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幸せの定義  作者: 八重
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幸せな日 前編

 目が覚めた時、自分がリビングの床の上で眠っていたことに気づいた。

 手には、彼女の置き手紙を握りしめていた。ぐしゃぐしゃになったそれを、ゴミ箱に向けて放った。紙くずは、ゴミ箱の縁にあたって、カサリと音を立てて床に転がった。入れ直すのも面倒で、そのまま放置した。

 募る苛立ちを発散しようと頭を掻きむしったところで、お腹が鳴った。そういえば昨晩は何も食べていなかった。しかし、酷い空腹感に苛まれているのに、何も食べる気が起きなかった。

 仕事に行く気にもならないので、高校に欠勤の連絡を入れた。

 またですか、と不機嫌そうな声で教頭に言われたが、もはや気にもならなかった。

 することもないので、もう少し寝ようと思って僕は寝室に入った。

 セミダブルのベッドに身体を横たえる。しかし、一人でベッドにいると、どうしても空いた空間への違和感と不快感を捨て去ることができなかった。

 僕は、すぐに起き上がって、逃げるように寝室を出た。

 寝室を出た僕は、何かに駆られるように家の中を歩き回った。

 ハンガーにかけられた女性物のコート、キッチンに置いてあるパステルカラーの可愛らしい小物、本棚に詰まった薬学の参考書、洗面台に僕のものに並んで置かれたピンク色の歯ブラシ。そのどれもが、彼女の面影を感じさせ、僕の心を揺さぶった。

 家の中のどの部屋にも、彼女と僕の匂いが染み付いてしまって、今の僕には苦痛以外の何でもなかった。

 家を出て、どこかに行こうかと思ったところで、インターホンが鳴った。扉を開けると、美優の親友である柳原綾が、どこか複雑そうな表情を浮かべて立っていた。

「久しぶりだね、山崎君」

「久しぶり。結婚式以来だっけ」

 自分で言って虚しくなってしまった。

 綾も事情を知っているのだろうか。気まずそうに目を伏せた。

「今朝までね、うちにいたの。美優は」嫌な空気を晴らすように、綾が言った。

「そうか」

「うん、今朝早くに出かけていって、今日は実家に帰るって言ってた」

「そうか」

「もし、山崎君から連絡があっても絶対居場所を言うなって言われてたんだけど・・・・・・まあ実家だしいいかなと思って」前髪を弄りながら、綾は言った。

 確かに、僕が彼女を探すなら一番最初に実家を当たるだろう。隠す意味などない。しかしそれなら、わざわざ平日に綾がそんなことを伝えに来る必要は無い。

「どうして、それを伝えにきたの?」

「だって、昨日の美優の雰囲気おかしかったから。旦那との生活に耐えられなくて家出したって私には言ったけど、とてもそんなふうじゃなかった。でも、私には何もわからないし、何も出来なかった。だから山崎君なら何とかしてくれるかと思って」

「そうは言っても、愛想つかされたのは事実だしなあ」僕は自虐的に言った。

 僕は綾に離婚届を見せようと、テーブルの上に置いてあったそれを掴んだ時、コトリと音を立てて指輪が落ちた。

 綾ははっとしたような顔をした。指輪、と小声で呟いた。

 僕は指輪を拾い上げて、テーブルの上に戻すと、綾に離婚届を見せた。

 彼女はそれを一瞥してから、僕に言った。

「山崎君さ、これからどうするの?美優とのこと。諦めるの?」

「諦めるも何も、もう遅いんだよ。終わったんだ」僕は吐き捨てるように行った。

「ねえ、本当に美優に愛想つかされたと思ってるの?そんなわけないでしょ。女が男を捨てる時、指輪を置いて言ったりなんかしないよ。男から貰ったアクセサリーとか金目の物は持っていって、後でリサイクルショップで換金するの。ダイヤの指輪なんて置いていくわけないよ」

「荷物は後で取りに来るって・・・・・・」僕は言い訳をするように、口ごもって言った。

「いい加減にしなよ。いいの?このままで」怒鳴りつけるように、綾は言った。

 大人しい綾が、こんなに声を荒らげるのを初めて見た。

 彼女の剣幕に僕が呆気に取られていると、綾は先程とは打って変わって、どこか悲しそうに言った。

「だって昨日の夜、美優泣いてた。一人で。友達のそんな姿見たくないよ」

 本当は痛いほど分かっていた。彼女がどうして出て行ったか。それでも、本当にそうか確かめるのが怖かった。

 もし、彼女が本当に愛想をつかして出て行ったのだとしたら。そんな現実を眼前に突きつけられたら、僕は生きていけないだろう。

 いつだってそうだ。僕はいつも彼女の気持ちを都合のいいように決めつけて、足を進めるのを止めてしまう。彼女に拒絶されるのが他のどんなことよりも怖くて、自分でも驚くほどに彼女のことが好きなのに、彼女に歩み寄ることをためらってしまう。彼女が待っているかもしれないというのに。

 ふと、姉の話を思い出した。彼女は僕のことをヒーローと形容した。僕はそんな大層な存在じゃない。それは分かっている。

 でも、彼女は一人で泣いていたという。もし、彼女がヒーローを失って一人で苦しみに耐えているとしたら。

 僕は何の為に誓ったのか。一人で苦しませないためじゃなかったのか。

 もし、彼女が僕を望んでくれるとしたら、僕は彼女に尽くそう。

 僕が嫌悪した、家に染み付いた彼女と僕の匂い、それは紛うことなく、幸せそのものだ。

 あの幸せを取り戻すためだったら、僕は何だってしよう。

 僕は両手で自分の頬を張った。じんわりと痛みが伝わる。

 急に奇行に走った僕のことを、綾が驚いたような顔をして見ていた。

「ごめん、目が覚めた」

 綾の顔がぱっと明るくなった。ふぅ、と大きく息をつく。

「もう、本当めんどくさい。山崎君も美優も」

 そう言って綾はため息をついた。

「私ね、美優と山崎君が結婚してくれて本当に嬉しかったんだよ」噛み締めるように綾は言った。

 お互いの両親や兄弟よりも早く、真っ先に結婚を報告したのは綾だった。その時、彼女は涙を流して喜んでくれた。

 彼女の言葉に嘘はないだろう。心からそう思ってくれているのだ。

 綾の言葉に僕は救われた気がした。彼女がいなかったら、全てダメになっていたかもしれない。

「ごめん、迷惑かけて。あと・・・・・・ありがとう」

 僕は綾に頭を下げた。そうするべきだと思ったからだ。

「どういたしまして」

 そう言って、綾は少し恥ずかしそうに目を逸らした。

「じゃあ私は帰るけど、何か私にできることがあったらなんでも言って。協力するから」

 綾は背を向けて歩き出した。しかし、少し歩いたところで彼女は立ち止まって振り返った。

「そうだ、あともう一つ。これ、部屋に落ちてたんだけど美優のかな。なんか、住所とか電話番号とか書いてあったから。捨てちゃまずいかと思って」

 そう言って、彼女はカバンから紙を取り出して、僕に差し出した。

 それは、白川が置いていったメモ用紙だった。



 綾が帰ってから、僕は姉に電話をかけた。

「もしもし、今仕事中なんだけど」

 仕事中とは言われたが、仕事中に電話を取るほうが悪いので、そのまま続ける。

「力貸して」

「だから仕事中」うんざりしたように姉が言った。

「何時に終わる?」

「五時くらいかな」

「わかった。会社まで迎えに行く。付き合って欲しいところがある」

「いいけど、何するの?」

「僕が間違えそうになったら、止めてほしい。姉貴にしか頼めない」

 姉は何か考え込んでいるのか、押し黙った。

「聞いてる?」

「聞いてるよ。わかった。後でね」



 姉が勤務する会社の下に車を停めて待っていると、ぴったり五時に姉が会社から出てきた。

「ごめん、急に」

「いいよ、力になるって言っちゃったし。で、どこ行くの?」

「白川の家」車を発進させながら、僕は言った。

「そういうことか。あんた、まさか刃物とか持ってきてないよね」姉は慌てた様子で言った。

「そんなわけないだろ。ちゃんと話し合いに行くだけだから。ただ、衝動的になっちゃう可能性も考慮して、ストッパーが必要だと思って」

「私が止められるとは限らないよ」

「止められるよ。忘れたの?僕が姉貴と喧嘩して勝ったことなんて一回もないんだよ」僕はニヤリと笑って得意げに言った。

 いつの話よ、と言って姉は笑った。

 しばらく沈黙が流れた。

 僕は、車のラジオをつけた。今流行りの男性アイドルの曲が流れ始める。初恋の気持ちを歌った曲だった。

「ねえ、亮太が美優と付き合い始めたのって、例の事件より前なんだよね?」

「そうだけど」

「どうして、そばにいようと思ったの?そんなことがあったのに」

 僕は押し黙った。

 姉が思っているほど、僕は彼女を献身的に支えていたわけではない。むしろ、何度も関わるのを止めようかと思ったくらいだ。

 自分でもなぜかわからなかった。どうして、自分は彼女のそばに居るのだろうか。

「なんというか・・・・・・自分でもよくわからない。実際、事件が起こった後はもう関わらないでいようと思った時もあったし・・・・・・」

 そこまで言って、僕ははっとした。

 赤信号で停車している間に、僕はスマートフォンを操作して、ある画面写真を姉に見せた。フォルダーの一番奥にあった、何故か残っている画像。それを無意識のうちに残しているのは、これが全てのきっかけだったからかもしれない。

「これかもしれない。僕が彼女のそばにいる理由」

「『プリン食べたい』って、何これ?」

「事件の後毎日のように彼女に連絡とってたけど、一ヶ月くらいずっと返信くれなくて。もう関わらないでほしいってことなんだろうって、勝手に解釈して彼女のこと諦めようとしたんだ。そんな時、これが送られてきた。たった・・・・・・たった一言だよ。こんなどうでもいいような内容なのに、頼られたのが嬉しかった。それから、彼女に会って話を聞いて、そしたら離れられなくなった」

 姉は胸に手を当てて、じっと聞いていた。

「根拠はないけど、彼女の手を離したら一生後悔するだろうって。そう思って・・・・・・。馬鹿だよね、本当」

 姉は何も言わず、どこか愛おしむようにスマートフォンの画面を指先で撫でた。

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