何もない日
色とりどりの光が車窓の外を流れていく。街を彩る人工的な光は、僕に冬の訪れを感じさせた。十二月に入って、街は華やかさを増す。街を歩く人々の足取りは軽く、その誰もが幸せそうに見えた。
仕事を終え、学校を出たのは夜9時の事だった。教師生活は三年目となり、今年は初めてクラスの担任を務めることとなった。忙しさは増し、毎日遅くまで学校に残って仕事をしている。
美優はこの春から、病院の調剤薬局で薬剤師として勤務している。去年は卒論、就活、国家試験と忙しかったが、就職して忙しさが収まる訳もなかった。
お互いに忙しく、会える時間は限られている。しかし、そんな日々の中で彼女との時間はかけがえのないものだった。
少しずつ、本当に少しずつではあるが、彼女との距離を縮めるよう努力してきた。美優も少しずつではあるがそれに応えようとしてくれている。
普通のカップルとは異なる形だろうが、ただ寄り添っているだけでも愛を確かめ合うには十分だった。
アパートに帰ってくると、僕の部屋の前に人影が見えた。誰だろうと思いながら近づくと、扉の前に立っていたのは美優だった。厚手のコートに身を包み、左手をポケットの中に入れている。右手に持った紅茶のペットボトルの中身は空になっている。
「美優?どうしたの急に」
「ごめん・・・・・・なんとなく顔が見たくなって、家まできちゃった」
言葉とは裏腹に、彼女はどこか沈んだ表情をしていた。
「もしかして、ずっと待ってた?」
彼女は首を横に振った。
彼女の頬に触れてみると冷たかった。やはり、外でずっと待っていたようだ。
「嘘、絶対待ってたよね」
彼女は俯いて、ごめんなさい、と呟いた。
「まあ、いいや。とにかく上がって」
彼女を部屋に入れると、僕は毛布を持ってきて美優にかけてやった。暖房を入れ、暖かい紅茶を入れる。
ありがと、と言って彼女は紅茶を飲んだ。ため息が漏れる。
今まで、急に彼女が部屋に来たことは一度もなかった。気になって、僕は彼女に尋ねる。
「ねえ、なんかあった?」
「ないよ、何も」彼女は沈んだ声で言った。
僕はそれ以上聞かなかった。
時間も遅かったので、今日は泊まっていってもらうことにした。美優は既に夕食を外で済ましてきたようなので、彼女がお風呂に入っている間に、簡単に夕食を済ませて、布団を敷いた。
美優を布団で寝かせ、僕はソファで寝ることにした。
明かりを消そうとした時、美優が僕の服の袖を掴んだ。
「一緒に寝たい」
「え?」驚いて僕は聞き直した。
「ダメかな」
「ダメじゃないけど・・・・・・」
彼女が布団の半分を開けてくれる。僕は明かりを消して、彼女の横に潜り込んだ。
彼女と同じ布団で寝るのは初めてで、どうすれば良いのかわからなかった。
少し体を動かしただけで、彼女の体とぶつかってしまいそうな距離感のせいで、変な緊張を感じた。
「まだ起きてる?」
しばらくしてから、彼女に問いかけた。
返事は無かった。どうやら眠ってしまったようだ。
一人用の布団は、二人で寝るには狭すぎる。それに、彼女の体温や匂い、鼓動を間近に感じるこの状態では、とても寝付けそうになかった。
僕は布団から出ようと、ゆっくりと体を起こした。立ち上がろうとしたところで、後ろからシャツを引っ張られた。
「行かないで」美優が目を覚まして、こちらを見て言った。
そばにいて、と彼女は消え入りそうな声で言った。
僕は仕方なく、布団の中に戻った。
彼女の表情はいつになく沈んでいた。僕はそれを見たくなくて、彼女に背を向けた。
背中に柔らかい感触を感じた。
美優の手が僕のお腹の前に回される。首のあたりに、彼女の息がかかってくすぐったかった。
「ちょっとの間、こうしてていい?」彼女がささやいた。
いいよ、と言うと彼女は先程までより強く僕を抱き締めた。
「何かあった?」僕はもう一度彼女に問いかけた。
「ないよ。何かあったわけじゃないの。ただ、無性に寂しくなって、ダメになりそうで、いけないとわかってても、寄りかからずにはいられなくて。弱いね、私」
ごめんなさい、と彼女は力なく言った。
やはり、彼女の根底には未だなお「痛み」が巣食っている。わかっていた筈なのに、いざ目の前にすると僕は怖気づいてしまう。
でも、彼女を支えると、そう決めたはずだ。足りない頭で考えよう。彼女の陰りを晴らすにはどうすれば良いか。
「辛い時は頼ってよ。力になりたいんだ。君の力に」
それほど多くの言葉はいらないように思えた。自分の思いをストレートに示せば、彼女に届く、そう思った。
「うん、気持ちは嬉しいよ。でも私、亮太君に迷惑かけたくないの。もっと上手くやれればいいのに、難しくって」
「上手くやる?何を?」
「ねえ、私今幸せなの。亮太君と一緒に入れて、目標だった薬剤師にもなって。すごく幸せなの」
なのに、と彼女は続けた。
「なのに、なんで忘れられないんだろう。こんなに幸せなのに。あんな記憶忘れてしまった方がいいに決まってるのに、いつまで経っても消えてくれない。ずっと奥にあって、すごく、痛いの」
彼女が鼻をすする音が聞こえた。
彼女の腕から抜け出し、今度は逆に僕が彼女を抱きしめる。その細身の体は小さく震えていた。
「ごめんね、何もしてやれなくて。でも、大丈夫、大丈夫だから」
こんなにも、無責任でなんの意味もない言葉しかかけてやれない自分に、心底嫌気がさした。
助けたい、支えたい、その気はあっても結局彼女がどうしようもないほど傷つくまで、助けられない。後悔するのは何度目だろう。結局僕は変われない。傍観者のままだ。
彼女は僕の胸に顔を埋めた。僕はそっと彼女の頭を撫でる。
すすり泣く音が、真っ暗な部屋にいつまでも響いているような気がした。
彼女が眠ってしまってから、僕は布団から出た。
引き出しから裁縫用の糸を取り出し、彼女の元へ戻る。
起こさないようにそっと、彼女の左手の薬指に、糸を巻き付ける。
僕が知らない所で、彼女は何度、一人涙を流したのだろうか。幾度となく眠れない夜を一人で過ごしたのだろうか。
考えただけで嫌になった。もう、彼女が一人で傷つくのは見たくなかった。
彼女の寝顔を眺めると、気持ちよさそうに眠っている。
僕は、彼女が好きだ。彼女がどれだけ弱さを見せても、それでも彼女のことが好きだ。
心配性でいつも人の事ばかり気にかける彼女の性格、気恥ずかしさを隠すために顔を隠す仕草、ふとした時に見せるふにゃりとした笑顔。そのどれもが愛おしくてたまらない、ぼくにとってかけがえのないものだった。
もう傷つけたくない。彼女を守りたい。
そのために僕にできることは何だろうか。頭の悪い僕にはたった一つくらいしか、思いつかなかった。