変わる日
夕方6時、数学準備室にはまだほとんどの教師が残っていた。
「お先に失礼します」
声をかけると、同僚達の多くは顔をパソコンに向けたままお疲れ、と口々に呟いた。軽く会釈をして準備室を出た。
高等学校の教諭として勤務し始めて、一年がたとうとしていた。慣れるまでは失敗ばかりだったが、ようやく半人前程度にはなれているだろう。
校舎を出ると、まだいくつかの教室の明かりがついていた。
高校教師にとって3月というのは極めて忙しい時期だ。大学受験、成績判定、高校受験、転勤、新学期の準備等々、様々な雑務が重なり、多くの教師が忙しく働いている。
僕も普段なら遅くまで残業しているが、今日は早めに仕事を切り上げた。といっても、まだ帰宅する訳では無い。
中古の軽自動車に乗りこみ、エンジンをかける。ドライブデートをするなら、もっとマシな車を買わなければと思うが、生憎僕には新車を買えるような余裕はなかった。
美優は気にしないかもしれないが、同僚達にオンボロとからかわれたこの車に、彼女を乗せる気にはならなかった。
美優の通っている学部は六年性のため、僕が社会人となった今も、彼女は大学生活を謳歌している。しかし、薬剤師を目指している彼女にとって遊ぶ時間など皆無だ。
お互いの忙しさを口実に、二人の時間は減る一方だった。
今思うと、彼女が卒業式の日に吐露した懸念は間違ってはいなかったように思われる。当時と今とでは、僕らの関係性は大きく変わった。毎日会っていた日々は遠い昔のことで、今では月に数度お酒を飲みに行く程度だ。たまに、どこかに出かけたりもするが、その頻度も減ってしまった。
相変わらず、彼女との距離感は停滞を保ったままだ。僕の方にも原因があることには、いい加減気づいていた。美優が嫌がるだろうから、それを口実に僕は彼女との距離を縮めようとはしなかった。
もしかしたら、彼女は僕が近づいてくるのを待っているのではないか、そう思うことは何度もあった。しかし、その度に脳裏によぎるのは、僕の手を払いのける彼女の姿だった。
拒絶されるのが怖かった。どうせ彼女はあの日から動けないままなのだから。そう勝手に決めつけて、僕は彼女に期待するのをやめてしまった。
終わらせないなんてどの口が言ったのだろうか。あの日、口にした妄言はほとんど実現させようとしなかったというのに。刻一刻とその時は迫っているように思えた。
くだらないことを考えてしまったせいで、これからの時間がひどく憂鬱に思えた。目的地はもう目の前に迫っていた。
居酒屋に着くと、姉の美弥子と美優が既に席に座っていた。
「遅いよ、亮太。あんまり遅いからもう始めちゃったよ」
「はいはい、すみませんね」
店員が来たので、僕は生ビールを頼んだ。テーブルの上には料理が数品並んでいる。
美優と会いたい、唐突に姉が言い出したのがきっかけで、今日は三人で飲むこととなった。
姉と美優は初対面なのだが、先程まではどんな会話をしていたのだろうか。
「なんの話してた?」
「美優ちゃんの大学のこととか、あとはあたしの仕事の愚痴とか」
「なんかごめんね、付き合わせて」
「全然いいよ」美優は微笑んだ。
姉は地元の中小企業で事務員として働いている。なかなかストレスが溜まる職場らしく、会う度に愚痴を聞かされる。美優は平気そうにしているが、恐らく内心ではそう思ってないだろう。
「それより亮太君、仕事大丈夫だった?この時期って忙しいんじゃないの?」
「忙しいけど、まあ一日ぐらいは平気だよ」
「そっか」
それから、また姉の愚痴が始まり、僕と美優はそれを延々と聞くハメになった。
しばらくして、トイレに立った。
ここに来るまでに考えていたことがずっと頭を回っていた。あんなことを考えていたのに、いざ彼女に会うと、どこか浮き足立ってしまう自分が、気持ち悪くて仕方がなかった。自分は結局どうしたいのか、わからなくなってしまった。
そんなダメな奴でも好きなんだろ、いつか友人に言われた言葉が頭をよぎった。
普通に考えれば、美優と一緒にいるよりも充実した日々を送る方法がある、ということには簡単に気づけるはずなのに、頭の中では痛いほどわかっているというのに。彼女と過ごした時間が愛おしくてたまらなくて、手放すことは僕には出来そうもなかった。
席に戻ると、二人は談笑していた。
「何それ、酔ってるの?」
「酔ってないです、真面目に言ってます」
何だか楽しそうな雰囲気だった。
「何の話?」会話に入ろうとして話しかける。
「何でもないよ」美優が有無を言わさずいった。お酒のせいか少し顔が赤い。
どうやら僕に聞かれたくない話だったらしい。ふーん、とだけ返すと、また、姉の愚痴が始まった。今度は今付き合っている男性の話だった。
「今日はなんかごめんね」
「全然いいよ、私も楽しかったし」
「姉貴はいつもあんな調子で、僕も困ってるんだ」
「でも亮太君、文句言いながらちゃんと聞いてた。何だかんだお姉さんのこと嫌いじゃないでしょ」
「そりゃ、嫌いではないよ。家族だし。ただ、他人の前であれはちょっとね。あの人結婚とかできるのかな」
「素敵なお姉さんだと思うよ。素直なところを好きになる男の人もいると思うし」
「あれは素直とは言わないよ。ただ口が悪いだけ」
「そうかな」美優は笑いながら言った。
夜の街には、多くの人が行き交っている。
美優の視線はすれ違う人々に向けられていた。寄り添うカップル達は、手を繋いだり腕を絡ませたりしている。対する僕らは、近くにいても少しの距離を保ったままだ。傍から見たらカップルには見えないのだろう。
「そういえば、美優は今日大丈夫だった?忙しくなかった?」
「大丈夫だよ。でも、春になったら、今より忙しくなると思う」
だから会えなくなる、遠回しにそう言っているようだ。
「今年は忙しいもんね、試験とか就活とか」
「うん、でもこうやってたまには会いたいな。亮太君に会えると、嬉しいから」そう言って彼女は笑った。
街の雰囲気、彼女の言葉、この雰囲気に乗っ取って、一歩だけ歩み寄ってもいいだろうか。拒絶されたらどうしようか。脳裏に僕の手を払いのけた彼女が浮かぶ。迷った末、僕は何も行動を起こさず、そのまま歩き続けた。
不意に、暖かくて柔らかい感触が指先を覆った。彼女の手が、僕の指を握っていた。
彼女の方を見ると、赤く染った頬を隠すように首に巻いたマフラーを鼻の下の辺りまで上げた。
彼女は、確かに変わろうとしている。少しずつでも、歩み寄ろうとしている。僕は彼女が路地裏でうずくまったままでいると、決めつけていた自分を恥じた。彼女があの日から動けない、そう思ったのは僕の勝手な思い込みだ。彼女はいつだって前に進もうとしている。
それがもし、強がりだったとしても構わない。もし彼女がいつかのように潰れそうになった時は、僕が何度だって彼女の手を取ろう。それが、僕が彼女にできることだ。
迷いは晴れた。僕は、彼女との距離を半歩詰める。お互いの肩がぶつかった。歩きにくいよ、と彼女は文句を言った。僕は何も言わず、彼女の肩にわざと自分の肩をぶつけた。もう、と言って彼女も僕の真似をする。
この時間が心地いい。ずっと続けばいいのに、駅はもう目の前だ。
僕らは駅への道をひどくゆっくりと歩いた。
熱い手のひら返し