。子供はお金を貯めてから、というのが二人の考えだった。
顔を洗ったあとキッチンに行き、朝食の準備を始める。朝に弱い美優に代わって、僕が毎日朝食を用意している。
トースト、目玉焼き、サラダをプレートに盛り付け、市販のヨーグルトを添える。
湯沸かしポットでお湯を沸かして、紅茶を入れたところで、美優が寝室から出てきた。
「おはよう」彼女に声をかける。
「おはよ、亮太」
そう言うと、彼女は食卓の椅子に腰掛けた。まだ眠いのか、大きな欠伸をする。
朝の彼女は普段とは別人のようだ。いつもの姿からは、想像がつかないくらいだらしない。同棲を始めてすぐの頃はあまりの違いに驚いたものだが、今となってはそれが日常になってしまった。
朝食を食べ終えると、テレビをつける。
若いアナウンサーが、困り顔で記録的猛暑を報じていた。まだまだ暑い日が続きます、という言葉に僕は憂鬱になった。
彼女の方を見ると、眠そうに目を擦っている。
再度大きな欠伸をしてから、美優が言った。
「美弥子さんが来るのって何時だったっけ」
「確か、十時頃って言ってたと思う」
「準備しないと」
そう言って彼女は立ち上がった。洗面所の方へ向かう。少しして、歯ブラシの音が聞こえてきた。
姉の美弥子は、二ヶ月後に入籍する予定になっている。
お相手は、同じ会社の営業マンらしい。僕はまだ一度しか会っていないので、彼のことをよく知らない。
そこそこ格好良くて、そこそこお金を持っていて、そこそこ優しいというのが姉の彼に対する評価だった。
それでいいのかと聞くと、そこそこが一番、と言って姉は笑った。
姉は結構サバサバした性格で、そういう部分は僕も羨ましいと思っていた。
しかし、ある一定の分野においては、それは欠点となりうる。今日の来訪の理由がそれだった。
「美弥子さん違います、人参はいちょう切りです。そのままだと千切りになっちゃいます」
先程からキッチンでは美優が忙しそうに動き回っている。姉が動く度にああ、とか違います、などといった声が聞こえる。
花嫁修業と題された今日のイベントは、要するに姉が美優から料理を教わるというものだった。
しかし、そういうのは普通は親から教わるものではないだろうか。
「そもそも、こういうのは母さんに頼めばいいんじゃないの?」
気になって尋ねると、姉は顔をしかめて言った。
「そりゃ、私だって最初は母さんに頼んだよ。でも、しばらくしたらあんたに教えるのは不可能だって言われて・・・・・・」
「えぇ、そんなに下手なの」
「うるさいな、そういうあんたは料理できんの」姉は口を尖らせて反論する。
「まあ、たまにやるくらいだけど。一人暮らし長かったし、多少はね」
「などと供述しておりますが、実際のところは?」姉が美優に尋ねた。
「うーん、特別上手では無いですけど。でも下手じゃないと思います。朝ごはん作ってくれますし」
「それってあたしよりはマシってこと?」
「はい。あっ・・・・・・」
勢いよく返事をしたあとで、美優はしまった、と言わんばかりに口を押さえた。
顔を赤くして、すみません、と謝る。
「いいよ、気にしなくて。美優は優しいね」
「いえ、そんなことは」彼女は恥ずかしそうに顔をそむけた。
「さて、続きやろうか。次はどうするんだっけ」
「次は大根の皮むきです」
また、美優の奮闘が始まった。巻き込まれたくないので、僕は寝室の扉に手をかける。
「僕、仕事してるから。火事だけは気をつけてくれ」
そう言って扉を閉めた。ひどい、と憤慨する姉の声が聞こえてきた。
ノートパソコンを立ち上げ、次の授業の準備を始める。
二人の声が騒がしかったので、ヘッドフォンをして、音楽を聴きながら仕事を進めることにした。
そのうちに、心地よくなっていつの間にか意識は遠のいて行った。
肩を揺すられて目を覚ました。
目の前の画面には訳の分からない文字列が並んでいる。どうやらキーボードに突っ伏して居眠りしていたようだ。
姉が血相を変えて、僕の肩を揺すっていた。
「亮太。来て、美優ちゃんが大変なの」
瞬時に目が覚めた。
「どうした、怪我でもしたのか」
「いや、そうじゃないけど。とにかく早く来て」
姉が僕の袖を引っ張る。
寝室から出たが、キッチンに彼女の姿はない。
玄関にいる、後ろから姉の声がした。
リビングを出て、玄関に向かうと美優がうずくまっていた。
苦しそうに肩で息をしている。嫌だ、嫌、やめて、そんなふうに彼女は呟いている。
「美優、どうしたの」
僕は駆け寄って彼女の体を支えた。
彼女は玄関先を指さした。その指先が小刻みに震えている。
彼女の指さした方向を見ると、玄関先には白髪の60歳くらいの女性と、中年の男性が立っていた。どちらも見知らぬ顔だった。
「あの、失礼ですが、どちら様ですか?」僕は尋ねた。
「美優さんの旦那様ですか?私は白川晶子と申します」
隣の男性は白川文雄です、とボソボソと呟いた。
「白川・・・・・・」
僕は顔を歪めた。その名前は僕がこの世て最も憎む名前だった。
「何しに来た」語気が荒くなるのを抑えられなかった。
「きちんと美優さんの前で謝罪をしたいと思いまして。それで伺った次第でございます。本当に、息子がご迷惑をおかけして申し訳・・・・・・」
「待て。何言ってんだあんた」
僕は白川晶子の言葉を遮った。怒りが抑えられなかった。
「あれから何年経ったと思ってる。十年近くたったんだ。それを今頃になって謝罪したいって、どう考えてもおかしいだろ」
「そう思われるのは最もです。もっと早くに伺うべきでしたが、勇気が出ず、何年も経ってしまいました。申し訳ありません」
白川晶子が頭を下げた。文雄もそれに倣って頭を下げる。
開いた口が塞がらないとはこのことだろうか。勇気が出ず?そんな身勝手な理由で、今更のこのこやってきたのかと思うと、呆れて何も言えなかった。
「あの、大丈夫ですか?」白川晶子が遠慮がちに美優を見て言った。
「大丈夫かですかって・・・・・・大丈夫なように見えますか?」
間の抜けた白川晶子の問いに、僕の心は冷静になっていった。
彼女らは僕や美優にとって邪魔以外の何物でもない。排除するべきだ。
美優の体が震え始めた。これ以上負担はかけられない。
「自分たちの気持ちの整理のために来たんだったら帰れ。そんな事の為に妻が苦しむのは我慢ならない」
すると、白川晶子は意外にもすぐに引き下がってくれた。
「すみませんでした。また日を改めます。何かありましたらこちらに連絡をください」
白川は、連絡先の書かれた紙を置いて、出ていった。扉が閉まるまで、深々と頭を下げた。
僕は鍵を閉め、ドアチェーンをかけた。
美優は玄関でうずくまったままだった。僕は震える彼女の体を抱きしめた。
「亮太。ごめんなさい・・・・・・迷惑かけて」
「謝るなよ。今は僕のことなんてどうだっていいだろ」
「ごめん。ごめんなさい・・・・・・」
「もういい、今日は休もう」
僕は彼女を立たせる。腰のあたりを支えて、寝室まで連れていった。途中で立ち尽くしている姉とすれ違ったが、俯いていたせいでその表情は見えなかった。
彼女をベッドに寝かせた。彼女は布団を頭まで被ってから、消え入りそうな声で言った。
「私・・・・・・どうすればいいんだろう」
「いいから、今日は休もう」
そばにいて、と彼女が呟いた。
「うん、いるよ。ここに」
彼女の手を握る。
美優は安心したように目を閉じた。
一時間くらい前の光景が、脳裏に焼き付いたまま離れなかった。
別人のように取り乱した義妹と、それを支える弟の姿。
あれは一体なんだったのか。彼らは一体何を抱えているのだろうか。
ダメだと思いつつ、私は気づかれないようにそっと寝室のドアを開けて、中の様子を伺う。パンドラの箱を開けるような気分だった。
義妹はベッドで眠っているようだった。横では、弟がベッドに突っ伏していた。弟の肩は震えている。
「どうして・・・・・・守れないんだ?もう傷つけたくないって、そう思ってたのに」
見てはいけないものを見た気がして、私はそっとドアを閉めた。
あんな弟は初めて見た。
寝室のドアが開いて、弟がでてきた。その顔は憔悴しきっていた。
「ごめん、勝手に覗いて」
弟は何も言わなかった。
キッチンに行き、水道水をコップに注ぎ、一気に飲み干した。そして、私の方を向いた。
「これから話すことは、誰にも言わないで欲しい。母さんや父さんにも。約束してくれる?」
私は黙って首肯した。
それから、弟は事情を話してくれた。想像を絶するような話に私の心は痛んだ。
義妹に、そんな過去があったとは夢にも思わなかった。あの細身の体でそれほどの辛い記憶を抱えていたのかと思うと、胸の奥をぞわりと、気分の悪い何かが撫でた。
その時、不意に私の中である記憶が思い起こされた。
「ヒーロー」私は呟いた。
「え?」弟は面食らったような顔をした。
「覚えてる?昔、まだあんたが就職したばっかりの頃に、美優と亮太と私で飲みに行ったこと」
「あったな、そんなこと」弟は懐かしむように言った。
「あんたがトイレに行ってる時に、私聞いたの。こんな奴のどこを好きになったのかって、美優に。そしたらあの子が言ったのよ。『彼はあたしにとってヒーローみたいな人』って」
弟が驚いたような顔をした。
「そんなことを、美優が・・・・・・」
「私その時は、冗談だと思ったからさ。酔ってるのかって、冷やかしたんだけど。やっとあの言葉の意味がわかった。あと、あんたの覚悟も」
義妹が背負っているものは、自分のことだとしても辛すぎる過去だ。そんな重荷を、無条件に半分引き受けた弟の覚悟は一体どれほどのものだろうか。
「覚悟なんて、そんな大層なものは無い。それに僕はヒーローなんかじゃない。ただの傍観者だ。いつもただ見ているだけ。彼女を助けることなんてできやしない」
弟は力なく笑った。その頬を涙がつたう。彼もまた、苦しんできたのだろう。事情が事情なだけに、誰にも相談できず、たった独りで戦ってきたのだ。そして、何度自分の無力さに打ちのめされたのだろうか。
私に出来ることなど、あるのかどうか分からない。でも、彼らを助けたい一心で私は言った。
「美優は、私にとっても大事な義妹。力になるから、なんでも言ってよ」
それに、と私は続けた。
「あんたは、傍観者なんかじゃないでしょ。だって、ずっと傍で支えてきた人の事をそんな風に言える人なんていない。自信持ちな」
ありがとう、弟は震える声で言った。
「今日はもう帰るね、あんたは美優のそばにいてあげな」
ああ、と言って弟は寝室に戻っていった。
私は立ち上がった。
寝室からは物音ひとつしなかった。その空間は、全てを拒絶しているように思えた。
「おはようございます。山崎です。急ですみません。本日お休みを頂きたいのですが。はい、・・・・・・すみません、ご迷惑をおかけして。よろしくお願いします。失礼します」
電話を切って、寝室に戻った。枕元に置かれた時計は八時を指していた。普段ならもう出かけている時間なのに、美優は布団の中で丸まっていた。
彼女の隣に身体を横たえる。
「仕事いかないの?」美優が聞いた。
「今日は休むことにした」
「でも・・・・・・」
「今日は一緒にいたいんだ」
「ごめん・・・・・・迷惑かけて」
美優は目を伏せた。
「謝らなくていいよ」
「ごめん・・・・・・。でも、ありがとう」
そう言って、彼女は僕に抱きついた。僕の胸に顔を埋める。
しばらくそうしていると、美優が口を開いた。
「わがまま、言ってもいい?」
「なに?」
「行きたいところがあるの」
安っぽいテーマソングが流れているなか、ほとんど人の乗っていないローラーコースターががらがらと大層な音を立てて、走っていった。
町外れの寂れた遊園地に僕らは来ていた。どうしてここに来たかったのか、その理由は聞かなかった。それが彼女の望みなら、理由はどうでもよかった。
「次、あれ乗ろう」
美優はコーヒーカップを指さした。僕の手を取って、彼女は駆け出す。
何だかやけに明るかった。明らかに無理をしているのはわかっていたが、僕は何も言わなかった。それを指摘してしまえば、取り返しのつかないほど、彼女を傷つけてしまうような気がしたからだ。
コーヒーカップとメリーゴーランドを楽しんだ後、お腹がすいたのでお昼を食べることにした。
ワゴンで売られていたハンバーガーとホットドッグをひとつずつ買った。
「どっちがいい?」
「亮太君、好きなほうとっていいよ」
「じゃあホットドッグで」
彼女の好物がハンバーグだと知っていたから、僕はホットドッグを選んだ。
ホットドッグを一口かじって、僕は顔をしかめた。不味い。ソーセージは確実に冷凍食品だし、パンがパサパサで、口の中の水分を奪っていく。
「ハンバーガー、美味しい?」気を紛らわそうと彼女に尋ねた。
彼女は黙って首を振った。
「こっちもあんま美味しくない」
僕がそういうと、彼女はホットドッグを一口かじった。
「不味い」
僕もハンバーガーを一口貰ったが、やはり不味かった。
「失敗だね」彼女は笑いながら言った。
「でも、たまにはこういうのも悪くない」
「確かに」そう言って彼女は笑った。
食べ終わった後は、お化け屋敷に行ったり、ローラーコースターに乗ったりした。彼女は終始楽しそうだった。
まだ日は傾いていないが、閉園時間が近づき始めた。帰る前に、観覧車に乗ることにした。
ゆっくり、ゆっくりと観覧車は登り始める。眼下では暇なのか、こちらにずっと手を振っている係員のお姉さんがどんどん小さくなっていく。
「結構高いね」彼女がいった。
「怖い?」
「全然」
そう言いながら、彼女は僕の肩にもたれかかってくる。
「すごい、何だかジオラマみたい」彼女は楽しそうに言った。
観覧車は頂上に差し掛かり、下を見ると遊園地が広がっている。人も物も小さくて、本当に何かの作品を見ているようだった。
僕らだけ世界から切り離されたような、そんな気がした。
このまま時が止まればいいのに、観覧車は降下を始めてしまう。
「終わっちゃう」彼女がポツリと呟いた。
美優は僕の服の袖を握った。
「もう、大丈夫」
その言葉を聞いて、僕は安堵した。
「元気になった?」僕は尋ねた。
「うん、だから・・・・・・もう大丈夫」そう言って彼女は笑った。
僕の袖から離れた彼女の手は、当てもなく宙を舞い、コトンとベンチの上に落ちた。
彼女の方を見たが、未だ彼女の顔は笑顔のままだった。
目を覚ますと、いつも通りの時間だった。
僕はいつも通り、彼女の額を撫でて、ベッドを出た。いつも通り顔を洗い、朝食を作る。紅茶を入れた頃、いつも通り眠そうな顔で美優が寝室から出てくる。
「おはよう」
「おはよう、亮太君」
「今日は仕事行けそう?」
「うん、大丈夫」彼女は微笑んだ。
「良かった。元気になってくれて」
「本当にありがとう。すごく、楽しかった」彼女は噛み締めるようにゆっくりと言った。
「また行こう。今度はお弁当持って」
彼女は何も言わず、どこか困ったように笑った。
「ただいま」
仕事を終えて帰ってきて、いつも通りただいまと言ったが、返事はなかった。
まだ帰ってきてないのかな、そう思いながらリビングに入っても、彼女の姿はない。テーブルの上に、二枚の紙が置かれているのが目に入った。
一枚は離婚届だった。一部は既に記入されていて、美優の印鑑が押されている。
もう一枚は手紙だった。
『いっぱい、ありがとね。天音美優』
手紙の上で、小さなダイヤモンドがついたリングが、白色光を反射して光り輝いていた。
僕の頬を熱さがつたった。




