後輩よ、お前の魔法は馬鹿なおれには効かない
「うきしー、だぶてぃい、わい!」
と唱え後輩は両の手を突き出したまま固まった。おれはジャンプをしたり両頬を叩いてみたりと試してはみたが、体にはこれといって変化はない。それを見た後輩は、まったく困った人だなあと言わんばかりに肩をすくめ定位置のパイプ椅子に腰掛ける。そうして、何事もなかったかのようにスクールバックから取り出した単行本に目を落とした。
どうやら失敗らしい――そう判断したおれは長机にセンター試験対策本を広げ、シャープペンを手に取った。
この文芸部室にカリカリと音を立てながらノートの上をシャープペンが走る。ずいぶんと静かだ。隣の後輩はといえば、ひたすら読書に勤しむ地蔵のようである。
淀みなく進んでいた手を止め、窓の外に目を凝らす。視界を遮る欅の木の向こうでは野球部やサッカー部たちが、この炎天下にもかかわらず楽しそうに汗を流していることだろう。
かくいう我が文芸部の部員は二人だけ。新入生の勧誘も積極的に行わぬ限界集落の部に好んで入部するような物好きはいない。とはいえ、実はこの部も去年までは校内最大勢力であった。しかしその実態は、単なる帰宅部の受け皿だったのである。
昨年度までは『課外活動は人生を豊かにする』をモットーにしていたこの高校は、全員が部活動をしなければならなかった。大抵の人間は部活動に青春を費やすつもりなのだろうから影響などないが、悲しきかな青春を求めぬ者も一定数いた。そのような者たちの安息の地こそ、この文芸部だったのである。
しかし、今年度からはその方針もなくなり文芸部員は帰宅部へと大量移籍を果たしたという訳である。
かといって、今この場にいる文芸部員たるおれはといえば、悲しいかな文芸になど興味はないばかりか、センター試験で最も枷となっているのが現代文や古文といった有様である。
そんなおれが何故ここの一員として残っているのかといえば、この後輩による一言によるものである。
ちらりと後輩に目を移すと、偶然か件の彼女と目があった。
「なんでしょうか先輩。ぼーっとしている暇があったら一問でも多く解いたらどうなんですか」
「ちょっと休憩中なんだよ。ずっと勉強してたら肩がこるだろ」
「ずいぶんと長いちょっとですね。まあ、仕方がありません。わたしも一冊読み終わったところですし休憩を許しましょう」
後輩は席を立って急須に茶葉を振り入れる。おれは棚から湯呑みを2つ取り出し長机の上に置いた。
急須にお湯が注がれると冷房の風に乗って茶の香りが部室を包んでゆく。後輩はカバンの中から二包、透明な袋でラッピングされたお菓子を取り出した。おれは 片方を受け取って緑のリボンを解き、バニラとココアで市松模様を作ったクッキーを口に入れて茶をすすった。
「うまい」
「……まったく、先輩はだめだめです。昨日の残り物で余ったとはいえ、可愛い後輩の手作りなのにもっと良い褒め方はないんですか?」
「まあ、少し前からはだいぶ上達したんじゃねーかな」
初めてもらったクッキーは見た目も悪く味も悪かった。それを考えれば間違いなく上達している。
「呆れた。魔法実験のお礼に作っているとはいえ、そんなだと明日は砂糖と塩を間違えてしまうかも。どうします、先輩?」
「それは困る。魔法の成果に比べれば、料理の上達は目を見張るものがある。おれの愚妹に爪の垢でも煎じてやりたいところだ」
「それは複雑です。わたしとしては魔法の成果のほうが大事なんですけれど」
なぜおれが文芸部に残っているのか――それはもちろん、一流の文士として名を残すべくこの文芸部からその軌跡を始めよう――などと思ったわけではない。
現在になっても信じられぬことであるが、この後輩に「先輩、魔法の実験台になってください」などと言われたからである。
それまで、おれにとってこの後輩のイメージはといえば、ひたすら寡黙に本を読んでいること、そして、学年一の秀才であること――それくらいであった。だから、その直後は脳みそがパンクしており、そしてスキをつかれて実験台になることに合意していた。とはいえ、後に断ることなど容易くできた話である。しかしながら、冷暖房完備の文芸部室は受験生のおれが勉強をするのに適している。加えて一つ下とはいえ後々対価として差し出された――この秀才たる後輩にマンツーマンで勉強を教えてもらえる――とあらば補修常連の受験生に断る理由はない。
とはいえ最初は緊張した。魔法などこの世にはないことなどわかっていたが、おれは未だホラー映画を見たあとは一人でトイレに行けない人間である。だから、万が一も、と一抹の不安があったが、結果はこの通り何事もなく平穏な生活をおくれている。
そんなことを考えていると、おれの胸ポケットでスマートフォンが振動した。設定したタイマーが鳴ったのである。休憩は終わり、の合図。後輩はちらりとそれを一瞥すると再び本を手に取った。おれはロック画面から振動を止め、ぽきぽきと指を鳴らしてからシャープペンを手に取った。
本日予定していた量の学習を終えると同時にチャイムが鳴った。課外活動の終わりを告げる音である。リュックサックの中に勉強道具一式をゴミ箱に捨てるように放り込む。
部室の鍵を探すと入り口に立っている後輩と目があった。すると、後輩は右手でつまんだ鍵をぷらぷらと振った。
「悪いな、いつも遅くまで付き合ってもらって」
「いえ、別におかまいなく。本を最後まで読みたかっただけですから」
「そうか」と答え、おれはリュックサックを背負った。「じゃ、帰るか」
「はい」と後輩は答えた。
「ながの、すたでこ、とすあき!」
翌日の放課後、いつも通りの魔法を受けてからパイプ椅子の背もたれに体を預けた。口の空いたリュックサックからタオルを取り出し汗を拭き、机上のベビーパウダーの香りの制汗スプレーをワイシャツの中に無造作に噴射した。何度か深呼吸をすると、冷房が効いてきたこともあり熱が消えていくのを感じた。
さて今日は物理をやろう、と意気込んだそのとき、後輩が話しかけてきた。
「一つ伺いますけれど、先輩は彼女とか作らないんですか?」
「いきなりだな」
「わたしだって可愛い女の子ですから。恋バナの一つや二つ気になるというものです」
「そうなのか」
「そうなんです」
「――見たらわかるだろ、おれなんて影も薄くて頭も顔も良くない。好きになるやつなんていない。高校では諦めて大学に賭けることにしてる」
問題があるとすれば、おれは中学でも似たようなことを言っていた点である。
中学は諦めて高校で彼女を作るのだ、と。
「それでは、単に自分が冴えないだけから駄目なだけで、人並みの性欲はあると?」
「おまえはおれをなんだと思っているんだ」
「聞きたいですか? おすすめはしません」
「じゃ、やめとく」
残念と言わんばかりに後輩は肩をすくめて首を振った。おれはふと気になって、「そういえば」と切り出した。
「なんで魔法なんて使いたいんだ?」
後輩は下唇に右人差し指を当てる。目線が下がり肩にかかっていた髪がするりと流れた。
「そうですね」と後輩は顔を上げて言った。「わたしには呪いがかかっているんです。それを解くためには魔法が必要なんです」
「それはどんな呪いなんだ?」
「他人に言える呪いではないのです。それも厄介なことに、代々うちの家系の女は発症しているのです」
「それなら、お前の親に解いてもらえば良いんじゃないか。前例があれば解決なんて容易いだろ」
後輩は長い溜息をついた。
「残念ながら、自分でどうにかしなければ解けないものなんです、これは」
「だったら」とおれは言った。「おれを実験台にせず自分で解呪を試したらどうだ。それに、おれには呪いはかかってない訳だし、そりゃあ効果もでないだろうよ」
「いやですよ。わたしの身に何か起きたらどうするんですか。それに、先輩にかけている魔法は直接呪いを解くものではありません」
「面倒な話だな、それは」
「そうなんです。どうか、効果がでるまで付き合ってくださいね」
「おまえが勉強を教えてくれる限りな」
「では一つ。先輩、最近苦手な現代文と古文を避けて勉強していますよね。今日は物理ではなく、現代文をしましょう」
おれはゴキブリを素手で触るような気持ちでリュックサックから現代文の教科書を掴んだ。
受験生にはある意味休日などは存在しない。
おれは苦手の一つである古文を克服するため、近所で一番大きな本屋を訪れていた。
陳列されている古文の参考書たちを眺めても、良し悪しなど到底わからない。
困ったと立ち尽くしていると、
「かくと、だにえやは、いぶきのさ、しもぐ、ささししら、じなもゆるおも、ひを」
背を叩かれ、静謐を良しとする本屋におれの小さな悲鳴が雷鳴のごとく伝播した。
振り返って声の主を確かめると、膨らんだ心臓が、茹でたホウレン草のようにシナシナと萎んでいった。
「後輩、先輩をからかうのはやめような」
デニムジャケットを羽織り、膝上まで伸びた白のワンピース。背中には上下で白黒に分かれたミニリュックサック。いつも制服の後輩ばかり見ているせいか、彼女がずいぶんと眩しく見えた。
半袖半パンとはいえ、真夏にも関わらず全身真っ黒なおれに比べると、実に涼やかである。
「からかったわけではありません。休日ということで本屋を冷やかそうと繰り出したところ、しょぼくれた見知った顔が。そうと決まれば善は急げです。そんなこともあって先輩に魔法をかけてみた次第です」
珍しく相好を崩して言う後輩に毒気を抜かれ、おれはため息を一つついた。
「今回はいつもと雰囲気が違ったな。歌みたいに言ってたし」
「そうです。これは、歌として唱える魔法ですから」
「どういう魔法なんだ?」
「秘密です」後輩は小さく手を叩いた。「せっかくです。何の魔法か探してみたらどうでしょうか? 幸い、先輩の目の前には資料が転がっているわけですし」
無茶である。
この本屋はうちの地域では最も大きなもの。この中から探すのなど至難の技に違いない。
「かく……いぶ……。すまん、何だったのか忘れたからもう一度頼めるだろうか」
「どれだけ記憶力がないんですか、先輩は……」
「人並なら、おれは今現在赤点まみれになってないだろうな」
「なんと教えがいのない」
情けのないことにおれという先輩は、後輩に見捨てられてしまえば到底古文の壁はこえられない。
機嫌を残っては一大事である。おれは媚を売ることにした。
「先生、どうかこの卑しきわたしに教えてください」
「それはいや」と後輩は言った。「先生に聞くだけだと成長しませんから。なにより、効かなかった魔法を二度も使うだなんて無駄ですし」
これ以上突っ込んで機嫌が悪くなってしまうのは困る。分が悪いのはこちらの方である。何せ、現代文と古文の点数を人質に取られている。
「なら、おれにおすすめの参考書を教えてくれると助かるかな」
後輩はこくりと頷いた。
「折衷案としては悪くはありません。ですが、人に物を頼むんですから当然誠意というものが大切です。そうですよね、先輩」
おれはピースサインを右手で作り、後輩の目の前に差し出した。
長い年月、お客を沈めてきたであろうソファに背中を預け、向かい合う後輩に向けておれはため息をついてみせた。
「参考書より高くなったぞ」
しかし、後輩の耳には念仏であったようで、眼前に並ぶ3つの珈琲ゼリーに釘付けのご様子であった。
グラスに入ったアイスコーヒーに口をつけ、ぼんやりと窓の風景を眺めた。炎天下の雑踏の渦の中にはおれ達と同じ制服がチラホラと見かけられる。背中に竹刀袋を背負った数名が通り過ぎ、ベンチに座りソフトクリームを頬張りながら会話を楽しんいる女の子が二人。その前を通り過ぎるのは二人だけの世界に入っているだろう男女の一組。
おれたちはどんな関係に見えるのだろうか、ふと思った。
――幸せそうに喫茶店でデートするカップル?
コーヒーゼリーを至福の表情で頬張る後輩に視線を向ける。
中学時代に比べれば潤ってる、と思った。一つ下の後輩と二人きりで休日に会っているだなんて中学生のおれから見れば遠い夢のような出来事である。気恥ずかしくて口になど出せないが、くりっとした眼と笑った時にできるえくぼはおれの好みである。普段話していて不快になることなんて滅多になく、時折衣服の端から除く白い肌にドキドキする。
好きか嫌いかといえば、言うまでもなく――。
「なんですか、じろじろとこちらを見て。セクハラですか? もしや……」
そう言って後輩は両腕でコーヒーゼリーを覆い隠した。こんな真剣な顔をする後輩は見たことがない。
おれは青春の香りが無香料であったことに気がついた。どうやらこの喫茶店はエアコンが効きすぎているのかもしれない。おれは頭痛を覚えて額に手を当てた。
後輩は怪訝な表情をしたのち渋面を作り、
「一口ならあげますよ?」
「ありがとう」とおれは答えた。
「さんゆきゅけびえすてあと、あるじだぶ、りゅあとある」
おはようの代わりに朝一番登校中に魔法をかけてきたのは、言うまでもなく後輩であった。眠気に引きずられているおれとは対照的な後輩が隣にならぶ。
おれはあくびを一つ漏らし、
「おはよう。一昨日ぶりだな」
「そうですね。なんだか、日曜を挟んだにも関わらず先輩とは毎日会っているような気分です」
「飽きたのか」
「まさか。先輩みたいな妙ちくりんな顔は毎日見たって飽きません」
「……そりゃどうも」
おれは妙ちくりんな顔に渋面を作った。
「それに」と後輩はつづけた。「先輩と毎日会うのもあと数か月ですし、今のうちに、と」
「ま、おれが大学に合格できればだけどな」
「わたしと同級生になるのも面白いですけれど」後輩は両腕でバツを作った。「折角わたしが教えているんですから、一発で合格してもらわないと」
「頼りにしてるよ」
後輩菩薩を拝んでいると、彼女は胸をはった。
「とはいえ忘れないでくださいね。卒業するまで魔法の実験台になること」
「もちろん。約束だからな」
「それは頼もしい。頼りにしていますよ」
突如、肩を揺さぶられる感覚にどきりとし周囲を見回すと、数十台のデスクトップパソコンにそれぞれ対面するクラスメイトたちがいた。
隣の席のクラスメイトが「先生の見回りくるぞ」と囁き、おれは途端に現実を理解した。
受験生とはいえ、当たり前のことだが授業はある。加えて、授業というものは受験科目だけではなく体育を筆頭にしたそれ以外の科目も当然ながらある。昨今は情報化社会と言うこともあり、情報系の授業もうちの高校では組み込まれている。とはいえ、だ。受験生にとって受験科目以外は基本的に邪魔以外の何者でもなく、加えて一つ前の授業が体育だったこともあり、知らぬ間にノックダウンされた意識は夢の中へと潜りこんでいたのだろう。
口端についた睡眠の残り汁を袖で拭い、背もたれに腰かけて伸びをする。起こしてくれた隣人に感謝を伝えようとしたところ、頭上にぱん、という軽い音とともに痛みを感じ振り向く。曲者、と言わんばかりに睨みつけようとしたが相手は情報の教師であり、その気炎は瞬時に吐きだす先を失った。
教師は右手に丸めた「情報」の教科書を持ち、自身の左手を軽くたたいた。
名探偵に謎解きされた犯人の気分でおれは問いかける。
「おれ、なんで叩かれたんでしょうか」
「身に覚えがないと? お前、自分のパソコンの画面見てみるんだな」
『わたしが好きなのは、3うqきodふぁsf rklwjert34wafaういおぺrj3w4あふぉえ……』と画面には打たれていた。枕になっていたキーボードがその証拠を克明に映し出していたようである。これではレストレード警部も名探偵に頼ることなく事件を解決できるに違いない。
おれは素直に謝罪をすると、「ま、おれにバレないようにしろよ」と言い残し、教師は睡眠学習に取り組む不届き物をただすためのパトロールに向かった。
今回の課題はタイピングの練習である。ローマ字で自分の好きなものをタイピングし、そのあとに自分のオリジナルのメールアドレス、そして郵便番号を記入するというものだった。となるとおれの性格からして、好きなものが思いつかずに考えているうち、揺りかごに揺られていたというところだろう。
見ていた夢はえらく克明に思い出せる。何せ今日の朝の登校時の記憶である。そういえば、と今日の後輩の魔法が頭に浮かぶ。『さんゆきゅけびえすてあと、あるじだぶあとある』だったか。
よくも毎日違う魔法を考えつくものだ、と思う。やはり自分と彼女では到底頭の作りが違うのであろうと思わされる。落ち込みそうになって、おれは目の前のそれこそ魔法のように大量に打ち込まれたテキストエディタに立ち向かうことにした。
『わたしが好きなのは、3うqきtodふぁsftrklwjergt34wafaういおぺrj3wp4あrふぉえ……gr』の末尾のrを選択し、3までマウスで選択。あとはデリートを押そうとして、どうにもひっかかるものを感じ、その手を止めた。
『さんゆきゅけびえすてあと、あるじだぶ、りゅあとある』
なぜかこの魔法が脳内をぐるぐると回っていた。おれはテキストエディタの画面を増やし、忘れないようにこれを打ち込んだ。
『さん』と『ある』。
もしかして、それぞれ『3』と『r』ではないだろうか。
そうなれば、『3ゆきゅけびえすてあと、あるじだぶあとr』となる。もし、単にこれは音と副音符を抜いたアルファベットが対応しているのだろうか。そう考えて、タイプをしてみた。
『3(さん)uqkbst、あと、rgw、あと、r』
しかし、わからないのが二回登場する『あと』である。
仮に「あと」が「at」だった場合、tは「と」になる。今度は「t」の「て」という読み方が違ったことになる。それに、「a」は「あ」と読むより、「えー」と読むほうが自然である。
後輩にミノムシ以下と罵られる頭脳では思いつくわけもない。それよりも、さっさと課題を終わらせるほうが有意義である。
おれは『3』から『r』まで選択しなおし、デリートボタンを押した。画面には『おれの好きなものは、』と打たれていた。
――好きなもの?
厄介なことに、魔法を使おうとする自称呪われた女の顔が浮かぶ。
くそう、続きの文が思いつかない。
真似しようと思って隣のディスプレイを横目に見た。『わたしの好きなものはコーヒー牛乳です』。参考にならない。もう一方にしよう。
もう一方は『ワインゼリー』であった。
おれはあきらめて『コーヒーゼリー』と書いた。
あとはメールアドレス。悩むのも面倒だし、普段使っているメールアドレスをそのまま使おう。普段使っているメールアドレスは「m0ero_kobun@domocu.au.jp」である。
「えっと、えむ、ぜろ、いー、あーる、おー、あんだーばー、けー、おー、びー、ゆー、えぬ、あっ……」
なるほどとおれは思って、魔法を書き直す。『あと』というのは英単語ではなく、『@』なのではないだろうか。
『3uqkbst@rgw@r』とディスプレイには浮かんでいる。しかし云々と悩んだところ、仮に『@』だとしても何もわからない。
こうなったら後輩に直接と思ったが、『先輩、大丈夫ですか。受験疲れですか』と言われる未来が克明に浮かぶ。
偶然だろうと思い、課題の締めに郵便番号を入力すべく『3』のキーをたたいた。すると、おれの意図に反して『あ』が入力された。どうしたものかと困っていると隣人が助け舟を出した。
「おまえ、ひらがなキーになってるぞ」
そう言われ、確かにキーボードの『3』の位置には『あ』が同居していたのである。
「あっ」とおれは声を漏らした。そして気がついたのである。魔法の意味に。呪いとは何か。
そして、おれは大声を上げて立ち上がり、二度目の教科書ブレードでの攻撃を食らったのである。後になってわかったことだが、隣人曰く最高に気持ち悪く間抜けな顔をしていたそうな。
いつもと同じくおれは部室に向かう。しかし今日は、これからまさにインバール作戦を決行する気分。季節の影響も相まって背中にすさまじい汗が流れていることだろう。
数え切れぬほど開けたはずの文芸部室のドアを開ける勇気にはたいそう勇気がいった。
開けると、いつもの後輩がいた。いつもの席。いつもの服。
ちらりとおれを見た後、すぐに手元のブックカバーのかかった本に視線を落とした。
いつもならおれはこのまま後輩の隣に座り、数学か物理の本を開くであろう。だが今日は違う。齢18にしておれは覚悟を決めていた。だからまず、入ってきたドアをしめ切ってこう切り出すのである。
「きょうはおれは、お前の呪いを解きにきた」
恥ずかしい。顔からマグマが垂れているよう。
恐ろしい。脚が震える。地面が豆腐になっているに違いない。
胃が痛い。口からすべて吐き出しそう。
しかし、後輩は数え切れぬほどこれをやってきた。馬鹿じゃないか。あんなに頭がいいのに馬鹿じゃないか。――そう、おれがとんでもない馬鹿ってことを気が付かないなんて、後輩は大馬鹿だ。
表情をうかがう余裕などない。そもそも、自分の視線がどこに向いているのか、景色に何が写っているのかが全くわからない。
しかし、もし予想通りならば後輩は数え切れぬほどこれをやってきたのだ。先輩のおれが臆してどうする。
覚悟は決まった。おれは祈るように解呪の魔法を宣言するのである。
「ろくせみえむ、さんゆきゅけびえすてあと、あるじだぶ、りゅあとある!」




