始まり
高校に入学してから早一週間が経過した。あれからというもの、俺たちはしばらく普通の生活を送っていたし、平凡な日々に俺自身、満足していた。しかし、穏便でありきたりな日常はこういう場合、長くは続かないのが漫画や小説の世界である。
今、俺と越智は生徒会室の前にいる。言うまでもなく、時計のことについての用件だ。
「や、やっぱりここは緊張するね…。」
越智が恐る恐るといった様子で口を開く。この一週間で、俺と越智の関係は随分と近づいたと言える。とはいえ、やはりここには独特の空気が漂い、不思議と一週間前に戻ってきたような感覚に陥った。
「そうだな。まあどうせ中に入るとあの会長がとんでもないオーラを纏って待ってんだろ。早く行こうぜ。」
俺が気楽な調子で返答すると、越智は意を決した様子で頷き、生徒会室の扉に手を掛けた。
「あ、開けるよ、遥翔君。」
越智がごくりと唾を飲み込み、扉を開けた。果たして…
俺は思わずがっくりと肩を落としそうになった。決して呆れたわけではない。拍子抜けしたのだ。
中では、例の会長がもう一人の生徒会役員と和やかに紅茶を楽しんでいたのだった。
「ん?ああ、君たちか。どうぞ入って。」
笑顔の会長に促され、俺たちは少し呆然としながらゆっくりと中に入った。
「そろそろ来る頃だと思っていたんだよ。っと…その前に一緒にティータイムでもどうだい?まだしばらく時間がありそうだし。」
相変わらずこの会長は摑みどころがない。にこやかな微笑みの裏にある真意が全くもって読み取れない。相手を見透かそうと見つめながらも、ふと気づくと隣の越智が視線で、どうする?と語りかけている。ここはひとまず相手に乗ることにした。
「それではお言葉に甘えさせていただきます。」
会長は満足気に頷いた。
「お茶と紅茶とコーヒーがあるけど、どうする?」
「じゃあコーヒーをブラックでお願いします。」
俺の素早い応答に対して、越智は少し考えるそぶりを見せると、会長に質問した。
「あの…ちなみにココアはありますか?」
俺は時折、本当にこいつが女の子だと錯覚してしまいそうになる。控えめに発せられた可愛らしい質問に会長は首を縦に振った。
「ココアもあるよ。他のに比べると少し古いけど、それでもいいかい?」
「は、はい!お願いします!」
越智の嬉しそうな顔を見て、俺と会長は顔を合わせて微笑んだ。
「高浜クン。ブラックとココアを淹れておいてくれないかな?」
会長からの指示に、ティータイムの相手をしていた女子が立ち上がると、隣の給湯室へと消えた。
俺たち二人が席に着いてから、頼んだものが出てくるまで、それほど時間はかからなかった。先ほどの女子が二人の前にそれぞれの飲み物を置いた。
「彼女は高浜さん。学級委員長をやっている。」
会長の紹介に預かり、一礼をする。かなり寡黙な性格のようだが、人間性はしっかりしているようだ。
俺は出されたコーヒーを一口含む。
「…インスタントですね。」
「君は僕たちに何を要求しているんだい?」
確かにこの会長なら、ちゃんとした豆でも買ってそうだ、と思わなかったといえば嘘になるが、さすがにそこまで要求をしているつもりはなかった。
「にしても、よくそのまま飲めるねぇ。僕は砂糖とミルクがないとコーヒーなんて飲めないんだけど。」
突如、隣で黙っていた高浜先輩が口を開いた。
「会長は何度言えば分かるんですか。あれはコーヒーではなくカフェオレです。あんな甘いものはコーヒーの隅にも置けません。断固、認めません。」
早口ですらすらと捲したてる高浜氏を見て、俺は第一印象を修正した。人間性がしっかりしているなど、とんでもない、あの会長と渡り合える変人のようだ。
「そんなことは置いといて、君たちは時計について聞きに来たんだよね?」
隣で頬を膨らませるという可愛らしい抗議をしている高浜氏をスルーして、単刀直入に会長が話を進める。正直意外だったが、早く話を済ませてくれるなら、そちらの方がありがたい。
「ええ、その通りです。」
「結局持ち主は現れたんですか?」
越智からのこれまた直接的な問いに、会長はかぶりを振った。
「いいや。そんな話は聞きもしなかったよ。一週間、ずっと手元にあったからね。高浜クン。」
会長に呼びかけられた高浜氏は、先ほどの変わり様がなかったかのように落ち着いた挙動で立ち上がり、会長の机から二つの懐中時計を取り出した。
「これはついでになんだけど、不思議とあの後二人も時計の落し物を持ってきたんだよねぇ。」
『っ!?』
二人は驚きで息を呑む。
「この、時計と似たものを…ですか?」
恐る恐るといった様子で聞いた俺に対して、会長はゆっくり頷く。
「ああ、そうだよ。あれはおそらく乙と丙じゃないかな。もし興味があるなら教えてあげてもいいよ?」
会長は不思議と楽しそうに話している。対する俺は、少なくとも一週間前のように全てを御伽話で終わらせるつもりもなかった。
「教えていただいても、いいんですか?」
控えめに問いかけた俺を、横から越智が憑き物を見るかのような目で見る。俺は少なくとも他人のことになど滅多に興味を示さないからだろう。
「ああ。気になるのならA組の服部さんとD組の森川君の所へ行ってみなさいな。」
会長からの情報提供に、素直な謝意を行動と共に示すと、俺は机の上に差し出された時計を手にして立ち上がった。越智も慌ててそれに追随する。
「高浜先輩。コーヒーありがとうございました。美味しかったですよ。」
俺からの感謝の言葉に彼女は黙って会釈をするとそそくさと元の椅子に戻り、ティータイムの続きを始めた。
「気にしないで。彼女、ああ見えて照れてるだけだから。」
一瞬会長の背後から殺気が沸き立ったように感じたが、何より会長自身が楽しんでいる様子なので放っとこう。後でどうなるかはその時まで分からないが。
「会長もありがとうございました。生徒会活動頑張ってください。」
俺からの挨拶に笑顔で手をヒラヒラさせ、彼も元の席に戻ったのを確認すると、俺は越智を伴って生徒会室を後にした。
*****
早足で教室に向かい歩く俺の後ろを追随しながら、越智は俺に尋ねた。
「どうしたの遥翔君?もしかして、あの話を本気にしてるの?」
俺はその場で立ち止まり、少し息を切らしている越智に向き返った。
「なあ越智。お前は戻りたい過去ってあるか?」
突然の問いかけに越智の顔が歪む。するとそのまま顔を伏せ、押し黙った。嫌なことを思い出しているのだろうか。しかし、今の俺には彼を思いやる余裕も、つもりもなかった。
「俺はお前の過去を知らない。詮索するつもりもない。だけど、俺にはある。還りたい過去が。あの日の選択をやり直したい。その可能性がわずかにでもあるならな。だから、例えそれが夢物語の幻想でも、ひとまず縋ってみようと思う。とはいえ俺たちだってまだ一年だ。時間はたっぷりあるから、ゆっくりとだけどな。」
堰を切ったように心の内をぶちまけると、俺は下を向いたままの越智を放置して踵を返した。さて、これからどうしようか、そう思った瞬間に後ろから声が上がった。
「待って!!」
俺は少し意外感を覚えつつも振り返った。越智は唇を噛み締め、その目には強い光が宿っていた。
「僕にも、あるよ。だから、その、僕も一緒にいいかな。お互いの為に協力して、時計の謎を解き明かしてみない?」
そもそも俺は最初、迷っていた。どちみち俺が時計の謎に迫るためには越智の協力が不可欠だ。しかし、彼自身も伝説にはそれほど興味がないように見えたし、そんな個人的な理由で気弱な彼を巻き込みたくないと思っていた。
だが、どうやら杞憂だったようだ。越智の強い表情を見て俺の迷いは吹き飛んだ。
「こちらこそ、よろしく頼むよ。」
越智の顔が緊張から解き放たれ、緩んだ。こうして二人の友情は新たな局面を迎えたということになる。
ふと見遣った窓の外はようやく雲が去り、数日ぶりの日差しが雲の隙間から覗き込んでいた。